5生 ep.19
平和な開墾の日々。
だが一連の「金策」の影で、皮肉なすれ違いが音もなく芽吹いていた。
離宮の平穏を守るためにセトの母が断った面会の数々。
その名簿の中に、南西の王国レオから訪れた「リナ王妃」の名があったことに、エンヴァが気づいたのは一ヶ月も後のことだった。
「……これは?」
山積みになった書類の整理中、エンヴァの手が止まる。
一通の手紙。
そこには、他人の目にはただの外交文書にしか映らない、けれど彼女にとっては懐かしい筆跡が躍っていた。
セトの母は、その相手が誰であるかを知る由もなかった。
遠方から直々に訪ねてきた貴婦人が、主であるエンヴァにとってどれほど浅からぬ因縁を持つ相手かなど、想像も及ばない。
ただ丁寧に、そして頑なに頭を下げて帰ってもらう。
それが、離宮の主を守るための「正しい」判断であった。
だが、書類の束から「それ」を見つけ出したエンヴァの顔には、隠しようのない寂寥が滲む。
(ああ……。来ていたのね)
手紙の主は、リナ王妃。
かつて「魔女」であった前世のエンヴァがゲルド王との間に子を設け、名前を授けた「娘」。
今は一国の王妃となった彼女からの、切実な祈りにも似た文面が、指先から熱を伝えてくる。
文中にエンヴァに対しての「母」という文言はない。
けれど、どうしても直に会って伝えたいことがあるのだという、震えるような決意が文字の端々に宿っている。
そこには、王子との婚約を願うという政治的な打診とは別に皇女エンヴァの王国への来訪をレオ王と共に心から望むという旨が記されていた。
窓の外では、セトが泥にまみれて畑を耕している。
賑やかな日常と、過去から届いた手紙。
エンヴァはしばし沈黙し、夕闇に染まりゆく書斎で、愛おしげに紙の感触を確かめ続けた。
翌日、彼女は重い腰を上げ、普段は決して近寄ることのない皇帝の執務室へと足を向けた。
黄金の装飾が施された重厚な扉が開く。
玉座に座る皇帝は、不意に現れた末娘の姿に、あからさまにいぶかしげな表情を浮かべた。
これまで「引きこもり」とまで嘲笑されていたはずの娘。
だが、今の彼女が纏う空気は、あまりに濃密で、あまりに鋭い。
「レオ王国へ行ってまいりますわ、お父様」
用件だけを告げる、短く、拒絶を許さない声。
エンヴァの黄金の瞳が、皇帝の視線を真っ向から射抜く。
その瞳の奥に揺らめくのは、「魔女」の残影である黄金の光。
皇帝は、己の娘であるはずの少女に対し、得体の知れない生物と対峙しているかのような戦慄を覚えた。
愛娘としての慈しみなど、そこには欠片も存在しない。
あるのは、ただ「魔女」への恐怖。
下手に引き留めて、その牙が自分に向けられることを、皇帝の直感が拒絶した。
「……好きにするが良い。お前の望むままに。」
吐き捨てるように放たれたその言葉は、娘への信頼ではなく、厄介払いにも似た宣告だった。
「……ありがとうございます、お父様」
優雅に一礼し、背を向けるエンヴァ。
帝国の離宮に、慌ただしい出立の気配が満ちる。 かつては身分を隠して駆け出した道。
だが今回は、皇帝の正式な許諾を得た「皇女の行幸」としての旅路だ。
「あたしも行きたい! 連れてってよ、エンヴァ様!」
裾に縋り付いて涙ながらにせがむミーナに、エンヴァは困ったように眉を下げた。
「今回は、町の市場へ行くのとは訳が違うの。……とても遠い、砂漠の海の向こうまで行くのよ」
「そんなの、頑張りますからぁ!」
収まらない泣き声に、一歩前に出たのはセトだ。
「……ミーナ、母さん。俺がエンヴァ様を必ず守ってみせる。だから、安心して留守番を頼む」
その力強い言葉に、ミーナは鼻を啜りながらもようやく手を離した。
今回の出立は、皇帝の勅許を得た正当なもの。
