5生 ep.17
森に差し込む朝日は、幾重もの枝葉に遮られ、淡い琥珀色の光となって二人の足元を照らしていた。
昨夜の凄絶な解体作業の名残——
乾いた血の匂いと鉄錆のような空気を切り裂くように、エンヴァの導きで清烈な小川が姿を現す。
二人は言葉を交わすまでもなく、荷物を放り投げるとその冷たい流れへと身を沈めた。
「エンヴァ様、髪を……流します」
「ええ……。お願いするわ」
セトは、自分の汚れなど後回しにしてエンヴァの世話を始める。
昨夜、血で固まってしまったエンヴァの美しい銀髪を、指先で丁寧に解いていく。
清流に溶け出す赤黒い澱みが、下流へと消えていく。
洗われるたびに本来の輝きを取り戻す銀糸は、朝の光を反射して、まるで生きているかのようにセトの指に絡みついた。
「……とりあえず、セトも洗いなさい。残りは自分でやるから」
「はい、了解しました!」
それから小一時間。
セトは川岸に手際よく焚き火を熾すと、肌着を洗い、岩の上で乾かし始めた。
川から上がってきたエンヴァは、水滴を滴らせたまま、一糸纏わぬ姿で火の傍へと歩み寄る。
「肌着が乾くまで、少々お待ちください。……これを」
セトは、予備のマントを広げ、震える手でエンヴァの肩に掛けた。
そのまま一礼して離れようとしたその時、背後から静かな、拒絶を許さない声が届く。
「……あなたも、いらっしゃい」
「えっ……!?」
「寒いでしょう。……入りなさい」
マントの端を持ち上げ、隙間を作るエンヴァ。
セトは心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受けながらも、恐る恐るその「聖域」へと足を踏み入れた。
一つの大きなマントの中に、二人の裸身が収まる。
触れ合う肩、重なる太腿。
お互いの体温が狭い空間で反響し、焚き火の熱を閉じ込めて、温もりが二人を包み込む。
エンヴァとしては体温を維持するのに最適な方法を提示しただけであったのだが、セトにとってはそれどころの騒ぎではない。
(……僕は、エンヴァ様の騎士だ。騎士なんだ。騎士だ……騎士だ……っ!)
セトは正面の炎だけを凝視し、奥歯が割れんばかりに食いしばって、心の中で自己暗示を繰り返した。
すぐ隣には、帝国の至宝、あるいは「妖精」とさえ称される、完璧な造形美。
その柔らかな曲線が、呼吸のたびに自分の肌に触れる。
そんなセトの、鉄の棒のように硬直した横顔を、エンヴァは黄金の瞳を細めてじっと見つめていた。
そして、彼の必死すぎる抵抗が可笑しくてたまらないといった様子で、唇を小さく綻ばせる。
「……ふふっ」
クスリ、と。
初めて耳にする、少女らしい無邪気な笑い声。
セトは、その音色だけで、自分の理性が朝日よりも先に焼き切れてしまうのではないかと、本気で恐怖した。
肌着が乾き、再びいつもの作業服に身を包んだ二人は、さらに森の深くへと歩を進めた。
エンヴァは時折立ち止まっては、見えない糸を辿るように、それでいて迷うことなく藪をかき分けていく。
セトは主の背中を追いながら、指示されるままに薬草を摘み、背負い袋を重くしていった。
森のさらに奥、陽光が届かぬほどに樹冠が重なり合った場所で、エンヴァが不意に足を止めた。
目の前に横たわっていたのは、何百年も前に寿命を終えたであろう、巨木の骸だった。
幹の太さは大人の男が数人がかりで抱えても足りないほどで、その表面は厚い苔と地衣類に覆われ、一部は地面に沈み込むようにして朽ち果てている。
「……ここね」
エンヴァは、その湿り気を帯びた巨大な墓標の、ある一点を指差した。
「セト、ナタを出しなさい。この腐った部分を掘り起こすわよ」
「はい、エンヴァ様!」
二人は巨木に歩み寄り、手に持ったナタを振り上げた。
「ぐちゃり」
という、湿った木質が崩れる鈍い音が森に響く。
表面の柔らかく腐った部分は、まるで泥のように容易く削り取られていった。
しかし、中心部へ近づくにつれ、ナタの手応えは硬質で重いものへと変わっていく。
「……固くなってきたわね。もう少しよ、代わりなさい」
エンヴァが、セトの手からナタを奪うようにして受け取った。
彼女が一撃を振り下ろすと、朽ちた表皮が大きく弾け飛び、中から煤けた黒色に近い、異様に密度の高い木肌が姿を現した。
「……『沈香』ね。この巨木が長い年月をかけて、自らの傷を癒そうとして蓄積した樹脂の塊よ」
