「レオ」と「リナ」 ep.4
魔女エンヴァが戦場の露と消え、ディルガム王が放浪の旅に出てから、十年の歳月が流れた。
ディルガム王都は今、若きレオ王と、慈愛の心で民を導くリナ王女の手によって、帝国との均衡を保ちながらも穏やかな繁栄を享受している。
そんなある日、重厚な王宮の正門に、二人の男女が姿を現した。
ボロボロに擦り切れた旅装束、顔に深く刻み込まれた皺。
その姿は、荒野を何年も彷徨い歩いてきた「放浪者」そのものであった。
「お願いします……。どうか、王にお取次ぎを……。母上に、会わせていただきたいのです」
男が嗄れた声で告げると、門番の衛兵は鼻で笑った。
「ちょ、ちょっと待て。誰が誰の母親だと? お主たち、鏡を見たことはないのか。我が国の守護神、エンヴァ様が誰にでも会えるわけなかろう! それに、どう見たってお主たちの方が年上ではないか。馬鹿なことを申すな!」
衛兵の言葉は正論だった。
「王宮の奥底で永遠の若さを保ち、今も王国を見守っている」
とされる魔女エンヴァ。
その伝説に縋る狂人は後を絶たない。
目の前の男女は、あまりに老い、あまりに疲れ果てていた。
しかし――。
「……っ」
ふと、男が顔を上げた瞬間。衛兵の喉がひきつったように鳴った。 深く刻まれた皺の奥、落ち窪んだ眼窩に宿るその瞳。
陽光を浴びて鈍く輝く、「金色」の瞳。
それは、現国王レオとリナ王女、そして「魔女エンヴァ」だけが持つとされる、この世のものとは思えぬ神聖な色。
(なんだ……この目は。まるで、王や王女殿下と、同じ……)
衛兵の脳裏に、かつてこの国を救った魔女の面影が鮮烈に蘇る。
目の前の男女は確かに老いている。
だが、その瞳に宿る意志の強さと、どこか遠くを見透かすような物悲しい輝きには、ただの流れ者とは言い切れない「説得力」が満ち溢れていた。
「……と、とりあえず、王宮に確認を取る。
宿でも取って二、三日待っておれ。暴れたりすれば、即刻、牢に叩き込むからな!」
衛兵は動揺を隠すように乱暴な口調で言い捨てると、すぐさま報告書を書き上げた。
向かった先は、若き王ではなく、民の声に広く耳を傾け「何でも相談なさい」と微笑む聖母のような王女、リナの元であった。
三日の待機を経て、宿屋に王宮からの使いが訪れた。
告げられたのは、
【リナ王女が直々に面会なさる】
という、奇跡に近い知らせだった。
平民が王女に拝謁するための儀礼として、二人は入念な身体検査を受け、王宮の清らかな泉で長旅の垢を洗い流した。
「新しい服まで……ありがとうございます」
「リナ王女へ感謝を」
王宮より下賜された清潔な平民服に身を包んだ二人は、王宮の奥深く、謁見室へと招き入れられた。
そこは、王女リナとの間に頑丈な格子が設えられた、警護の厳重な部屋であった。
王女までの距離にして三メートル。
万が一の刃も届かぬその隔たり越しに、若き王女は凛とした佇まいで座っていた。
「……母、エンヴァにお目通りを願いたい。どうしても、伝えたい言葉があるのだ」
老いたレオが、震える声で懇願する。
かつて小さな子供だった彼は、今や母よりも、そして目の前の王女よりも遥かに歳を重ねた姿となっていた。
「私からも、ただ一言、お伝えできればそれで良いのです。どうか……どうかご慈悲を」
隣で老いたリナが、目に涙を浮かべて訴える。
その仕草、声の揺れ、二人の
「母に会う為に旅を重ねてきたのだ」
という言葉に嘘は無いように思えた。
格子越しに二人を見つめる、若き王女リナ。
彼女の胸中には、衛兵と同じ、至極真っ当な疑問が渦巻いていた。
「……ちょっと、やっぱりその前に話を聞かせてくれるかしら?」
リナ王女は、静かに、しかし威厳を持って二人を制した。
「母エンヴァの『子供』だと言うのでしょう? でも、見ての通り、あなたたちはどう見ても私や兄様よりも年上だわ。母様はこの王宮の奥で、今も若々しく、美しくあられる。……それなのに、なぜあなたたちが母様の子だと言い張るの?」
厳しい問いかけ。
しかし、リナ王女が二人を即座に追い出さなかった理由。
それは、格子の向こうで涙を流す男女の瞳に、自分と、そして兄と全く同じ「黄金の光」が宿っていたからだ。
それは、魔女エンヴァの血を引く者のみが持つ証。
(……もし本当だとしたら、この十数年、私たちは何を信じてきたというの?)
