5生 ep.24
部屋の中にはエンヴァを挟むようにレオ王とリナ王妃。
「エンヴァ様、それではお話を聞いて頂いてよろしいかしら?」
真剣なまなざしのレオとリナ。
「ええ、何でもどうぞ」
少しの間を置いて
「……お母さま……?」
王妃リナの瞳から溢れ出したのは、長年、心の奥底に封じ込めていた幼い日の涙だった。
王妃としての矜持も、一国の母としての威厳も、目の前の小さな少女を前にしては砂上の城のように脆く崩れ去る。
「子供の頃、作ってくださった煮豆の味……今でも、はっきりと覚えているのです。甘くて、どこか温かくて、私たちが悪いことをした時でも、お母さまは黙ってそれを皿に盛ってくださいました……」
レオ王もまた、身を乗り出すようにして、絞り出すような声で言葉を重ねる。
「母上、私もです。……その立ち振る舞い、視線の配り方、そして何よりその黄金の瞳。あなたが、あの日の母上でないはずがない。よくぞ……よくぞ、お戻りになられました」
二人の大人が、子供のように肩を震わせて泣いている。
だが、その熱烈な情愛を、エンヴァは静謐な、あまりにも静謐な眼差しで受け流した。
そこにあるのは分厚い「断絶」の壁だった。
「……困りましたわ。お二人とも、相当お疲れのようですわね」
エンヴァは優雅にカップを置き、どこか遠くを見るような、透き通った声で告げる。
「わたくしが、あなた方の母親ですって? 二回りも年上の、立派な王と王妃の? 冗談は、せめて姿かたちに説得力がある時におっしゃってくださいな。わたくしは帝国の第三皇女。それ以上でも、以下でもありませんわ」
その冷ややかな言葉は、決して二人を傷つけるための刃ではない。
しかし、レオとリナは引かなかった。
彼らにとって、この拒絶こそが、母が自分たちを想ってくれている証左に他ならなかったのだ。
「……そうおっしゃる理由があるのも、分かっております。今の貴女は、帝国の皇女様なのですから」
リナが涙を拭い、決然とした眼差しを母に向ける。
「でも、私たちには伝えねばならないことがあるのです。これをお伝えしない限り、お母さまとの時間はあの日で止まったままなのですから」
「母上、お伝えしても……よろしいでしょうか」
もはや、部屋を支配しているのは沈黙ではない。
止まっていた時計の針が、今まさに再び動き出そうとする、激しい胎動の音が響いていた。
「愛しています、お母さま……」 「愛しております、母上……っ」
もはや、人目を憚る余裕すら彼らには残っていなかった。
王妃としての気品も、国王としての威厳も、堰を切ったように溢れ出した涙と共に流れ去っていく。
十数年前、ある日突然、理不尽に奪われた最愛の存在。
どれほど祈っても、どれほど空座となった椅子を見つめても二度と戻らなかった「温もり」が、今、目の前に、手の届く場所に存在している。
エンヴァの左右に膝をつき、縋り付く二人。
右手を握りしめ、子供のように顔を埋めて泣きじゃくる王妃リナ。
左手を取り、その小さな手の甲に涙を落とし続ける国王レオ。
「…………」
その様子を、エンヴァは静かに見下ろしていた。
運命の濁流の中で守りきれなかった「かつての子供たち」。
彼女の白く小さな手は、二人の大人の涙で熱く湿っていく。
涙の雨が上がり、静寂が室内に戻る。 そこでようやく、エンヴァは己の「仮面」をわずかに緩めた。
白く細い両腕を伸ばし、縋り付く二人の頭を、壊れやすい宝物を扱うように優しく、慈しみ深く抱き寄せた。
「……その想い、あなたたちの『お母上』に伝わればいいわね」
耳元で囁かれたその言葉は、あくまで第三者としての体裁を保っていた。
けれど、後頭部に添えられた掌の温もりと、包み込むような柔らかな香りは、紛れもなくかつての母のもの。
