2生 ep.3
だが、彼がどれほど彼女の体内に欲望を刻み込もうとも、三人目の命が彼女の胎に宿ることはなかった。
村の誰もが立ち入らぬ森の奥、エンヴァは鮮やかな色彩を放つ花を見つめていた。 燃えるような赤に、細く鋭い黄色の縁取り。オオコチョウ。 前世、ある地方では「誇り高き美」と称えられた植物。
手慣れた手つきで花弁を摘み取り、持ち帰って地下室で乾燥させると石板の上で粉末にしていく。
それは魔女の知恵。
彼女は自ら煎じたその「毒」を、日常の茶のように煽った。
それは堕胎、あるいは受胎を阻む拒絶の儀式。
それは、エンヴァが前世で100年という歳月を数えていた頃のこと。 森の深奥、俗世を拒絶して生きる彼女の元へ、一人の少女が飛び込んできた。
「森の魔女様、助けてください! このままでは……私は夫に殺されてしまいます!」
泥に汚れ、茨に服を引き裂かれた少女は、必死な形相で虚空に叫ぶ。 普段のエンヴァであれば、関わるのも億劫だと「霧」と「茨」を編み上げ、侵入者を迷わせて森から追い出すだけのこと。実際、その少女も何度も結界に弾かれ、傷だらけになっていたはずだ。
だが、追い返しても、追い返しても。 少女は足や手から血を流しながらも、再び森へと分け入ってくる。
(……ああ。全く、しつこいわね)
その「執念」だけは、魔女の心をわずかに動かした。
エンヴァがそっと指を鳴らすと誰の侵入も許さなかった深い霧がスウーッと引き、狂暴なまでに絡み合っていた茨の壁が、意志を持つ蛇のように道を空けた。
「……魔女様……? ありがとうございます、ありがとうございます!」
霧に導かれ、導かれた先に現れたのは、質素ながらも手入れの行き届いた、異質な美しさを湛える魔女の住処。 跪く少女を、魔女は窓辺から冷ややかに見下ろした。
少女の名はアンナ。
その告白は、あまりに卑俗で、あまりに救いようのないものだった。
戦地へ赴いた兵士の夫。その留守を守るべき身でありながら、彼女は幼馴染との情事に溺れ、あろうことかその種を胎に宿してしまったのだという。この時15歳。
「……それを、自業自得と言うのよ」
エンヴァは、窓辺に置いた薬草の束を整理しながら、一瞥もくれずに言い放った。
アンナの言い分は自分勝手な理屈に満ちていた。
反省の色など微塵もなく、ただ「死にたくない」という剥き出しの生存本能だけが、彼女をこの呪われた森へと突き動かしたに過ぎない。
だが、この国の法は残酷だった。
遠征から戻った夫が、留守中に妻が他人の子を身籠ったと知れば、夫には「不貞の妻」をその場で処刑する権利が公的に保障されている。処刑を逃れる為には妻の実家が夫の身分に合わせた額の賠償金を支払う必要があるのだが、アンナの実家は貧しかった。
「死にたくない! お願い、魔女様! 助けて!」
「ハァ……」
思わず、重い溜息が漏れる。
この世界では、掃いて捨てるほど転がっている話だ。
貴族の婦人や軍人の妻たちが、美形の色男を侍らせることは一種のステイタスとして黙認されていた。しかし、それと「血筋を汚すこと」は全く別問題だ。快楽は許されても、その結果である「命」は許されない。それがこの歪な社会のルールだった。
(……愚かね、特に若い女は)
アンナという少女の放つ、執着と自己愛が混じり合った「生臭い気配」。
それに当てられた私は、一刻も早く彼女をこの森から追い出すことを決意した。
平穏を愛する隠者にとって、自業自得の揉め事ほど退屈で迷惑なものはない。
「夫の帰還は来月だったかしら。なら、時間は十分ね」
私は棚の奥から、数種類の乾燥させた葉と根を取り出した。現代の私が「オオコチョウ」を用いるように、当時の私はより即効性と確実性を重視した配合——特製の「堕胎の茶」を組み上げた。
「これを、指示通りに煎じて飲みなさい。二度とここへは来ないこと」
「……こんなお茶で、本当に効果があるのかしら?」
差し出された茶葉を、アンナは疑わしげに見つめる。だが、魔女の知識は、彼女のような凡愚の想像を遥かに超えていた。
森から追い出された彼女が、半信半疑でその茶を煽ってから二週間。予定の半分という驚異的な速さで、彼女の胎に宿っていた「間違い」は、激痛とともに露と消えた。
しかし、事態はそこで終わらなかった。 アンナという女は、私が思った以上に図太く、そして強欲だったのだ。
半分残った「魔女のお茶」。
その劇的な効果を身をもって知った彼女は、あろうことかそれを、「同じ悩み」を抱える町の有力者の妻へと高額で売りつけた。夫の不在、秘められた情事、そして許されぬ命。
いつの世も、権力の陰には澱んだ秘密が溜まっている。
