5生 ep.18
王宮の奥深く、エンヴァの離宮。
数日間の「不在」を完璧に隠し通し、極限の緊張感の中にいた二人の女性
――セトの母と侍女のミーナは、帰ってきた二人の姿を見るなり、待ち焦がれたように声をあげた。
「エンヴァ様あああああ! やっと、やっと戻られたあああああ!!」
ミーナが、なりふり構わず泣き叫びながら駆け寄る。
彼女達はこの数日間、連日波のように押し寄せる貴族たちの面会要請や、絶え間ない舞踏会の招待状を、文字通り命を削るような思いで捌き続けていたのだ。
ただの奴隷であったセトの母やその娘であるミーナには過ぎた仕事。
「とにかくエンヴァと会わせろ」
と直接交渉を求める貴族達の使者をただ頭を下げて追い返す数日間は確実に二人の神経をすり減らしていた。
「……エンヴァ様、ご無事で……本当によかった……」
セトの母親も、すっかり憔悴しきった顔で涙を浮かべ、深く頭を垂れる。
皇女の不在が露見すれば、全員の首が飛びかねない。
そんな綱渡りの日々を耐え抜いた彼女たちに、エンヴァは馬から降り立ち、静かにマントを脱いだ。
「ありがとう、二人とも。……よく時間を稼いでくれたわ。助かったわよ」
その労いの言葉に、二人は再び涙を溢れさせた。
だが、彼女たちが次に目を見張ったのは、エンヴァの背後に立つ少年の姿だった。
「……セト? あなた、なの……?」
母親が、信じられないものを見るかのように息子を見つめた。
数日前まで、怯えたように自分の後ろに隠れていた小さな息子ではない。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、何よりその眼差しには、熟練の戦士のような鋭さと、確固たる誇りが宿っている。
「……母さん。ただいま。……エンヴァ様を、お連れしたよ」
その低く落ち着いた声に、ミーナも固まった。
森での冒険から一ヶ月。
血と泥にまみれ、馬を駆り、沈香を掘り起こしたあの自由な日々は、今や遠い夢のようだった。
王宮という名の巨大な檻に戻ったエンヴァを待っていたのは、数十枚の招待状と日々増えて行く縁談、そして「皇女としての義務」だった。
「……グエッ!?」
三度王宮の静寂を切り裂いたのは、およそ皇女らしからぬ悲鳴だった。
鏡の前で、エンヴァはセトの母親によって、コルセットを情け容赦なく締め上げられていた。
「エンヴァ様、あと少しだけ我慢してくださいね。このドレスは、この細さでないと美しく着こなせませんから」
「……死ぬわ……。火あぶりよりもキツいわね……」
酸素を求める魚のように口をパクパクさせながら、エンヴァは愚痴をこぼした。
過去の生で何度も「火あぶり」を経験しているエンヴァだからこそ言える。
その愚痴を聞いていたセトの母もまさか目の前の少女が「火あぶり経験」があるとは思うまい。
皇帝主催、第一王子生誕祭。
次期皇帝の座を狙う野心家と、その寵愛を奪い合おうとする令嬢たちが集う、宮廷最大のイベント。
そこに「引きこもり」を貫き、廃嫡寸前とまで噂されていた第三皇女が参加する。
その報は、瞬く間に王宮内を駆け巡った。
『人ならざる妖精の美観』と噂の、実物を見た者がほとんどいない彼女への好奇心は、今や臨界点に達しようとしていた。
「……セト。準備はいいかしら」
新調された、特注のドレスを纏い、エンヴァは傍らに控える少年に声をかけた。
一ヶ月。
彼女と共に闇を駆け、死線を超えた少年は、今や見事な正装に身を包み、鋭い眼光を隠そうともしない。
セトは「飼犬」から「番犬」へと変貌していた。
「はい、エンヴァ様。……お手を」
セトが差し出した手の上に、エンヴァは細い指を重ねた。
「……行くわよ。せいぜい、あいつらの度肝を抜いてやりましょう」
王宮の静寂を破る、儀典官の朗々たる声。
それは「引きこもりの皇女」が、帝国の社交界という名の毒蛇の穴へ、真っ向から飛び込んだ合図だった
「第三皇女殿下、エンヴァ様——ならびに随伴騎士、セト——、ご入場!!」
その名が響いた瞬間、会場の喧騒が嘘のように引いた。
「あの噂の……」
「幽閉されていたのでは?」
懐疑と好奇が混ざり合った何千もの視線が、大扉へと突き刺さる。
奥に座る第一王子——次期皇帝の有力候補であり、エンヴァの兄——
もまた、母譲りの黄金の瞳を細め、未知の妹を迎え撃とうと身を乗り出した。
ちなみに事ここに至るまで二人に面識は無い。
そして、扉が開く。
「……っ!?」
会場を襲ったのは、光だった。
新調されたドレスを縁取るのは、あの森で剥ぎ取った「銀狼」の毛皮。
シャンデリアの光を反射し、真珠のような輝きを放つ銀の毛並みが、エンヴァの美貌をこの世ならぬものへと押し上げている。
エスコートするセトもまた、泥にまみれていた少年とは思えぬ凛々しさで、随伴としての風格を漂わせていた。
だが、真の衝撃は、視覚ではなく「嗅覚」に訪れた。
(……なんだ、この香りは?)
