5生 ep.4
「陛下は! なぜ私の所にいらっしゃらぬのだッ!!」
居宮の奥、贅を尽くした調度品が、ヒステリーに震える女の手によって次々と叩き壊されていく。
エンヴァの母――皇帝の第十側室。
彼女の人生は、地方のしがない下級貴族が描いた「一発逆転の博打」そのものだった。
たまたま人並み外れて美しく育った娘を、実家はすべての資産を投げ打って磨き上げた。
その「投資」は見事に成功し、彼女は皇帝フリードリヒの目に留まり、十番目の側室という椅子に滑り込んだ。
だが、そこが彼女の人生の頂点だった。
着飾ることと、田舎仕込みの媚態を振りまくことしか知らぬ女。
広大な帝国を統治する皇帝にとって、そんな「玩具」に飽きるのに時間はかからなかった。
寵愛は移ろい、皇帝の足は遠のく。
そんな中で幸運にも産み落とされたエンヴァは、母にとっての「最後の希望」であり、「皇帝を繋ぎ止めるための鎖」だったはずだった。
しかし。
「あの方も、もう終わりね」
「見てなさいな、あのエンヴァ様を。奴隷と土いじりだなんて……下賎の血は争えないわ」
「陛下は近々、また新しい貴婦人を迎えるそうよ。あの方はそろそろ、実家へ追い出されるんじゃないかしら?」
廊下ですれ違う貴族たちの、牙を隠さない冷笑。
母の神経を削ったのは、自分の凋落そのものよりも、「自分が産んだ駒」が、周囲から「失敗作」と断じられているという事実だった。
(……また始まったわね)
ガシャン、と陶器の割れる音が寝室まで響いてくる。
私は、ミーナが丁寧に折ってくれた寝衣を撫でながら、窓の外の月を見上げた。
「……エンヴァ様、お母様が、また……」
「いいのよ、ミーナ。いつものことでしょう? あの人は、自分を飾る宝石がくすんでいくのが、怖くてたまらないだけなのよ」
側室という地位。
美貌という資産。
そして、唯一の切り札である娘、エンヴァ。
そのすべてが、砂の城のように足元から崩れていく。
母にとって、私が奴隷と共に土をいじるのは彼女の「輝かしい栄華」を汚す、最悪の背信行為なのだ。
(陛下、ねぇ……。)
父である皇帝の事を考えるエンヴァの表情は暗い。
母の神経をすり減らしているのは、他人の噂話ではない。
自分にはもう、何も残っていないという「空虚」そのものだ。
そしてその怒りは、当然のように評判の悪いエンヴァと、私の周囲にいるセトたちへと向けられていく。
「……セト、明日からはより一層警戒しなさい。」
「……御意。」
セトの低く、鋭い声が返る。
十歳の誕生日前夜。
帝国の権力争いの外側にいたはずのエンヴァは、実の母の狂気という、最も身近な炎に炙られようとしていた。
……エンヴァは思い出していた。
帝国に潜む「闇」をエンヴァが知ったのは、たった一度だけ許された父、皇帝フリードリヒとの対面の日だった。
6歳になったエンヴァを初めて目の当たりにする皇帝。
豪華な玉座の間で、エンヴァは初めて父と対峙した。
側室たちが寵愛を競う対象であり、大陸の三分の一を支配する絶対君主。
しかし、娘の顔を覗き込んだ皇帝は、慈愛の言葉をかけることもなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その顔は、娘を迎える父のものではない。
得体の知れない怪物を前にした、恐怖に染まった一人の男の顔だった。
「……っ」
皇帝の瞳の奥、漆黒の虹彩の隙間に、一瞬だけ揺らめいた輝き。 それはエンヴァが前世から持ち越し、今もなお秘めている、あの呪わしい「黄金」。
(……この人、気づいているんだわ)
エンヴァもまた、一瞬で悟った。
父である皇帝の瞳にも、黄金の残滓が混ざっていることを。
「皇帝」という地位が、単なる武力や権謀術数ではなく、魔女の血筋という忌むべき土台の上に築かれた砂上の楼閣であることをエンヴァは気づいた。
「魔女の……子」
父の口から漏れた、震えるような呟き。
皇帝にとってエンヴァは、可愛がるべき娘でも、利用すべき駒でもなかった。
それ以来、二人は二度と会うことはなかった。