エンヴァは、ナタを器用に操り、その黒い塊を丁寧に掘り出していく。
腐敗した巨木の内部で、数世紀の時をかけて熟成された、富豪や王侯貴族が喉から手が出るほど欲しがる「香木の王」。
正直セトにはその価値は全く想像だにできなかった。
「……これで、しばらくはから解放されそうだわ」
エンヴァは、その黒い宝石のような香木を、大切に皮袋にしまい込んだ。
「……しっかり掴まってなさい。一気に距離を稼ぐわよ」
エンヴァが手綱を捌くと、馬は力強い筋肉を躍動させ、来た道を猛烈な勢いで引き返し始めた。
子供の足なら数時間かかるはずの道のりが、あっと言う間に風景の残像となって後ろへ流れていく。
セトは、目の前にあるエンヴァの細い背中を、昨日よりも少しだけ慣れた手つきで抱きしめた。
(馬って……すごい。こんなに早く……)
風を切る速度。
身体に伝わる力強い鼓動。
そして、腕の中に感じる主の柔らかな体温。
セトにとって、この馬上の時間は、単なる移動以上の「魔法」のように感じられた。
陽が傾き、空が燃えるような朱色に染まる頃。
二人は王都を目前に控えた、街道沿いの宿場町へと滑り込んだ。
「……今日はここで休むわ。明日には、王宮に到着するわね」
馬を繋ぎ、慣れた手つきで宿の扉を叩く。
薄暗い宿の廊下を進みながら、セトは思う。
仮にも帝国の第三皇女と奴隷である自分が同じ部屋で寝泊まりするのが当たり前になっている。
自分はもう「ただの奴隷」でも「ただの少年」でもない。
エンヴァの隣で眠ることを許された、彼女だけの「騎士」なのだと。
それは少年特融の自惚れであったのかもしれない。
しかし今のセトにとってはそれが全てだった。
宿屋の質素な夕食を終えた後、二人の間にはもはや言葉を介さずとも成立する「儀式」が始まった。
いつものように肌着を脱ぐとじんわりと汗がにじんだ真っ白な身体が露わになる。
胸を隠そうともせず背中を向ける主に対して湯を使い、布を浸し、肌を清める。
それは数日間の旅で、セトの手の中に、記憶の中に、深く馴染んでしまった日常だった。
「…………っ」
任務達成という、張り詰めた緊張からの解放感のせいだろうか。
それとも、あの血まみれの森で、彼女の深淵を垣間見てしまったせいだろうか。
布を滑らせるセトの視線が、主の白い肢体をなぞるたび、熱を帯びて彷徨ってしまう。
露わになった鎖骨の曲線、柔らかそうな二の腕、そして月明かりを弾く真珠のようなふたつのふくらみ。
(僕はエンヴァ様の騎士だ……。僕は、彼女を守るだけの盾なんだ……!)
セトは爆発しそうな鼓動を必死に抑え込み、自分に言い聞かせるように、心の中でその言葉を何十回、何百回と唱え続けた。
視線を落とし、ただひたすらに、至高の美術品を磨く職人のように振る舞おうとする。
だが、そんな少年の葛藤など、魔女はすべてお見通しだった。
「…………なら、強くなりなさい」
「え……?」
不意に頭上から降ってきた、静かで冷徹な、けれどどこか熱を含んだ声。
セトが顔を上げると、エンヴァは拭かせている身体をそのままに、黄金の瞳でじっと彼を見つめていた。
「……口先だけの騎士なら、私には必要ないわ」
エンヴァは、セトの頬を細い指先でそっとなぞった。
その指先から伝わる冷ややかな感覚に、セトの背筋が凍りつく。
「強くなりなさい。剣でも、あるいはもっと別の形でも。……私が真に『認める』ほどにあなたが強くなったなら。その時は、あなたの好きな褒美を何でもとらせてあげる」
「好きな……褒美……」
その言葉が、セトの耳の奥で、魂の底で、重く、甘く響いた。
それは単なる労いの言葉ではない。
魔女が、自分という存在を賭けて少年に与えた、あまりに過酷で魅力的な「呪い」だった。
「本当……ですか? 」
「ええ。二言はないわ」
エンヴァは微かに唇を吊り上げ、誘惑するように目を細めた。
その瞬間、セトの中で何かが音を立てて崩れ、同時に強固な芯が一本、真っ直ぐに突き通された。
これまでは、ただ守りたかった。
これまでは、ただ捨てられたくなかった。
けれど、今は違う。
彼女が認める強さを手に入れ、対等の権利として、彼女のすべてを「褒美」として要求する。
そんな不遜で、けれど輝かしい野望が、元奴隷の少年の心に、決して消えない火を灯した。