二人が歩を進めるたび、重厚で、清涼で、魂の奥底までを震わせるような芳香が会場を満たしていく。
森の深淵で、数世紀の時をかけて醸成された「沈香」の極上品。
それを贅沢にもドレスに焚き込み、香りを纏って現れた皇女。
「なんて……なんて素晴らしいドレスなの……」
「あの香りは……まさか、沈香の特級品か!? あんな量を一度に……!」
ざわめきは悲鳴に似た感嘆へと変わり、第一王子すらも椅子から立ち上がった。 音楽が始まると、エンヴァとセトは流麗に舞い踊る。
銀の毛並みが渦を巻き、至高の香りが霧のように広がるその光景は、もはや社交界の縮図ではなく、神話の一節のようだった。
「……見事であった! 我が妹よ、これほどの美しさを持っていたとは!」
踊り終え、平伏するエンヴァに、兄は相好を崩した。
「もったいないお言葉にございます、兄様」
「して、その香りはどこの商人から手に入れた? 帝国の倉庫にも、これほどの質と量はそうはないぞ」
エンヴァは黄金の瞳を密かに光らせ、あらかじめ用意していた「毒」を優雅に差し出した。
「これですか? さる有力者からの献上品ですわ。……まだ手元に残っておりますが、私のような者には過ぎたるもの。陛下に、そして兄様に、孝行の証として献上しようと思っておりましたの」
「おお! なんと殊勝な! 俺も鼻が高いぞ、エンヴァ!」
(……単純ね。けれど、悪い人ではなさそうだわ)
はじめて顔をあわせる兄の器量を値踏みしながら、エンヴァは完璧な社交辞令で会場を支配し続けた。
その影で、ただの高級布地とフリルのドレスを着ていた令嬢たちは、銀狼と沈香の圧倒的な「格の違い」に打ちのめされ、およそ50名が屈辱のあまり泣きながら馬車へ駆け込んだという。
後日。
約束通り皇帝へ残りの香木を献上したエンヴァに、見返りとして「金貨500枚」が下賜された。
当初の目標であった50枚の、実に10倍。
こうしてエンヴァ達は目の前の金銭的な問題からは完全に開放された。
「セト、水路際の土が足りない。もっと盛って」
「はい! かしこまりました、エンヴァ様!」
スコップを振るうセトの声が、晴れ渡った空に響く。
「番犬」セトは、今や手慣れた「農夫」へとその姿を変えている。
「よっこいせ!」
高価な鉄製のスコップで腐葉土を畑に入れて行くセト。
その腐葉土を運んでいるのはあの公爵家から「せしめて」きた荷役用の頑丈な馬車馬だ。
「エンヴァさまー! お昼ごはんですよー!」
離宮の縁側から、ミーナが声を張り上げる。
テーブルを彩るのは、セトの母が焼き上げた芳醇なパンと、鶏肉の旨味が溶け出した熱々のスープ。
「ふぅ……。あと一週間もあれば、土台作りは終わるかしら」
エンヴァは額の汗を拭い、自らが作り上げた「畑」を見つめる。
「帝国の妖精」と謳われたその美貌は、今や腐葉土に汚れ、銀髪には藁の切れ端が跳ねている。
けれど、コルセットで締め上げられていた時よりも、その表情はずっと生気に満ちている。
「そうですね。馬も二頭おります。土を入れ終えたら、犂を引かせましょう」
「……ええ。収穫が、今から楽しみだわ」
魔女の視線の先にあるのは、観賞用の無益な花々ではない。
金貨500枚という軍資金を背景に、彼女は王宮という檻の中に、誰にも依存しない「自給自足の砦」を築きつつある。
そして、夜。
銀狼の毛皮を贅沢に繋ぎ合わせた「狼毛布団」が、寝床を熱で満たす。
市場に出せば金貨数十枚。そんなお宝を、彼女はただの生活用品として使い倒していた。
「エンヴァ様、これ、あったかーい……!」
「……ふふ。そうね、風邪を引かないようにしなさい」
ベッドの中、銀色の毛並みに包まれて、ミーナが幸せそうに目を細める。 外の世界でどれほど醜い争いが渦巻こうとも。
この部屋の温もりと、明日耕す土の感触。
それこそが、今のエンヴァが掴み取った、何物にも代えがたい「自由」の形だった。