皇帝はエンヴァを完全に無視することで、自らの内にある「魔」を否定し続けてきたのだ。
そして、必然エンヴァの母は完全に遠ざけられた。
母の絶望は、いつしか逃げ場のない狂気へと変質していた。
皇帝からの寵愛を完全に失い、宮廷の隅へと追いやられた責任。
そのすべてが、たった一人の「娘」へと向けられた。
「……母様……やめて……」
エンヴァの細い足が、宙に浮く。
皇帝の第十側室。実の母の手は、今、狂気に染まった力で我が子の細い首を締め上げていた。
「あんたさえ産まなければ! なぜ! なぜ普通の子に産まれてくれなかったの!? あんたのせいで……私の人生は……!!」
「グ……、ガ……」
視界が点滅し、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
前世で最強と謳われた魔女であっても、この身体はまだ十歳の子供だ。
首を落とされれば死ぬし、首を締められれば窒息する。
(……本当に、どこまでも自分勝手な人ッ……)
エンヴァにとって、目の前の母の心臓を魔術で握りつぶすなど、瞬きをするよりも容易なことだった。
だが、彼女はそれをしなかった。
ここで「力」を使えば、それはエンヴァが「化け物」であることを皇帝と宮廷に証明することになる。
彼女は、待っていたのだ。
「エンヴァ様から手を放せ!!」
扉を蹴破り、狂犬のような勢いで飛び込んできたのはセトだった。
そしてその背後には、ミーナが必死の思いで呼び集めてきた王宮の警備兵たちの姿。
「皇女殿下に何をするか! 側室様、ご乱心めされたか!」
「お母、さま……」
エンヴァは最後に肺に残った貴重な空気を絞り出し、弱々しく声を漏らす。
衆人環視。
これ以上の証拠はない。
「狂った側室が、皇女を殺害しようとしている」
という完璧な舞台。
「エンヴァぁあああああ!!!」
兵士たちに包囲された恐怖が、母の指先に最後の、致命的な力を込めさせた。
エンヴァの意識が白く染まり、頸椎が悲鳴を上げたその時。
(……もう、いいわよね)
エンヴァの小さな右手が、ギュッと握られた。
それは、母にも警備兵にも決して見えない、極小の魔力による血液逆流。
「――あがっ、あ、あああぁ!?」
次の瞬間、絶叫を上げたのは母の方だった。
エンヴァの首から手が離れる。
母は両手で顔を覆い、目から、鼻から、鮮血を噴き出して石畳へと崩れ落ちた。
「ひ、ひいっ……! 側室様が!」
「エンヴァ様! エンヴァ様!!」
駆け寄るセトの腕の中に、エンヴァの身体が力なく収まる。
「しばし……休む」
と一言言い残し意識を失った。
首に残った生々しい指の跡。
そして、床で痙攣し、二度と光を見ることのないであろう母の姿。
宮廷の医師たちは、これを「極度の興奮とヒステリーによる脳溢血」と診断するだろう。
エンヴァはセトの胸に顔を埋め、誰にも見えない位置で、冷たく、静かに唇を吊り上げた。
医師たちからの報告を受けた皇帝は何も言わなかったが
「側室様の遺体はどう致しますか?法に照らせば皇女殿下の弑逆未遂は遺体であっても広場に晒す事になっておりますが」
という問いに対してだけ口を開いた。
「ーー亡骸は実家に帰すよう、この度の罪は問わん」
こうしてこの事件は闇から闇へ葬られた。
帝国の最上層、外界の喧騒も血の匂いも届かぬはずの「魔女宮」。
そこでは、下界の凄惨な劇など露知らぬ妹分が、安らかな寝息を立てて「お姉さま」の膝に抱かれていた。
だが、その柔らかな髪を撫でる「お姉さま」の瞳だけは、鏡のように階下の真実を映し出している。
「……この、母殺し……」
その一言は、非難でもなければ、同情でもなかった。
自らの手は汚さず、法と周囲の目を利用して、疎ましい血縁を「処理」したエンヴァ。
その徹底した冷徹さと、僅か十歳にして「魔女」としての本質を剥き出しにした業の深さ。
お姉さまは、それを至高の愉悦として味わうかのように、低く、甘く呟いた。
「ふふ……本当に、かわいい子……」
慈しむように妹の身体を抱き寄せると、お姉さまは再び、現世の倫理も時間も超越した「快楽の園」へと、その身体を沈めていった。




