5生 ep.2
「帝国にて王女が誕生!」
帝都で産声を上げた「エンヴァ」の名は、風に乗って瞬く間に王国のレオとリナの元へ届いた。
だが、その報告を耳にした瞬間、若き王レオは執務机を激しく叩きつけた。
「……エンヴァ……だと!? よりによって、なぜ帝国なのだ! 母上は……母上はあそこが、自分を殺した地であることをお忘れか!」
「お兄様、落ち着いて……。母上には母上の、何らかの意図があるのかもしれません。あるいは、まだあちら側では息災……と言っていいかは分かりませんが」
二人が語り合っているのは、かつて魔女エンヴァが使っていた寝室だ。
彼女が「魔女殺し」によって去ったあの日から、調度品一つ、空気の淀み一つ変えてはいない。
二人はまるで、帰らぬ母を待つ迷子の子供のように、夜はこの部屋に身を寄せ合って過ごしていた。
「とは言え、今の母上はまだ赤子同然。……もう少し成長し、言葉を交わせるようになったら、こちらから働きかけるべきでしょう」
リナが確信に満ちた瞳で兄を見つめた。
「ああ……。帝国との親善を深めるという名目で、我が国の王子との縁談を持ちかけてみるか。そうすれば、母上を正当な理由でこの国へ、私たちの元へ連れ戻せる」
レオの言葉に、リナが静かに頷く。
それは、帝国皇女である「母エンヴァ」を王国へと引きずり戻すための策略。
だが――その「王子」という言葉が、部屋に漂う甘く重い沈黙を強調した。
ーー禁忌。
血を分けた双子。 レオとリナ。
二人の間には、ひとりの王子が誕生していた。
二人の間に眠る幼き王子は、かつてのエンヴァと同じ、鮮烈な黄金の瞳を持って生まれてきた。
魔女が遺した歪な愛、そしてそれを狂おしい程に求めてやまない双子。
それは、倫理も道徳も焼き尽くし、ただ「再会」という一点に向けて狂おしく加速していく。
自分たちよりも幼い「母」がもう少し育つまで。
レオ王とリナは時を待つ。
八歳になったエンヴァは、日傘を差し、令嬢たちの黄色い歓声を聞き流しながら賑わう城下町の市場を見下ろしていた。
「あ! 私、あれがいいわ! あれを買うわ!」
侯爵家の令嬢が扇子で指し示したのは、鉄格子の中で鎖に繋がれた、筋骨隆々とした獣人の男。
見世物小屋の獣よりも安く、家畜の羊と同じ値段で、その奴隷は並べられている。
「……それで、どうするの?」
エンヴァが努めて穏やかに、幼女らしい無垢なトーンで尋ねると、令嬢は当然のことを聞くわねと言わんばかりに胸を張った。
「決まってるじゃない! 広場で他の奴隷と戦わせるのよ! どっちが強いか賭けるの、お父様たちもなさっているわ」
「まぁ! ずいぶんと逞しい奴隷をお買いになったのね!」
「羨ましいですわ!」
取り巻きたちが口々に騒ぎ立てる。
彼女たちの目に悪意はない。
ただ、圧倒的な強者の立場から、弱者を「消費」することを、呼吸と同じくらい当たり前の娯楽として享受しているだけだ。
前世の私も、似たような光景を嫌というほど見てきた。
砂漠の過酷な環境下では、奴隷は貴重な「資源」だった。
重い荷を運び、魔物から主人を守り、時には生き延びるための「囮」として置き去りにされる。
(……生きるための非道なら、まだ理解できるわ)
前世の父替わりであったアデルも生きるために、自分の安全を図るために奴隷を消費した。
それは生存競争の一部だった。
だが、この帝国はどうだ。 溢れる富、広大な版図。
その余裕が生み出したのは、命を「おもちゃ」として使い捨てる、底の浅い傲慢さ。
ワクワクとした目で私を見つめる令嬢たち。 私はゆっくりと、檻の列へと視線を走らせた。
戦わせるための肉体も、自慢するための毛並みも、私には必要ない。
「……そうね。じゃあ、私はあの子にするわ」
私が指差したのは、隅の檻でうずくまっていた、痩せこけた小さな影。
獣人ですらない、ただの人間。 泥にまみれ、希望の欠片も残っていないその瞳が、指を刺すエンヴァを見上げていた。
「ずいぶんと弱そうな子を選ばれるのですね、エンヴァ様!」
「衛兵! 檻を開けなさい!」
それは、退屈を持て余した子供たちの残酷な「気まぐれ」でしかなかった。
皇帝の第三皇女と、侯爵家の令嬢が突発的に始めた「決闘」という名の遊び。
だが、その場の空気を敏感に察知したのは、金に汚い奴隷商だった。
「さぁさぁ! 張った張った! 掛け率は1対10だ、人間側の勝ちに万が一の奇跡を信じる奴はいないか!?」
商人の叫び声と共に、市井の通行人たちが黒だかりとなって集まってくる。
一瞬にして成立する賭場。
「お嬢様がた! 毎度あり!」
商人は下卑た笑みを浮かべ、二人の奴隷に使い古しの剣を放り投げた。
「さぁさぁ決闘だよ! まだ張ってないノロマはいないか!?」
人々の小銭が商人の帽子に投げ入れられる喧騒の中、エンヴァは静かにポケットから「金貨10枚」を取り出し、自分が選んだ痩せた少年の足元へ放った。
「まぁ! エンヴァ様、あんな弱そうな子に金貨10枚も? 随分な勝負師でいらっしゃるのね!」
侯爵令嬢が可笑しそうに笑い、自分は金貨3枚を獣人に、取り巻きたちも追従するように金貨を投じる。
当然だ。
筋骨隆々の獣人と、立ち上がるのもやっとのガリガリの人間。
勝負の行方は、火を見るより明らかだった。
「……さぁ、出揃ったな! 決闘開始だッ!!!」
商人の宣言と共に「殺し合い」の幕が上がった。
(……どこまでなら、赦されるのかしら?)
