5生 ep.6
皇帝の執務室。
重厚な扉が閉ざされた瞬間、先刻まで大陸の主として振る舞っていたフリードリヒの仮面は、音を立てて崩れ落ちた。
「……何の、つもりだ。私を……この帝国をどうする気だ」
椅子に深く沈み込み、震える手で顔を覆う皇帝。
その姿は、十二歳の娘に追い詰められた、ただの怯える男に過ぎなかった。
「お父様。そんなに怖がらないで。私が欲しいのは、帝位でも権力でもないわ」
エンヴァは、豪奢なドレスの裾を揺らしながら、無機質な黄金の瞳で父を見下ろした。
「私が知りたいのは、たった一つ。……この国の『魔女』に会いたいわ」
「なっ……!?」
皇帝の顔から、一気に血の気が引いた。
「そんなものは、いない。……いないと言ったら、いないんだ! 迷信だ、魔女などこの帝国には存在せぬ!」
「……嘘をおっしゃい。お父様のその瞳、その震え。それが何よりの証拠でしょう?」
「もう……もう勘弁してくれ、エンヴァ! 頼むから、静かに……以前のように土でもいじっていてくれればいい。これ以上はもう!」
絶対君主が、実の娘に対して「勘弁してくれ」と懇願する。
それは帝国の歴史において、最も醜悪で、最も真実味を帯びた「敗北」の瞬間であった。
その絶望的な沈黙を切り裂くように、エンヴァの脳内にあの不快な「振動」が響き渡った。
(……坊やをいじめるのを、いい加減にしなさい)
「お姉さま」の声。
それは慈愛を装った、刃のような冷徹さ。
(今すぐその部屋を出ておゆき。さもなくば……すぐに首を落としてあげる)
「……わかったわよ。邪魔したわね」
エンヴァは溜息を吐き、ドレスの裾を払って立ち上がった。
前世で味わった「死の感触」が、まだ首筋を撫でているような錯覚。
皇帝の執務室から自室へと続く、長く冷たい回廊。
エンヴァはドレスの裾を捌きながら、無言で歩を進めていた。
その後ろを、セトが鋭い視線で付き従う。
エンヴァの脳裏には、先ほど見た無様な父の姿が焼き付いて離れない。
大陸の主としての威厳など微塵もなく、ただ「坊や」と呼ばれただけで失禁し、気絶した一人の男。
そして、自分の首を撥ねた張本人である「お姉さま」の、あの甘く、どこか母性すら感じさせる不気味な囁き。
恥も外聞も捨ててダンスパーティなどに参加し、皇帝に直に聞き出そうとした割にはささやかな情報しか得る事が出来なかった。
「ミーナ! ミーナ!!」
普段の冷徹な彼女からは想像もつかない大声。
駆け寄ったミーナが見たのは、豪奢なドレスを半脱ぎにして悶絶する、帝国の「妖精」の成れの果てだった。
「早く! この服を脱がせて! 手が届かないのよ、死んじゃうわ!!」
セトの母――
元奴隷であり、屈強な男顔負けの膂力を誇る彼女が、情け容赦なく締め上げたコルセット。
それはもはや防具を超え、拘束具と化していた。
「ちょっとぉ! こんな堅いの解けないよ! ママは買い出しに行っちゃっていないし!」
「こんなのいつまでも着てられないわ……っ、セトを呼んで! 早く!!」
「……一大事だと伺いました!!」
ミーナに「エンヴァ様が死にそう」と呼ばれ部屋へ飛び込んできたセト。
彼が目にしたのは、すでにドレスを脱ぎ捨て、背中の紐と格闘しながら、豊かな銀色の髪を振り乱すエンヴァの、コルセット一枚になった姿だった。
「うわぁっ!? エ、エンヴァ様! 服を……何かお召しになってください!」
「脱ぎたいのよ!」
ーー魔女の一喝。
セトの目が丸くなり時間が止まる。
「 もう呼吸が止まりそうなの! 恥ずかしがってる暇があったら、早くこの結び目を解きなさい!」
「……こ、ここですか?」
おそるおそる、震える指先がエンヴァの背中に触れる。
熱を持った白い肌と、硬く結ばれた麻の紐。セトはあまりの光栄と恐怖に、ぎゅっと目を瞑って指先だけで結び目を探そうとした。
