5生 ep.22
夜の静寂を切り裂くように、馬車の車輪が轍を刻む音だけが響く。
車内には、重苦しい沈黙が横たわっていた。
セトは、自分の膝の上に置かれた両手をじっと見つめていた。
爪の間にこびりついた赤黒い汚れ。
先ほどまで、確かに温もりを持っていた家族の残滓。
まぶたを閉じれば、鮮明に浮かび上がってくるのは、あの「そばかす」の少女の顔だ。
(「はい、騎士様!」……)
はにかんだような声。
差し出された、温かな夕食の湯気。
それが次の瞬間には、絶望に歪んだ表情に変わり、自分の振り下ろした刃によって失われた。
「強くなれ」というエンヴァの言葉に従った結果が、これだ。
自分を守るためではなく、主の平穏を守るために、自分に善意を向けた無実の者を屠る。
それが、この理不尽な世界で「騎士」として生きるということなのか。
「…………っ、う…………」
堪えきれない嗚咽が、セトの喉から漏れ出した。
一度溢れ出した涙は、頬にこびりついた乾きかけの血を溶かし、赤い筋となって顎へと伝い落ちる。
少年は、声を殺して泣いた。
泣いても何も変わらない。
少女は戻らない。
自分の手は、もう二度と白くは戻らない。
「…………う、ああああ…………ッ」
セトの嗚咽は、もはや止まることを知らなかった。
主を守るための正義。
騎士としての義務。
そんな美辞麗句では到底塗り潰せない、生々しい殺人の感触が少年の両手に残っている。
その震える小さな頭を、エンヴァは無言で引き寄せた。
「…………」
返り血で汚れることも厭わず、彼女はセトの頭を自らの胸へと抱き抱える。
華奢な少女の身体からは、死の匂いとは無縁の、微かな香油の香りが漂っていた。
セトはその温もりに、縋り付くように顔を埋める。
(……ごめんなさい。ごめんなさい、騎士様って呼んでくれたのに、僕は……っ)
謝罪は声にならず、ただ涙となってエンヴァの衣を濡らしていく。
エンヴァは、そんな少年の頭を、壊れやすい宝物を扱うように、ゆっくりと、優しく撫で続けた。
その黄金の瞳は、泣きじゃくる少年ではなく、小さな馬車の窓の外——
雲ひとつない夜空に、冷然と浮かぶ月を眺めていた。
夜の帳がゆるやかに剥がれ、地平線が白み始める。
血と涙に濡れた長い夜を走り抜けた一行は、砂漠に浮かぶ奇跡のようなオアシスへと辿り着いた。張り詰めていた緊張がわずかに緩み、護衛の騎士たちは交代で深い眠りへと落ちていく。
「あら、まあ……! なんてことでしょう、皇女様!」
馬車から降りたエンヴァの姿を見て、付きの女官が悲鳴に近い声を上げた。
ディルガムの返り血で真っ赤に染まった絹のドレス。
べっとりと髪にこびりついた、鉄錆の匂いのする乾いた血の塊。
女官は震える手で新しい着替えを用意し、オアシスの清らかな水で、エンヴァの銀髪を丁寧に洗い流していく。
一方、セトもまた、人気のない水際で己の身体を洗っていた。
水を汲み上げ、顔を洗う。
滴り落ちる水は、砂に吸い込まれる前にどろりとした赤色に濁った。
何度洗っても、爪の間に残る感触と、あの少女の泣き声が耳の奥から離れない。
「……そんなしょぼくれた顔をするな。お前の歳で、なかなか成せることではない」
背後から響いた野太い声に、セトの肩が跳ねた。
振り返ると、そこには騎士団長が立っていた。
セトの倍はあろうかという巨躯、鋼鉄の槍を羽毛のように操り、ロングボウで百歩先の獲物を貫く男の中の男。
ーー彼は、貴族の出身ではない。
腕一本、手柄ひとつを積み重ねて成り上がってきた、帝国では珍しい平民出身の叩き上げだった。
「…………団長」
「よく皇女殿下を守ってくれた。礼を言うぞ」
団長の大きな、岩のような手がセトの肩を叩く。
頭を下げることはない。
だが、その言葉には、主の危機を救った「一人の戦士」に対する承認が込められていた。
バンバン、とセトの背中を強く叩く。その重みは、セトが背負った罪の重さを、軍人としての「功績」へと強引に変換していく。
「……これからも、エンヴァ様を頼むぞ。」
それだけ言い残すと、団長は軍靴の音を響かせて去っていった。
それと入れ替わるようにして、砂を踏む軽やかな足音がセトに近づいた。
「セト、エンヴァ様がお呼びよ」
パタパタと走り寄ってきたのは、エンヴァ付きの女官だった。
オアシスの水で髪を整え、完璧な身だしなみを保っている彼女の瞳には、いまだセトを認める色はない。
それも無理からぬことだった。
皇女の身辺を任される彼女自身、帝国でも指折りの名家の令嬢。
彼女にとって、出自も知れぬ元奴隷の少年が、あろうことか皇帝の血を引く殿下の最も近くに侍り、あまつさえ信頼を勝ち得ているという事実は、生理的な嫌悪と嫉妬を伴う「不快」そのものだった。
「はい、ただいま参ります」
セトは短く、けれど淀みのない敬語で応じた。
その声に卑屈さはないが、相対的な「低さ」があった。
セトにとって、この一行の中で、いや、この広い帝国のどこを探しても、自分より目下の者など一人も存在しない。
「……様」をつけて呼ぶべき相手は、皇女や騎士団長だけではない。
廊下を掃き清めるメイドの一人、ゴミを回収する下級役人の一人に至るまで。