檻の中で繰り広げられる殺し合いを前に、八歳のエンヴァは自問自答を繰り返していた。
彼女が恐れているのは、目の前の獣人の剛腕ではない。
かつて「強大な力」を振るった代償として、格上の魔女に首を落とされたあの瞬間。
恐怖を感じる間もなく落とされた生首。
そんな「魔女一年生」を自負するエンヴァ。
五歳で魔女の記憶を取り戻して以来、彼女が研鑽を積んできたのは、軍勢を滅ぼす大魔法ではない。
「誰にも気づかれないほど小さな改変」
「早くカタをつけておやりなさい! その子供を殺したら、奴隷から解放して差し上げますわよ!」
侯爵令嬢の無邪気な一言が、獣人の瞳に狂気的な生気を宿らせた。
「ウオオオオオオ!」
(奴隷からの解放……。このガキを殺すだけで!)
獣人は確信した。
衆目の中、高貴な少女が放った言葉。
これは千載一遇のチャンスだと。
獣人の放つだんびらが、少年の細い腕を、肩を、容赦なく削っていく。
少年は何とか剣を立てるが、圧倒的な体格差に押し潰され、石畳に膝を突く。
「ウガアアアッ!」
とどめの一撃。
少年の脳天を割らんと振り下ろされる鉄の塊。
その瞬間――エンヴァは、指先すら動かさず、意識の端で極小の魔力を編んだ。
獣人の踏み込んだ足元。
そこにある石畳が、わずか数センチメートルだけ盛り上がった。
ただそれだけの、子供の悪戯にも満たない変化。
「――っ!?」
完璧な踏み込みのはずが、獣人の足首が不自然に折れる。
勢いのまま、巨体は前のめりに、少年の突き出した剣へと吸い込まれるように倒れ込んだ。
――グサリ。
「うおおおおお! 大逆転だ! 小さい人間の勝利ィ!!」
数刻の沈黙の後、奴隷商の絶叫が市場に響き渡る。
獣人の腹を貫いたのは、少年が死に物狂いで握りしめていた錆びた剣。
獣人は2分ほどその場で地面をぐねぐねと動いていたが、その傷は致命傷。
大きく血を吐くとそのまま動かなくなった。
大番狂わせに、賭けに参加した大人たちが頭を抱え、侯爵令嬢たちは「そんなぁ!」と扇子を投げ出した。
「お嬢様! 金貨100枚には届きやせんが……これ、配当ですぜ!」
奴隷商が、かき集めた金貨の詰まった袋をエンヴァに差し出す。
彼女はその中から金貨2枚を下卑た笑みを浮かべる商人の懐に放り投げる。
「毎度!またごひいきに!」
商人に一瞥もくれず少年の前へと歩み寄った。
「そこの者、近くへ」
エンヴァは自分の賭け金10枚を財布に戻すと、残りの膨大な配当金をすべて、血塗れの少年の手に握らせた。
「えっ! よろしいのですか、エンヴァ様!」
「なんてお優しい……!」
取り巻きたちが感嘆の声を漏らす中、エンヴァは少年の耳元で重みを持って囁いた。
「……勘違いしないで。お前は自分の運命を、自分の力で勝ち取った。だからこれは、お前の報酬よ。受け取りなさい、そして自分の人生を生きなさい」
少年――セト。
虚無だった彼の瞳に、初めてエンヴァという特異な少女の存在が舞い降りた。
心に熱い火が灯るのを感じていた。
一方その頃。
帝国の中枢、魔女宮で一人優雅に古書を捲っていた「お姉さま」は、ふっと唇を吊り上げた。
「……ふふ。そんなことくらいで、取って食いはしないわよ。子犬のようにおびえて……本当にかわいい子」
彼女の瞳には、市場の片隅で怯えながら「小さな石」を動かしたエンヴァの姿が、克明に映し出されていた。