以前のように「貴族達からの面会要請」に怯えながら過ごす必要はない。
それは残される者たちへの、エンヴァなりの最大の配慮でもあった。
だが、帝国内務省は「はい、そうですか」とセトとの二人きりでの旅を許すほど甘くはなかった。
どこの馬の骨とも知れぬ元奴隷と、皇女の二人旅。
そんな不名誉を許せば、役人たちの首が飛ぶ。
結果、離宮の前には重厚な鎧に身を包んだ兵士30名と、訓練された騎馬隊が整列する事態となった。
馬車には帝国の旗が翻り、騎馬隊の槍先には帝国の旗印がたなびいている。
(……まるで見せ物だわ)
エンヴァは豪華な馬車の窓から、整然と並ぶ護衛たちを眺めて溜息を吐く。
自由は制限されるが、今はこれを利用する他ない。
馬車がゆっくりと動き出す。
まず目指すのは、かつてのディルガム王朝の栄華が眠る「旧ゲルド領」
今は帝国の版図に収まったその古き宮殿で補給と休息を取り、そこから一気に南下してレオ王国へと舵を切る。
蹄の音が石畳に響き、見慣れた王宮の景色が遠ざかっていく。
豪華な装飾が施された馬車の中、エンヴァは退屈そうに頬杖をつき、窓の外を流れる単調な景色を眺めている。隣に控えるのは、礼装に身を包んだセト。
「……馬車の旅というのは、これほどまでに長く感じるものかしら」
エンヴァの独り言に
「……申し訳ありません、エンヴァ様」
「別にセトのせいではないわ、変に気を使わないで」
エンヴァは微かに微笑むが、馬車の外を囲む空気は決して温かなものではない。
彼女が公式に「私の守護だ」と宣言したことで、兵士たちは表向きこそセトを騎士として扱う。
だが、その瞳に宿るのは、明らかな侮蔑と嘲笑だ。
(……ふん、皇女殿下も物好きだ。あんな元奴隷のガキを『守護』などと)
(お飾りの番犬、いや、ただの『玩具』だろうよ。戦場も知らぬ子供が、俺たちの隣を歩くとは片腹痛い)
兵士たちの間に漂う、湿り気を帯びた悪意。
皇女の護衛につく兵士になるとそれなりの家系が求められる。
貴族とは言わないまでも、代々が騎士の家系であったり爵位の低い貴族の次男坊三男坊あたりが多く含まれており、どれも当然ながら元奴隷のセトとは比べるべくもない。
彼らにとって、セトは高貴な皇女が気まぐれに拾い上げた「お気に入りのお人形」に過ぎない。
厳しい訓練を積んできた自負がある彼らにとって、子供の騎士など、退屈な行軍を彩る滑稽な見世物と同じ。
「子供同士、年の近いお友達が必要なんだろうよ」
「皇女殿下のお遊びに付き合わされるガキも大変だな」
すれ違う兵士たちの視線には、一貫してそのような同情と侮蔑が混ざり合っている。
彼らにとって、セトは「騎士」などではなく、孤独な皇女に宛がわれた「動く玩具」に過ぎなかった。
街道沿いの宿場町。
皇女が泊まるという一点において、古びた宿屋は瞬く間に「臨日の王宮」へと作り替えられた。
建物は貸し切りとなり、廊下には重装備の兵士たちが隙間なく立ち並ぶ。
当然のごとく、エンヴァとセトには別々の部屋が用意され、固く閉ざされた扉が二人を物理的に切り離した。
部屋の中では、随行してきた女官が恭しくエンヴァの肌を拭き上げる。
かつて森の中で、セトの指先が震えながら血を拭ってくれたあの時の、剥き出しの熱量などどこにもない。
ただ事務的に、冷ややかに、儀式としての清拭が続く。
やがてテーブルに並べられたのは、先日までの「金策の旅」では考えられなかったような、豪華な「ご馳走」の数々。
「お毒見は済んでおります。どうぞ、お召し上がりください」
女官に促され、エンヴァは銀のフォークを手に取る。
だが、並べられた料理はどれも、毒見に阻まれている間に、すっかり熱を失っていた。
「…………」
一口、冷え切った肉を口に運ぶ。