「いいから、目を開けなさい。……しっかり見ないと解けないでしょ?」
「は、はいっ!」
主の命令に、反射的に目を開ける。
一つ、また一つ。
鋼のように硬い結び目が外れるたび、エンヴァの身体が解放され、甘い吐息が漏れる。
――バサッ。
最後の紐が外れ、重圧から解き放たれたコルセットが床に落ちた。
そこにあったのは、先ほどまで舞踏会で貴族たちが「美の権化」だの「妖精」だのと讃えていた、あまりにも無防備で、透明感に満ちた十二歳の少女の裸身(上半身)だった。
「…………っ」
月明かりに照らされた黄金の肌。
二つの形の良い、まだ膨らみを持たない乳房が嫌が応にもセトの両目に飛び込んでくる。
一瞬、時が止まったかのように見惚れてしまったセトだったが、次の瞬間、顔を林檎よりも赤く染めて叫んだ。
「す、すみません!! 見てません! 全く、何も見てませんからあああ!!」
脱兎の如き勢いで部屋の外へ走り去ったセトの足音だけが、夜の回廊に虚しく響き渡った。
昨夜の「コルセット騒動」から明けた、翌朝。 帝都を包む朝霧が晴れ、菜園には瑞々しい土の匂いが立ち込めていた。
セトは、庭の入り口で立ち往生していた。
昨夜の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。
(……どうやって顔を合わせればいいんだよ)
あの、月明かりに照らされた、雪のように白い肌。
舞踏会のドレスよりも眩しく、神々しさすら感じさせたあの無防備な姿。
「見てません!」と叫んで逃げ出したものの、実際にはその網膜に、帝国最高の至宝とも言える光景を刻み込んでしまっていた。
事実、あの舞踏会の後で一体どこの大貴族の息子があの美姫を射止めるのかという政治的な取引すら始まっていた。
「……遅いわよ、セト。いつまでそこに突っ立ってるの?」
聞き慣れた、少し気怠げな声。
セトが顔を上げると、そこには昨夜の「絶世の美女」の面影を器用に隠した、いつもの作業着姿のエンヴァがいた。
泥よけのエプロンを締め、手には収穫用の籠。
彼女はひたすら、熟した豆の鞘を指先で弾いている。
「あ、ええと……おはようございます、エンヴァ様! その、昨夜は……」
「昨夜? ああ、あの忌々しいコルセットのことね。本当、死ぬかと思ったわ。解いてくれて助かったわよ」
エンヴァは振り返りもせず、淡々と答える。
彼女にとって、昨夜の出来事は「呼吸を確保するための緊急作業」に過ぎなかったらしい。
そのあまりの無頓着さに、セトは拍子抜けすると同時に、心の中で叫ばずにはいられなかった。
(……いや、助かったのはこっちのセリフっていうか!)
セトの視線は、作業に没頭するエンヴァの背中に釘付けになる。 飾り気のない作業着。乱雑にまとめられた銀色の髪。けれど、首筋から覗く肌の透明感や、豆を摘む指先のしなやかさは、昨夜見た「本物の美」そのものだ。
(……綺麗だ。ドレスを着ていようが、泥にまみれていようが、この人はやっぱり、世界で一番……。あの月明かりの下の肌だって、まるで真珠が発光してるみたいで)
セトの脳内では、昨夜の「はだけたエンヴァ」と、今目の前にいる「豆を剥くエンヴァ」が激しく交差し、賛辞の嵐が吹き荒れている。
「……セト。さっきから顔が真っ赤だけど、熱でもあるの? それとも、また昨夜みたいに逃げ出す準備?」
「なっ、逃げません! 逃げませんから! ほら、僕も手伝います!」
セトは慌ててエンヴァの隣に膝をつき、必死に豆に手を伸ばした。
そんな彼の様子を、エンヴァはほんの一瞬だけ横目で見ると、誰にも聞こえないほどの小さな声で、
「……」
セトにだけ聞こえる小さな声で何かを呟くと、少しだけ楽しげに唇を綻ばせた。