王女リナの手が、ドレスの裾を強く握りしめた。
目の前の老いた男女は、まるで「自分たちの未来」を見せられているかのような、不思議な既視感を伴ってそこに立っていた。
「ではお話をさせていただきます、殿下」
老いたレオは、とうとうと語りだした。
それは、この王国の公式な歴史には一行も記されていない、もう一つの「家族」の物語であった。
二人の父と、一人の母。
雪深い極限の地で、愛を注ぎ育ててくれた母の温もり。
重婚という禁忌、そして異端審問という残酷な運命。
——火刑に処された父母の最期。
そして、彼らが旅の途中で出会ったという、ある老夫婦の話
——自分たちの母と同じ「心を奪った魔女」の名を持つ、「不老の魔女エンヴァ」の子供であったという、もう一組のレオとリナ。
そこまで話が進んだとき、王女リナはたまらず椅子を蹴って立ち上がった。
「こちらへいらっしゃい」
リナ王女は、衛兵の制止を片手で退け、二人をかつてエンヴァが暮らしていた離宮の奥の間へと導き入れた。
「何か、気が付くことはあるかしら?」
王女の問いに、老いたリナが迷う事なくバルコニーへとふらふらと歩み寄った。
「ああ……お母様。やはり、ここにいらっしゃったのですね」
彼女の視線の先には、手入れの行き届いた小さな豆の畑があった。
かつてエンヴァが愛し、大切に育てていた、あの豆。
リナの頬を、幾筋もの涙が伝い落ちる。
「王女殿下。私が魔女エンヴァの娘である証として……一つ、お料理を差し上げてもよろしいかしら?」
王女リナが、祈るような心地でこくりと頷く。
リナは、迷いのない足取りで竈の隣にある籠へと手を伸ばした。中には、よく乾いた干し豆が入っている。
「……ええ、変わっていないわ」
彼女は慣れた手つきで根菜を細かく刻むと、豆と共に鍋で煮込み始めた。
「えーっと、あったわ」
ふいとバルコニーの隅へ出ると、そこに生えていた赤い葉を三枚だけ摘み取り、鍋へと投入する。
それは、エンヴァが家族のために作り続けてきた、唯一の隠し味。
やがて、部屋の中に何とも言えない、滋味深く懐かしい香りが立ち込めた。
差し出された皿の上にあるのは、まさしく「魔女の煮豆」そのものだった。
「……っ!」
一口、口に含んだ王女リナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
舌の上でとろける豆の甘みと、あの赤い葉がもたらす独特の風味。
それは、母エンヴァが死んだあの日から、この王宮のどんな名料理人も、そして自分自身ですら二度と再現できなかった「母の愛」そのものの味。
「……レオを。レオ王を、すぐに呼んできなさい」
リナは震える声で近侍に命じた。
格子の向こう側の「他人」だと思っていた老人は、今、味覚という魂の記憶を通じて、紛れもない「自分たちの家族」へと変わっていた。
数刻後、王宮の回廊に激しい足音が響き渡った。
政務を放り出し、息を切らせて謁見室へと飛び込んできたのは、若き獅子の威厳を纏ったレオ王であった。
「王の御前である、控えよ!」
衛兵の鋭い制止の声。
その言葉に従い、老いた男女は深く、地を這うような平伏の姿勢をとる。
その背中は小さく、長年の旅の過酷さを物語っていたが、不思議と卑屈な印象はなかった。
「リナ……。先ほどの報告、本当なのか?」
レオ王は妹に問いかけた。その声は微かに震えている。
「はい、お兄様。おそらく……いえ、間違いございません」
リナ王女は、まだ温かみの残る「煮豆の皿」をそっと差し出した。
「『前世』の、母様の御子息ですわ」
「っ!!!」
その一言は、レオ王の胸を貫く雷鳴のようだった。




