4生 ep.25
戦場の中央、帝国軍の心臓部を成す分厚い歩兵の群れ。
その上空に、微かな光を放つ魔力の膜が展開されていた。
それを冷徹に見下ろしながら、エンヴァは自らの内側で、破壊のみを目的とした高密度の魔力を練り上げる。
(数に任せただけの盾……。「消滅」させてあげる)
彼女が持つ魔法の中で、純粋な攻撃に特化した唯一無二の切り札。
発動すれば、帝国軍の本体にぽっかりと穴があくはずだった。
だが――。
「あー! あれダメダメ! 姉さま!」
「はいはい……若い子はせっかちで困るわね」
帝国軍本陣の遥か奥。
お姉さまと呼ばれた女が、退屈そうに右手の薬指を空中で滑らせた。
クルクルと、まるで紅茶をかき混ぜるような所作で描かれた小さな魔法陣。
その瞬間、エンヴァの右手に「不可視の鎖」が絡みついた。
「……っ!? 何……これ……!?」
指先から溢れようとしていた魔力が、逆流するように吸い取られていく。
まるで底なしの沼に腕を突っ込んだかのような、おぞましい喪失感。
(あいつらが……やっているの?)
混乱するエンヴァの脳内に、直接、氷のような女の声が響き渡った。
《そういうのはね、辞めておきなさい》
脳を直接かき回されるような、拒絶しようのない強烈なテレパス。
(そういうの……? やめろ? どういう意味?)
反論を試みようとしたエンヴァの思考を、声は冷酷に踏みにじる。
《迷惑なの。……次使ったら、殺すわよ》
ゾワリ、と背筋に電撃が走った。
殺気とは異なる、決定的な「死」の予感。
弾かれたように振り返ったエンヴァの背後、数センチの地面に、鋭利な「氷の刃」が突き刺さっていた。
「……気づかなかった……」
いつ、放たれたのか。 いつ、背後を取られたのか。
魔力の感知すら間に合わなかった。
幾千もの年月を巡り、世界を自在に作り変えてきた自負。
しかし今、目の前に突きつけられたのは、自分など足元にも及ばない「格上の魔女」の存在。
ここ数回の転生において、常に支配者であったエンヴァの額を、初めて冷たい脂汗が伝い落ちた。
目の前では六万五千の軍勢が鬨の声を上げ、戦象が地響きを立てて迫っている。
だが、今のエンヴァにとって、その光景はまるで遠い異国の出来事のように色褪せていた。
(……迷惑? 魔女が魔女に対して?)
エンヴァは戦況から意識を切り離し、自らの内側へと深く潜り込んだ。
地形を変え、茨を走らせ、数千の命を奪うことまでは「見て見ぬふり」をされていた。
実際、戦局はエンヴァが有利に進めていたのだ。
だが、「消滅魔法」を放とうとした瞬間に、あの理不尽なまでの拒絶が飛んできた。
(誰だか知らないけど、戦の勝敗にはこだわっていないということね)
彼女たちが帝国軍の完全な味方なら、最初から地形変化すら許さなかったはずだ。
つまり、彼女たちの基準は「勝敗」ではない。
(……ねえ。少し、話せるかしら?)