レオとリナは、その矛盾に満ちた慈愛の中で、ようやく欠落していた魂の破片が埋まっていくような感覚に浸っていた。
ひとしきり、親子の時間を過ごした後。
少しだけ落ち着きを取り戻した二人は、もう一つの物語——
「もう一組のレオとリナ」の話を切り出した。
「……そう。そうなのね」
エンヴァは、遠い空を見つめるように視線を漂わせた。
雪に閉ざされたあの凍てつく世界。
閉ざされた循環の中で芽生えた、二つの命。
二人の夫のそれぞれから血を分けた、愛おしき子供たちのことを思い出す。
彼女にとって、その再生の記憶は、砂漠の熱砂よりも鮮明に魂に刻まれていた。
けれど。
語り合う二人を眺めるエンヴァの黄金の瞳に、わずかな翳りが差す。
レオ王とリナ王妃は、その「先」を紡ぐことができなかった。
王としての仮面の下で、レオの指先がかすかに震える。
喉元まで出かかった言葉を、鉄の味のする唾液と共に飲み込んだ。
(……殺したのだ。あの二人を、この私が)
再会したばかりの母に対し、どれほど許しを乞うたとしても、これだけは口にできない。
「…………」
二人の間に漂う、喉の奥に焦げ付いたような微かな不協和音。
エンヴァはそれを訝しみながらも、あえて踏み込むことはしなかった。
なぜなら、今の自分は「彼らの母」であることを頑なに否定している、帝国の皇女という身分なのだから。
赤の他人の過去を深く追求する義理も、その権利も、表向きは持ち合わせていない。
エンヴァは優雅に椅子に深く腰掛け、指先でカップの縁をなぞった。
「……母上。この国に、我がレオ王国に留まっていただくことは可能でしょうか?」
沈黙を破ったのは、レオの切実な声だった。
その瞳には、一国の王としての威厳ではなく、一度手放した糸を必死に手繰り寄せようとする者の、震えるような渇望が宿っている。
「お願いです。しばらくの間だけでも……ほんの少しで良いのです。どうか、お願いします」
王妃リナもまた、祈るように両手を組み、エンヴァに縋るような視線を向けた。
失われた十数年を取り戻すには、一夜の対話ではあまりに短すぎる。
彼らは、この奇跡のような邂逅を、形あるものとして繋ぎ止めておきたかった。
だが、その懇願を、エンヴァは静かに、けれど断固として切り捨てた。
「おっしゃる意味が分かりかねますわ。……わたくしは帝国の名代として、公式な訪問のためにここへ参りましたのよ」
「それは……分かっております。ですが——」
「予定は三日間。それを変更する理由は、どこにもございません」
黄金の瞳に、慈悲の色はない。
三日間。
それは、彼女が帝国を出立する前に定めた、動かすことのできない予定。
ここで彼らの情に流され、足を止めることは、帝国の皇女としての彼女の在り方を歪めることに他ならない。
「時間は有限ですわ、レオ王。……三日後の朝には、わたくしはこの国を発ちます」
三日間。
その宣告が部屋に響いた瞬間、レオ王とリナ王妃は絶望する代わりに、どこか懐かしい痛みと共に、幼き日の熱砂の記憶を呼び覚ましていた。
——まだ二人が、母の衣の裾を追いかけていた子供だった頃。
市場には西方からのキャラバンが訪れており色とりどりの布が舞い、見たこともない異国の玩具が並んでいた。
「母上! あの回るコマが欲しい! ずっと回ってるんだよ!」
「母様、見て! あの布、お空の色みたいでとっても綺麗なの!」
瞳を輝かせてねだる二人に、エンヴァは穏やかだが決して揺らがない微笑みを返した。
「……それでは、一つだけ。一番欲しいものを選びなさい。買ってあげますわ」
王妃である彼女、そして王子と王女である二人。
金に糸目をつけず全てを買い与えることも、あるいはその権威をもって献上させることも容易だった。
けれど、彼女は必ず自らの懐から現金を取り出し、正当な対価を支払った。