彼は常に最底辺の者として、世界のすべてに対して敬語を使うのが常。
皇女のお呼びと言う事で話が通っており、警護の兵士達も道を空ける。
「すみません」
兵士達に頭を下げ、彼らの間を縫うようにエンヴァの天幕へと入るセト。
そこには朝日を照り返すような銀髪の少女がセトの事を待っていた。
そのあまりの神々しさにセトの胸はいつも以上に高鳴る。
朝の光が天幕を透かし、柔らかな琥珀色の空間を作り出していた。
女官の手によって、昨夜の惨劇の痕跡はエンヴァの肌からも髪からも完全に消し去られ、彼女は再び、「帝国の至宝」へと戻っていた。
「……助けられたわね、セト」
ふいに投げかけられたその言葉に、天幕の隅で影のように控えていたセトは、びくりと肩を揺らした。
「あ、いえ……とんでもございません。当たり前のことをしたまでです」
言葉を選び、丁寧すぎるほどの敬語を返す。
けれど、その声はどこか掠れていた。
エンヴァは鏡の中から自分を整えていた女官に、短く視線を送った。
「少し、二人だけで話したいことがあるの。……外してくれないかしら?」
「ですが、殿下、まだお召し物の調整が——」
「聞こえなかったかしら?」
有無を言わせぬ響き。
女官は唇を噛み、心中で渦巻く「元奴隷」への不快感を飲み込むと、深々と礼をして天幕の外へと去っていった。
二人きりになった室内。
セトの視線は、いまだに床の一点を見つめたままだ。
「セト」
近づいてきたエンヴァの気配に、セトは反射的に後ずさろうとした。だが、それよりも早く、彼女の白く小さな両手が、セトの大きく震える手を包み込んだ。
「ひ……っ」
冷たい水で洗ったはずなのに、彼の指先は、まるで凍えそうなほど震えている。
エンヴァはその震えを無視せず、けれど慈しむように、力を込めて握りしめた。
「前を向きなさい、セト」
促され、恐る恐る顔を上げた少年の瞳に、至近距離から注ぎ込まれる黄金の光。
それは魔女の冷徹さか、あるいはすべてを許す神の慈悲か。
「私だけを見なさい」
「……エンヴァ、様……」
「そして、強くありなさい」
天幕を揺らす朝風は冷たいはずなのに、今のセトの身体は熱に浮かされていた。
昨夜の惨劇、あの少女の泣き声、こびりついた返り血の感触
——それまで彼の心を苛んでいた「罪悪感」という名の猛毒が、エンヴァのたった一言によって、まるで春の雪のように跡形もなく溶け去っていく。
「……昨日の、褒美を取らせるわ」
その囁きに、セトの思考は真っ白に塗り潰された。
褒美? 奴隷に? エンヴァ様が?
言葉を返すことすらできず、セトが彫像のように硬直した、その瞬間だった。
ふわりと、甘い香りが視界を覆う。
エンヴァの小さな身体が、重力に逆らうようにセトの胸元へと寄り添い、その細い腕が彼の頭を包み込むように抱き寄せた。
——ハグ。
「っ……!?」
ドクン、と。 セトの心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。
帝国が誇る「至宝」であるはずの皇女が、下賤な元奴隷である自分を抱きしめ、慈しむように髪を撫でている。
その掌から伝わるのは一人の少女としての体温と柔らかさだった。
まるで血が逆流しているかのような錯覚に陥るセト。
(ああ……僕は、この人のためなら、何度でも地獄に堕ちることができる)
もはや、罪悪感などどこにもなかった。
あるのは、この温もりに応えたいという渇望だけ。
これ以上は無い「褒美」が赦しの言葉と共にセトの心身に染み渡る。
「…………」
エンヴァはしばらく、赤ん坊をあやすようにセトを抱きかかえていたが、やがてゆっくりと身体を離した。
だが、その別れ際。
彼女はセトの頬に、自らの頬をゆっくりと、そして深く滑らせた。
ひんやりとしていながら、最高級の絹のように滑らかな感触。
耳元で触れ合う肌の熱が、電流となってセトの全身を駆け抜ける。
「では、準備ができたら出立じゃ。遅れるでないぞ、セト」
「はい! かしこまりました! 命に代えても!!」
先ほどまでの陰鬱な表情はどこへやら。
セトは弾かれたように立ち上がると、これまでで最も力強く、そしてどこか狂気を孕んだ輝きを瞳に宿して、深く頭を垂れた。
オアシスの豊かな水で血の匂いを振り払い、一行は再び南へと走り出す。
やがて、砂漠の地平線の向こうに、壮麗な石造りの門が姿を現した。
レオ王国の門前には、現王レオと王妃リナ、そして着飾った臣下たちが並び立ち、帝国の馬車が静止するのを今か今かと待ち構えていた。
中心に立つレオ王は、威厳に満ちた佇まいを見せている。
だが、その瞳の奥には、どこか割り切れない陰が潜んでいた。
「……帝国第三皇女、エンヴァ殿下の御到着である!」
儀仗兵の号令とともに、馬車の扉が開いた
セトが差し出した手を取り、ゆっくりと土を踏んだのは、銀髪の幼き皇女だった。
黄金の瞳を細め、目の前に並ぶ「かつての子供達」を眺める。
(ああ……大きくなったわね、レオ、それにリナ)
「……お初にお目にかかりますわ、レオ王、リナ王妃。わたくしを歓迎してくださること、心より感謝いたします」
エンヴァは完璧な社交辞令を口にし、優雅にカーテシーを披露した。