エンヴァは、自らの魔力の糸を、あの「お姉さま」がいると思わしき方角へと、おずおずと伸ばしてみた。
返答は、ない。
ただ、代わりにやってきたのは
――頭蓋骨の内側を、冷たい指先で直接まさぐられるような、生々しく不快な感覚だった。
「……っ」
言葉による対話ではない。
それは、自身の記憶、思考、魔力の構成までを、無遠慮にスキャンされる圧倒的な侵食。
自分の存在そのものが、巨大な顕微鏡の下に置かれた標本になったかのような屈辱と、底知れぬ恐怖。
相手は間違いなく、エンヴァのすべてを「見て」いる
エンヴァは内心で毒づきながら、重い溜息を一つ吐き出した。
神のごとき全能感に酔いしれる時間は終わった。
ここからは、見えない「上位者」の顔色を伺いながら、泥臭く勝利を拾い集める、もっとも嫌いな作業の始まりだ。
「歩兵隊、弓隊一旦下がれ! 陣形を再編しろ!」
凛とした声が戦場に響く。
高地を死守していた将兵たちは、主の確固たる意志を感じ取り、即座に動いた。
「は! かしこまりました、エンヴァ様!」
エンヴァは両手を天ではなく、大地に向けて
グググ……
と重々しく持ち上げた。
それは「消去」ではなく「創造」。
砂漠の砂を、呪術によって無理やり肉体へと変容させる強引な魔術。
轟音と共に、平原に五百体もの「砂のゴーレム」がその巨躯を現した。
「おお……! 奇跡だ!」
「歩兵隊、弓隊、下がれ! ゴーレムたちの道を開けろ!」
熱狂する王国軍を背に、砂の巨神たちが一斉に突撃を開始する。
五万、六万と膨れ上がった帝国の「数の暴力」に対し、エンヴァは「質量」で対抗した。
戦象の牙を掴み、重装歩兵を文字通り粉砕する砂の拳。
帝国軍の前衛は、この予期せぬ「無機質の暴力」に、なすすべなく蹂躙されていく。
(……これなら、大丈夫かしら)
戦況を支配しながらも、エンヴァの意識の端は、常にあの「お姉さま」に向けられていた。
「消滅」ではない。
「地形変化」の延長線上にある物理的な打撃。これなら「理に触れる」事にはならないはずだ。
だが、代償は確実に彼女の魂を削っていた。
(……ちょっと痛いわね、これ)
これまで感じていた魔力放出の快楽は、今や鈍い「魂の痛み」へと変貌していた。
全力で暴れ回ることを禁じられ、繊細な魔力操作を強いられる苦痛。
ゴーレムを維持するたびに、心臓を針で刺されるような疲労感が彼女を襲う。
エンヴァの白い頬には、隠しきれない疲労の色が混じり始めていた。
「背後に敵騎馬隊!砂漠を大回りしてきた模様!数およそ500!」
(……チ)
エンヴァの設定した戦場の外から襲い来る敵に対して
右手をザっと上げると騎馬隊を毒の茨が囲む。
エンヴァの魂がきしむ音がする。
「怯むな! 槍を揃えろ! 攻撃開始!」
帝国軍の将校たちの声には、魔法に対する過剰な恐怖はなかった。
彼らは長年の戦史と経験から、対ゴーレム戦術を骨の髄まで叩き込まれている。
一本の槍が砂に突き刺さったところで大した痛手にはならないが、厚く、縦に並べられた槍の「線」は、砂の巨腕を容赦なく刈り取っていく。
「狙いは足だ! 重心を崩せ!」
砂の拳が届かぬ間合いから、正確無比な長槍の刺突が繰り返される。
訓練された歩兵たちのシステマチックな動きによって、一体、また一体と、砂の巨神たちが崩れ落ち、ただの砂塊へと戻っていく。
(……やはり、一筋縄ではいかないわね)
城壁の上、荒い息を吐きながらエンヴァはその光景を冷徹に見つめていた。
ゴーレムによる足止め。それは予定通りの効果をあげていた。
「よし、陣形再編完了! エンヴァ様、準備は整っております!」
将軍の力強い声。ゴーレムたちが肉の壁となっている間に、城壁の上に並ぶ三万の将兵は再び完璧な射撃陣形を取り戻していた。
「……いいわ。存分に浴びせてあげなさい」
エンヴァの合図と共に、数千の弦が同時に弾かれた。
放たれたのは、先ほどまで温存していた「魔女特製の毒」が滴る黒い矢の雨。
それは「消滅」のような派手な光も、地形を変える轟音も伴わない。 ただ、空を覆う黒い影が帝国軍の頭上へ音もなく降り注ぐだけ。
「防陣! 盾を掲げろ!」
帝国兵は即座に反応し、鋼の盾で天を覆った。
だが、この毒は甘くない。盾を掠め、鎧の隙間を抜け、わずかでも肌に触れれば――。
「ぐ、あああああッ!?」
「熱い、身体の中が……焼ける……ッ!!」
「溶ける!身体が溶ける!」
断末魔の叫びが、帝国軍の前線からドミノ倒しのように広がっていく。
傷口から腐食が始まり、神経を狂わせる。
魔女が最も得意とする「通常戦法」としての化学兵器。
通常戦闘でエンヴァ軍は帝国軍を圧倒していた。
しかし、「魔女の気まぐれ」はその優位を一瞬でひっくり返す。
「お姉さま」はまるでいたずら書きでもするように空中に小さな魔法陣を書いていた。




