5生 ep.9
公爵家が誇る広大な馬場。
そこには砂塵一つ舞わないよう、数百人のメイドたちが一斉に水を撒き、帝国最高の調度品が並べられていた。
噂の「妖精」を迎え入れるための、虚飾に満ちた舞台。
公爵家の使者が、勝ち誇った顔で馬車の扉を開く。
「エンヴァ殿下、お足元をお気をつけて……」
だが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
馬車から降り立ったのは、わずか十二歳の少女。
しかし、そこにいたのは「子供」などという生温い言葉で形容できる存在ではなかった。
圧倒的なまでの気品。
そして、美の女神がその気まぐれにすべての情熱を注ぎ込み、奇跡的に完成させてしまったかのような完璧な造形。
陽光を吸い込み、自ら発光しているかのような銀色の髪。
陶器よりも滑らかで、まるで自ら光を放っているような一切の不純物を拒絶する白磁の肌。
そして、すべてを見透かすような冷徹な瞳。
その姿を目にした瞬間、人々は息をすることさえ忘れた。
「…………噂通りだ」
「…………っ」
言葉を発しようとした公爵の喉が、引き攣ったように固まる。
声をかける? 滅相もない。
その完璧すぎる美を前にしては、自分たちの発する言葉そのものが、この場の空気を汚す「穢れ」であるかのように錯覚してしまうのだ。
最初に膝をついたのは、あの日セトを鞭打った使者だった。
彼は恐怖したのではない。ただ、あまりに眩い「光」を直視した報いとして、魂が強制的に屈服させられたのだ。
その連鎖は、音もなく波及していく。
エンヴァは、跪き、震える群衆の中を一人、平然と歩み進める。
彼女が歩くたび、人々は平伏したまま、その影が通り過ぎるのを祈るような心地で待つしかなかった。
「……公爵。私を楽しませてくれるのではなくて?」
鈴の音のように冷たく、けれど残酷なまでに甘美な声。
その一言だけで、会場の温度はさらに数度、氷点下へと叩き落とされた。
ふと我に返った公爵が、震える声で宴の開始を告げる。
エンヴァは、着飾った花婿候補たちの挨拶を冷ややかに受け流していた。
「エンヴァお嬢様、本日はお越しいただき光栄です」
最高級の衣を纏い、自信満々に微笑む大貴族の息子たち。
彼らは12歳の少女を「子供」と侮り、あわよくばその将来を約束された美貌と第三皇女という権威を手に入れようと、甘い言葉を並べ立てる。
だが、エンヴァにとって彼らは路傍の石にすら等しくなかった。
彼女が求めるのは、そんな浅薄な欲動ではない。
会食の舞台は、馬場に併設された豪奢な庭園へと移る。
帝国の粋を集めたシェフたちが、腕によりをかけた山海の珍味を並べる中、エンヴァの黄金の瞳はある一点で止まった。
庭園の隅、観賞用として植えられていた、赤い実をたわわにつけた植物。
「……あれを、頂けるかしら?」
エンヴァの指差した先に、場が凍り付いた。
贅を尽くした渾身の料理には目もくれず、彼女が所望したのは、ただの「観賞用の草」に過ぎない実だったからだ。
「……エンヴァ様、あのようなものをどうなさるのですか? あれはただの飾りでございますぞ」
困惑する公爵を、エンヴァは一瞥だにせず指示を飛ばす。
「チーズと、オリーブオイルを頂けるかしら? あと、少しの塩も」
言われるがままに供された材料を前に、エンヴァは自ら動いた。 薄くスライスされた赤い実に、新鮮なフレッシュチーズを重ね、黄金色のオリーブオイルを回しがける。仕上げに、これまた庭園の隅に生えていたバジルを指先で細かく千切り、香りを立たせて岩塩と共に散らした。
「おお」
貴族達から思わず声が漏れる、それは赤と白のコントラストが美しい宝石のような一皿。
「こんな料理は見たことがない」
シェフ達も固唾をのんでこの様子を遠くから眺めていた。
エンヴァはそれを一口、赤い実とチーズをあわせて優雅に口へ運ぶ。
「うん、とっても美味しいわ」
無邪気な、けれどどこか残酷なまでの笑顔。
彼女はそれ以降、公爵が誇らしげに並べさせた最高級の料理には、指一本触れようとはしなかった。
「……そんなものが、美味しいはずもあるまい。……儂にも、同じものを持ってこい!」
面目を潰されかけた公爵が、吐き捨てるように毒味を命じる。
だが、その一口を咀嚼した瞬間、公爵の顔から血の気が引いた。
「……っ、これは……!!」
瑞々しい実の酸味と、チーズのコク。バジルの鮮烈な香りが鼻を抜け、オリーブオイルがすべてを完璧な調和へと昇華させている。
それは、帝国最高の料理人が、何時間もかけて作り上げたどの皿よりも、圧倒的に「完成」されていた。
「ね、とても美味しいものをご馳走になったわ。ありがとう、公爵」
その言葉に、公爵は一言も返せなかった。
「そんなバカな! 父上、私にもだ!」
と食ってかかった長男も、一口で言葉を失い、ただ呆然と皿を見つめるしかない。
帝国最高の贅を尽くしたつもりが、庭の隅に生えていた「雑草」以下の評価を下されたのだ。
エンヴァは優雅にナプキンで口元を拭い、公爵家のプライドを、まずはその一皿で跡形もなく踏みつぶして見せた。