ふんだんにある「手許金」は、贅沢のためではなく、子供たちに「モノを得るには対価がいる」という世界の理を教えるための教科書だった。
「母様! あのブレスレットもキラキラしてて素敵!」
「あ、母上! 向こうにすごく良い子馬がいます! あれも一緒に!」
目移りし、次々と新しい「欲」に手を伸ばす幼い二人。
だが、エンヴァの黄金の瞳は静かに彼らを射抜く。
「……一つだけ、と言ったはずよ」
そこには、甘えを許さぬ絶対的な一線があった。
どれほど泣いても、どれほど駄々を捏ねても、彼女の「一つだけ」という境界線は、砂漠の地平線のように決して動かなかった。
その厳しさを通じて、レオもリナも学んだのだ。
目先の欲に囚われず、全体を俯瞰し、その中から自分にとって、そして国にとって「最良の選択」をたった一つ選び抜くという王者の矜持を。
「…………」
ふと、レオ王とリナ王妃は顔を見合わせ、同時に小さく、そして切なくほほ笑み合った。
目の前に座る幼き皇女。
その頑ななまでの「三日間」という宣告。
(ああ……本当にお変わりにならない。母上は、決して曲がらない)
記憶の中の厳しい母と、目の前で凛と背筋を伸ばす少女の姿が重なり、溶け合っていく。
「お母さま……一つだけ、どうしてもお願いがあるのですが」
「……何かしら? リナ王妃。わたくしに聞ける願いなら、お聞きしますわ」
レオ王国の平穏は、薄氷の上に成り立っていた。
「魔女エンヴァは、今も王宮の奥底にまします」
そう信じ込む国民たちの信仰心を繋ぎ止めるのは、リナ王妃の嘘と、姿なき影への畏怖のみ。
けれど、時の流れは残酷である。
この十数年一度も姿を見せないエンヴァに対し、市井では密かに不穏な疑念が頭をもたげ始めていた。
「お母さま……。不躾ながら、一つだけ、わたくしの願いを聞いてはいただけないでしょうか」
「……何かしら、リナ王妃。わたくしに叶えられることならば、吝かではないけれど」
「お母さまの服を着て……城壁を歩いていただけませんか?」
リナの言葉に、エンヴァはわずかに片眉を上げた。
「……王妃のお母上の服を、わたくしが着ろ、と? つまりは、わたくしにお母上の代役を演じろとおっしゃるのね」
「はい。不敬は承知しております。ですが、どうか我が国を救うと思って……!」
「構わないわよ。ただ歩くだけなら、造作もないことだわ」
翌日。
レオ王国の高くそびえる城壁の上に、一条の影が降臨した。
纏うのは、かつての女王エンヴァが愛用していた、光すらも拒絶するような漆黒のドレス。
銀の髪が砂漠の風にたなびき、黄金の瞳が下界を見下ろす。
一歩、また一歩。
レオ国王とリナ王妃を従え、悠然と歩を進めるその姿が陽光に晒された瞬間、地上の喧騒は一転、地鳴りのような絶叫へと変わった。
「エンヴァ様だ!!」
「姿をお現しになった! お戻りになられたぞ!!」
「ああ……なんという神々しさだ。十数年前と、指先一つお変わりになられていない!」
群衆の熱狂は、もはや狂信に近い。
黄金の瞳、銀の髪、そして見覚えのある漆黒の衣装。
遠い地上から見上げる国民たちにとって、それが「帝国の第三皇女」であるなどという疑念が入り込む隙はなかった。
ただ、自分たちの繁栄を約束する「不変の魔女」がそこにいる。
その事実こそが、彼らにとってのすべてだった。
(……この靴、歩きにくいわね)
優雅に手を振りながら、エンヴァは内心で毒づく。
「十数年前と変わらぬ背丈」に見せるため、ドレスの裾の下には不自然なまでに底上げされた床が仕込まれている。
リナが徹夜で工作させたというその「舞台裏」は、歩くたびに妙な浮遊感をエンヴァに与えていた。
だが、そんな滑稽な内情など露知らず、国民たちは涙を流して「王国万歳!」と唱和し続けている。
