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転生の魔女  作者: RUSA
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5生 ep.10

本来であれば、ここでエンヴァは帰っても良かった。


面子が何よりも優先される貴族社会において、公爵の顔にこれ以上ないほどの泥を塗ったのだ。


それも、公爵自身が認めざるを得ない「至高の美食」という形で。


明日の宮廷は、エンヴァが編み出したあの赤と白のコントラストが美しい、宝石のような料理の噂で持ち切りになるだろう。




そして同時に、自慢のシェフたちが庭の隅の雑草に敗北した公爵の評判は、見るも無残に地に落ちるはずだ。


だが、これだけでは足りない。




ここに来るために内臓を締め上げたコルセットの恨み。


そして何より、自分の所有物であるセトを、ただの「奴隷」として無下に扱った無礼への罰としてはもう一発位殴っておかねば彼女の気は収まらなかったのである。




「そ、それでは! 本日はエンヴァ殿下へ、我が家が誇る名馬を献上させていただきたく……!」



何とかして崩れ去った面目を繋ぎ止めようと、公爵は必死の形相でエンヴァを馬場へと誘った。

あらかじめ用意されていたのは、陽光を跳ね返すほどに見事な毛艶を誇る、屈強な栗毛の駿馬。


「いかがですか、エンヴァ様! この雄姿!」


「またがってみますかな? この馬ならば、帝都のどの貴族との駆け合いにも後れを取らぬと断言いたしましょう!」




帝国において、年に一度の競走会で勝利を収めることは、貴族にとって最大の誉れ。




公爵は、この名馬を差し出すことで、エンヴァの機嫌を買い、あわよくば自分の影響力の下に置こうと目論んでいた。




だが、黄金の瞳でその名馬を一瞥したエンヴァは、冷ややかな笑みを浮かべて指を差す。



「……それでは、この馬ではなく。あちらをいただくことは可能かしら、公爵?」


指し示された先。


そこには、着飾った貴族たちの視界にも入らぬ庭園の隅。

重い馬車に繋がれ、首を垂れて立ち尽くす、見る影もなく痩せこけた貧相な駄馬がいた。




「またまたご冗談を……! エンヴァ様! あれはただの荷出し用の馬にございますぞ!」


公爵の乾いた笑いが馬場に響く。


しかし、エンヴァの黄金の瞳には一切の揺らぎも、冗談の気配もなかった。




「私には、あの馬が一番早く見えるわ。公爵が連れてきたその『名馬』と勝負してもよくってよ」


その一言で、場の空気が一変した。


公爵の顔色が、驚愕から狡猾な色を帯びた欲望へと、目に見えて変わっていく。




「勝負……と申されましたな。……もし、エンヴァ様が負けたら?」


公爵の声が、期待に震える。




「その時は、好きにすると良いわ。あなた方の望む誰の妻にでもなり、子を成しましょう」


迷いなく言い切るエンヴァ。




そのあまりにも重すぎる賭け金に、周囲の貴族たちは息を呑んだ。


帝国一の美貌と、皇帝の愛娘という至宝。それが、たった一回の競走で手に入るというのだ。




「では、もしエンヴァ様がお勝ちになったら……?」


自らを、そして己の未来を賭けると豪語した少女に、公爵が恐る恐る聞き返す。




「首を一つ、いただけるかしら? ……もちろん、あなたの家臣のね」


エンヴァは、あの日セトを鞭打ったあの使者の方へ、冷酷なまでに美しい視線を向けた。




この狂気じみた提案に、公爵は諸手を挙げて賛成した。




今日の宴は、本来エンヴァという気まぐれな宝石に気に入られるための接待に過ぎなかった。


しかし、この勝負に勝てば、エンヴァ自身が「誰の妻にでもなる」という言質が取れるのだ。




公爵家が皇族の血を取り込み、帝国の頂点へと王手をかける絶好の機会。


「それでは、それでよろしいですな? 異議はございませんな!」


「ええ、公爵。お手柔らかに」


笑顔を浮かべるエンヴァ。




その微笑みに、公爵は一瞬だけ背筋が凍るような不気味さを感じてはいた。


だが、目の前の現実はあまりに自分に有利だ。




一方は、帝国内でも指折りの名馬。 もう一方は、重い荷物を引くことしか能のない、骨の浮き出た駄馬。


公爵の脳裏に、自らの勝利を疑う余地など、微塵も存在しなかった。






「セト、あなたが乗りなさい」


エンヴァの放ったその一言に、会場全体が静まり返った。




一番驚いたのは、指名されたセト本人だ。


「エンヴァ様! あんな……あんな無茶なお約束をなさって!」


青ざめた表情で駆け寄るセト。エンヴァの未来




——「誰の妻にでもなり子を成す」