舌の上に広がるのは、ただの高級な食材の味。
不意に、脳裏を掠めるのは、あの安宿の情景。
隙間風の吹く小汚い部屋で、セトと二人、顔を突き合わせて食べた安価な食事。
香辛料を使うわけでもなく、ただ塩辛くて、けれど湯気が立ち上るほど熱かったあの料理。
「美味しいですね」と笑うセトの顔。
「……ハァ」
ピンク色の唇から洩れた小さな溜息が、冷めたスープの表面を僅かに揺らした。
ーー翌日
馬車の外では、単調な蹄の音と、兵士たちの無機質な鎧の擦れる音だけが響く。
「……馬で駆けられれば、もっと早いのよね」
窓の向こう、陽炎が揺れる砂漠を眺めながら、エンヴァがぽつりと独り言をこぼす。
皇帝の許諾を得た正式な行軍は、安全と引き換えに、あの自由だった旅の速度を奪い去った。
「そうですね。私も騎馬の特訓ができると思っていたのですが……残念です」
向かい側に座るセトが、困ったような、けれどどこか申し訳なさそうな顔で応じる。
「それにしても……」
「どうなさいましたか、エンヴァ様」
「お尻が痛いわ。この馬車、豪華な割には狭いし……振動が直接響くの」
皇女の不満に、セトは
「本当ですね、ハハハ」と小さく笑った。
揺れ続ける狭い空間は、二人にとって決して快適とは言い難い。
セトは少し考えた後、おもむろに自分の上着を脱ぎ始めた。
「これをお尻の下に敷いてみてはいかがでしょう。少しは和らぐかもしれません」
「……いいの?」
素直にその提案に乗り、セトから渡された上着を敷く。
上着一枚の厚みでも、座面に挟めば確かにクッション性が増し、底突きするような痛みが和らぐ。
主の尻の下に上着を差し出した少年の肩は、当然ながら薄着になった。
「……あなたはどうするの? 痛いでしょう」
「私は大丈夫です。男ですから」
そんなことは関係ないだろうに。 エンヴァは心の中でそう呟きつつも、どこか誇らしげな少年の頑固さに、小さく口角を上げた。
「いい考えね」
エンヴァもまた、自らの上着を脱ぐ。
それを二つに折り、セトの上着と合わせて重ね直した。
そして、空いた隣の座面をトントン、と指先で叩く。
「こっちへいらっしゃい。隣に座れば、二人とも痛くないでしょう?」
向かいに座るセトは、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
上着を脱ぎ肩を出している皇女の隣に座る?
一気にセトのボルテージが上昇する。
周囲には、彼を「玩具」だと蔑む兵士たちがいる。
扉一枚隔てた外側には、厳しい規律と儀礼がある。
けれど、この狭く窮屈な馬車の中だけは、二人だけの、誰にも邪魔されない聖域。
セトは、わずかに頬を赤らめながらも、促されるままに主の隣へと腰を下ろす。
重なる上着。
密着する肩の熱。
退屈だった砂漠の景色が、その瞬間から、ほんの少しだけ違って見え始めた。
「……少し、眠るわね」
微かに熱を帯びた声が鼓膜を震わせ、次の瞬間、セトの右肩に柔らかな重みが加わる。
預けられた銀の髪から、わずかに沈香の残り香が立ち上る。
規則正しく刻まれる小さな寝息。
エンヴァは今、無防備な少女として少年の肩にその身を委ねていた。
セトは、わずかに身体を硬くする。
けれど、彼女を起こしてしまわないよう、すぐに力を抜き、自身の肩を彼女の頭に合わせて微調整した。 窓から差し込む西日が、エンヴァの長い睫毛を黄金色に染め上げる。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
ふと、そんな思いが頭を掠める。
セトは、彼女を包み込むようにわずかに身を寄せ、静かに砂漠の景色を見つめ続ける。
目的地に辿り着くのが、これほど惜しいと感じたことはなかった。