「素晴らしいわ! どこでこれを手に入れたの? もっと、もっと追加を持ってきなさい!」
高値で取引されたその「茶」は、貴婦人たちの間で「救済」として熱狂的に迎えられた。
味を占めたアンナは、再び森の入り口へと姿を現す。
彼女を責め立てる有力者たちの欲望を背負い、魔女の知識を「金」に変えるための、醜い笑顔を浮かべて。
(……ああ、やっぱり。人間って、本当に救いようがないわね)
森の奥で、私は不快な予感とともに吐き捨てた。
私が与えたのはただの「薬」だったが、彼女はそれを「毒」という名の嗜好品に変えてしまったのだ。
無論、魔女はそのような話に付き合う気はさらさらない。
霧と茨で何度道を阻んでも諦めないアンナはとうとう町の有力者の妻の力を使って「魔法のお茶」を手に入れるべく森の茨を伐採し奥へと進んで来た。
(全く面倒な事ね)
魔女は住処を念入りに隠すと、森を出て放浪の旅に出る。
10年後、国を一周して戻ってきた頃には全ては終わっていた。
ほこりだらけの家屋、すっかり草ぼうぼうになってしまった豆の畑。
魔女は何度も何度もため息をつきながら1年かけて元通りに住処を整えた。
魔女が森を去った翌年、アンナは再び森を訪ねた。 遠征に出た夫の目を盗み、全く同じ幼馴染と、全く同じ快楽に耽り、そして全く同じ「間違い」を胎に宿して。
「お願いです! 魔女様! もう一度だけ! お姿を現してください!殺されてしまいます!」
枯れ果てた声が、沈黙する森に響く。だが、そこに茨の道が開かれることはなかった。 その頃魔女は気まぐれな放浪の果て、西の港町で海風に吹かれていたからだ。彼女に与える「魔女のお茶」は、もうこの森には一葉も残っていなかった。
時は無情に過ぎ、隠しおおせないほどに膨らんだ腹を抱え、アンナは幼馴染と共に逃亡を図る。しかし、皮肉にも出世を遂げた夫が率いる精鋭の騎馬隊が、彼女たちの行く手を阻んだ。
町の広場。処刑用の柱に縛り付けられたアンナを、かつて愛を誓ったはずの男が、氷のような眼差しで見下ろしている。
「やめて……あなた! 子供だけは、この子だけは!」
絶叫は、鈍い音と共に断ち切られた。
ズブリ
法の定めの元、処刑人が手にした槍が、もうすぐ産まれるであろう彼女の膨らんだ腹部を深々と貫く。
「……あ、……ぁ……嫌……嫌ぁ……」
溢れ出す鮮血。内側から壊される命の感触。
隣で処刑される幼馴染の断末魔を耳にしながら、アンナは己の過ちを悔いることもなく、ただ薄れゆく意識の中で、処刑を楽しむ群衆の中にその「影」を見た。
美しく、若い女の処刑に浮かれる群衆。
その中で冷静に、氷のような目でアンナを見つめる一つの影。
——黄金の瞳を持つ、魔女の姿を。
(……なんで、今頃……出てくるのよ……)
それは、放浪の旅から戻った魔女が、ふと立ち寄った処刑場で見せた一瞬の慈悲だったのか。それとも、絶望の果てに彼女が見た呪いの残滓だったのか。
(……クソったれ……魔女め)
アンナは私に向けて呪詛の言葉を吐き、そのまま出血多量で、泥の中に事切れた。
群衆に紛れた魔女は、冷たくなった「かつての少女」を一瞥し、静かにその場を去った
村長の邸宅の奥、誰の侵入も許さないエンヴァの私室には、いつも微かな、けれどどこか尖ったハーブの香りが満ちている。
20歳になった彼女が、日課として欠かさず口にするもの。それはかつて「森の魔女」と呼ばれていた頃、自堕落な少女アンナに与えたものと全く同じ処方を持つ、特製の堕胎薬だった。
それを飲む理由は一つ
「これ以上の面倒ごとを抱えたくないだけ」
エンヴァは時折、一人で森の深奥へと分け入る。鋭い観察眼で選りすぐった野草を摘み取り、自らの手で丁寧に乾燥させ、成分を極限まで濃縮する。そのままでは喉を焼くような苦味があるが、彼女はそこに僅かな果皮や甘味を加え、自分好みの「お茶」へと仕立て上げていた。
湯気の向こうで、琥珀色の液体が静かに揺れる。 この世界において、母体に負担をかけず確実に「間違い」を消し去る薬など、存在しないに等しい。
もしこの処方を公開すれば、村を丸ごと買えるほどの富が得られただろう。
あるいは、跡継ぎ問題に血道を上げる貴族たちが、彼女を黄金の椅子に座らせてでもその知恵を求めたはずだ。
だが同時に、この「薬」は禁忌そのものでもあった。
神の教えが絶対であり、堕胎が「魂を汚す大罪」とされるこの社会において、それは教会を敵に回す死への片道切符でもある。
故に、エンヴァは沈黙を守った。
窓の外では、母が何を飲んでいるのかすら知らないレオとリナが遊んでいる。
空になったカップを見つめ、微かに口角を上げた。