リナは、隣を歩きながら震えるような安堵の吐息を漏らした。
これでいい。この少女が帝国へ去った後も、国民はこの日を糧に、あと数年は魔女の加護を信じ続けてくれるだろう。
そんな欺瞞の嵐のただ中で、主の後ろを一歩下がって歩くセトだけは、畏敬の念を込めてその背中を仰いでいた。
(……やはり、エンヴァ様は格が違う)
セトの瞳には、打算に満ちた政治劇など映っていない。
異国の地へ降り立っただけで、民草がその名を叫び、ひれ伏す。
これほどまでに世界に愛され、畏れられる主。
その絶対的なカリスマを改めて突きつけられ、セトは「彼女を護る盾」としての己の使命を、より一層深く胸に刻み込んでいた。
翌日も、エンヴァと王妃夫妻は穏やかな、けれどどこか緊迫感の孕んだ時間を共有した。
昨日の余韻が残る中、エンヴァは決定的な宣告を口にする。
「イブン王子との婚約はお断りしますわ」
その拒絶に対し、リナ王妃は驚く風もなく、どこか納得したように頷いた。
「ですわよね」
そう短く返す彼女の瞳には、動揺の欠片もなかった。
レオもまた静かに沈黙を守っている。
彼らにとって、この婚約はすでに「別の目的」を達成するための布石に過ぎなかったのだ。
「……イブン王子との婚約はお断りしますわ」
その一言は、凛とした拒絶を孕んでいた。
だが、レオ王とリナ王妃は、互いに視線を交わすこともなく、ただ深く、深く、その言葉を胸の深淵に沈めた。
(……当然だ。お母さまにとって、イブンは孫に他ならないのだから)
リナは、そう心の中で呟いて痛む心を抑えた。
(私と、妹の間に生まれた禁忌の子……。その子を再び母上に差し出そうなど、土台無理な話だったのだ)
同時にレオも思う。
二人は、エンヴァが婚約を退けた真の理由を、誰よりも身に染みて理解していた。
「実は、帝国の皇帝陛下より、ある打診を受けておりまして」
レオ王が、重々しく切り出した。
その言葉に、エンヴァはわずかに視線を動かす。
「お父様から? ……何かしら」
「我が子イブンを、帝国へ留学させてはどうかと。
帝国の進んだ英知と王としての徳を学び、次代を担う立派な王になれるよう、皇帝陛下自ら取り計らってくださるというのです」
(……人質ね)
エンヴァは内心で毒づく。
耳ざわりの良い「留学」という言葉の裏側に隠された、冷徹な帝国の論理。
王家の一人息子を、海を越えた異郷の地へと送る。
それはすなわち、レオ王国が帝国に弓引けば即座に王子の首が飛ぶという、血塗られた契約と同義だった。
「つきましては、エンヴァ様の従者として、イブンを共に帝国へお連れ願いたい」
主の背後に控えていたセトは、その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「お父様がお決めになったことなのでしょう? 構わないわよ」
だが、エンヴァの返答は驚くほどあっさりとしたものだった。
「イブンを呼べ!」
レオ王の声に応じ、部屋に現れた王子は、事の次第を聞かされると淀みない動作でエンヴァに一礼した。
そして、その視線はそのまま、硬直しているセトへと向けられる。
「よろしく頼むよ、セト先輩。分からないことばかりだから、なんでも教えてほしいな」
向けられたのは、一点の曇りもない好青年の笑顔。
エンヴァの遺伝子をそのまま受け継いだ彼は見た目も申し分無く、ただし内面はと言うと「祖母」とは違って明るく社交的な性格。
皮肉も嫌味もなく、心底から「先輩」を慕うようなその眼差しに、セトは反射的に
「滅相もございません」と返すのが精一杯だった。
主の傍らに立つ新たな席を、こともなげに手に入れた「良い奴」すぎる王子。
その爽やかな笑顔が、セトの胸の奥を激しく、そして出口のない苛立ちで悶々とさせるのだった。