という絶望的な賭けの重さに、彼の心臓は張り裂けそうだった。


「それに、俺は馬なんて乗れませんよ! 馬車を引く手伝いならともかく!」




「それでいいのよ」


「……へ?」


「おやおや、エンヴァ様! まさかその貧相な駄馬に、馬車をつけたまま走らせる……とでも?」




公爵が耐えきれず、腹を抱えて笑い出した。


周囲の貴族たちも、つられたように失笑を漏らす。


名馬と駄馬の勝負というだけで滑稽なのに、さらに重い馬車を引きずって走るというのだ。




「その通りだけど、何か問題があるかしら?」


エンヴァは涼しい顔で言い放った。




その対角線、公爵家の名馬に跨っているのは、あの日セトを鞭打ったあの使者だ。


彼はかつて王国騎馬隊で実績を残した「元一流の騎士」でもあった。




「馬車と競走だと? くだらん!さっさと終わらせてくれる!」


使者が鼻で笑い、名馬のたづなを強く握る。




「エンヴァ様! 本当に、本当によろしいのですか……!」


涙目で御者台に座るセト。


そんな彼に、エンヴァはただ優雅に、楽しげに手を振ってみせた。




「それでは、馬場を一周して先に戻ってきた方が勝ち! 準備はよろしいか!」


公爵の宣言が響く。




片や、帝国最高の毛並みを誇る駿馬と、鎧を纏わぬ軽装の精鋭。



片や、ガタのきた荷馬車を引き、震える手でたづなを握る元奴隷の少年。



勝負など、始まる前から決まっている——誰もがそう確信していた。




「ええ、いつでも」


エンヴァの透き通るような声が合図となった。




「では行きますぞ! 3! 2! 1……スタート!!!!」


轟音と共に、土煙が舞い上がる。 使者の駆る名馬が、弾丸のような加速で飛び出した。


その鮮やかな走りに、貴族たちから歓声が上がる。




「ハイヤァッ!!」


公爵家の名誉を背負い、使者が鋭い掛け声とともに鞭を振るった。

ものの数分で、あの栗毛の名馬は馬場を駆け抜け、圧倒的な実力差を見せつける……はずだった。




「な……ぜだ! なぜ動かぬ! 走れ、走れッ!!」


だが、信じがたい光景が広がっていた。


最高級の筋肉を躍動させていたはずの栗毛の馬は、そこから一歩も、指一本分すら走り出すことができなかった。




まるで、地面から鉄の杭でも生えて脚を縫い止められたかのように、微動だにしない。


「走らぬか! この駄馬め!!」


逆上した使者は、先ほどまで「名馬」と称えていた相棒を棒で殴りつけ、血がほとばしるほどに鞭を入れ続けた。




「あらあら。……先ほどまで名馬と仰っていたではありませんか、公爵」


観覧席で、エンヴァは扇子で口元を隠し、鈴の音のような声で微笑んだ。




馬の心の中は、すでに魔女の魔力によって完全に支配されていた。


鞭で打たれる痛みよりも、棒で殴られる衝撃よりも、もっと深淵に根ざした「本能的な恐怖」。


その魔女の眼差しに射抜かれた瞬間から、馬にとって「動く」という選択肢は消滅していた。




動けば死ぬ。




魂がそう叫び、筋肉の自由を奪っていたのだ。

馬の目から流れる涙は痛みによるものではない、エンヴァの与えた恐怖なればこその涙。


「頑張ってー! セト! 負けたら承知しないわよ!」




エンヴァは楽しげに、ノロノロと進む荷馬車へ声援を送る。


セトは、名馬が動かない異常事態に目を白黒させながら、必死に駄馬を急かしていた。


「なぜだ! なぜ動かんのだ! 先ほどまで元気に走り回っていたではないか!!」




使者の背筋に、氷のような戦慄が走る。


ふと見上げた観覧席。




そこには、慈悲など一滴も含まれていない黄金の瞳が、自分を「獲物」として凝視していた。




「――首を一つ、いただけるかしら?」




その囁きが脳内に直接響いたかのように、使者は狂ったように再び騎乗し、鞭が折れんばかりに馬を殴りつける。




だが、馬は石像のように沈黙したまま。


……そうして、永遠のようにも感じられた二十分が過ぎた。


セトの荷馬車が、ガタゴトと気の抜けた音を立てながら、ようやくゴールの白線を踏み越えた。


その瞬間、エンヴァが馬の魂を「解放」した。




「ブヒヒヒヒィィィン!!!」


突如として呪縛から解き放たれた栗毛の馬は、狂乱したように使者を振り落とし、恐怖の反動に耐えかねてその場にどうと倒れ伏した。




「賭けは……わたしの勝ちでよろしいですか? 公爵」


エンヴァはゆっくりと立ち上がり、冷たく美しい瞳で公爵を見下ろした。


もはや会場には、誰も声を出す者はいなかった。



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