4生 ep.20
あれから、数年の月日が流れた。
かつての無国籍地帯に打ち立てられた巨大王朝。
その玉座には、かつての一騎馬隊長に過ぎなかったディルガムが座り、建国の偉業という重責を背負わされている。エンヴァはといえば、その全ての功績を「形だけの王」に押し付け、自らは王宮の片隅に静かな居場所を築いていた。
彼女が日々行うことといえば、足元にまとわりついてくる幼いレオとリナに手を差し伸べることくらい。かつての戦場での苛烈さは鳴りを潜め、今の彼女はただ、穏やかな隠居生活を享受する影の支配者であった。
エンヴァは、かつて「先輩」から聞き、克明に書き記した幾多の生の記録を読み返す。
魔王として魔族を率いた時の「先輩」は、最後まで人間への贖罪を抱えていたという。
自ら勇者に討たれる道を選んだのは、彼女自身が自分に下した断罪だった。
「別に、死んでやる必要は無かった」
記録の中の先輩は、冷淡にそう突き放して見せたが。
あるいは、大陸の半分を支配した征服者としての「先輩」。
幼少期に継承権のある家族を皆殺しにし、恐怖政治を敷いた果てに、別の「魔女」によって力を封印され、家臣たちにめった刺しにされて果てた一生。
「ま、自業自得……じゃがの」
先輩はうっすらと笑っていた。
(――魔女の力を封印? そんなことが、どうやって?)
自分以外の魔女。
前世のエンヴァのように世に隠れる者もいれば、「先輩」のように人間として生き運命を受け入れた者もいる。私、魔女エンヴァを含めて最低でも六人の魔女がこの世にいると先輩は言った。
「ま、世界は広いんだ。全員で6人って訳でも無いと思うがね」
最年長の彼女が語る言葉は、どれも重く、呪いのようにエンヴァの心に沈殿している。
ある時は、一人の男を愛し、その最期を看取ってから自ら首を落とした先輩。
人を裏切り、愛し、裏切られるたびに、先輩は心の断絶を育てていった。
エンヴァは、今の自分をその記録に照らし合わせる。
国を裏切り、滅ぼし、自分に愛を向ける者を殺し、民に畏怖を植え付けた。
全ては、エンヴァが仕掛けた演目。
(――少しは、進んでいるのかしら?)
エンヴァが「赦し」と呼んでいるもの。
それは、魔女としての生を終える「死」そのものだ。
それが数百年後になるのか、あるいは永劫に訪れないのか。
「苛烈に生きれば、そのうち魂なんて勝手に傷つくさ」
先輩の言葉が脳裏に蘇る。
苛烈に、生きる。
その真意を未だ理解し得ないエンヴァは、ただ、あがいてみることに決めていた。
砂漠を統一し、王都を築いたことも、彼女にとっては「苛烈に生きる」ための、ほんの第一歩に過ぎないのだから。
統一王国の王宮、花々が咲き乱れる中庭。
穏やかな木漏れ日の中で「先輩」の備忘録を読み耽っていたエンヴァの元へ、弾んだ二つの足音が近づいてきた。
「母上! 母上!」
「かあさま! お庭に蛇が出ました!」
三年の月日は、赤子だった双子を十歳の少年少女へと成長させていた。
血気盛んなレオが、木の枝を剣に見立てて胸を張る。
「蛇なんて! 私が剣で退治してみせます!」
「アタシも! 手伝うわ!」
元気よく応じるリナ。
彼女もまた、兄に負けじと勇ましい。
そんな二人を、エンヴァは備忘録から視線を外さずに、静かに嗜めた。
「そうね。蛇は毒を持っていて危険だから、近づいては駄目よ」
「でも、ボクがやっつけないと……!」
「いいこと、よく聞きなさい。一生触れずに済むなら、それで良いものもあるの。執着を捨てなさい」
「執着を捨てよ」
つい口をついて出た言葉にエンヴァ自身も少々驚きを隠せずにいた。
「先輩」が教えとして何度もエンヴァに語った「執着」。
その言葉が真に意味する所はまだ彼女自身も読み解いてはいない。
十歳の子供に「執着を捨てろ」という言葉は、あまりに難解で、あまりに重い。
だが、彼らにとってエンヴァは絶対的な母であり、逆らうことのできない「理」そのものであった。
「……はい、わかりました! 母上!」
「わかりました! かあさま!」
素直に頷き、再び庭へと駆けていく二人。
その後ろ姿を、エンヴァは感情の読み取れない瞳で見つめる。
それが母親としての慈愛なのか、あるいは観察者としての冷徹な眼差しなのかは、彼女自身にも定かではなかった。
『できるだけ、苛烈に生きよう』
そう志して、大陸の地図を塗り替えたエンヴァ。
だが、幾千もの生を巡り、魂を削り尽くしてきた「先輩」の目から見れば、今の彼女の「あがき」など、微笑ましいほどに青臭い。
(――私はまだ、魔女一年生、ということかしら)
毒蛇一匹に怯える子供たちを導きながら、エンヴァは自らが築き上げた「平和」という名の揺り籠の中で、未だ見ぬ「赦し」への道を模索し続けていた。
統一王国の象徴たる壮麗な王宮。
その最奥、魔女エンヴァの私室には、不釣り合いな「日常」が鎮座していた。
彼女の強い希望で設置されたのは、金銀の装飾も施されていない素朴な「かまど」。
その上で、年季の入った小さな鍋がことことと音を立てていた。
「そろそろ、煮えたかしら……?」
覗き込むエンヴァの瞳には、かつて戦場を焼き尽くした冷徹な光はなく、ただ穏やかな期待が宿っている。 鍋の中で踊っているのは、王宮のバルコニーに作られた小さな畑で、彼女自らが育て、収穫し、乾燥させた豆たちだ。
(何度生まれ変わっても――)
エンヴァという存在の本質。
それは、国を滅ぼす魔力でも、男を狂わせる美貌でもない。
カチカチに乾燥した豆が、熱と水を得てふっくらと美味しく煮戻る。
ただそれだけのことに、彼女の心には一輪の小さな花が咲く。
それは「魔女」という永劫の孤独を生きる彼女が、唯一手放さなかった、あるいは手放せなかった、ちっぽけで尊い人間としての「執着」だった。
その光景を、部屋の入口から静かに眺めている男がいた。
統一王国の「顔」として祭り上げられた夫、ディルガムである。
(……あんな、人間らしい所もあるんだな)
巷では「災厄の魔女」「裏切りの魔女」と恐れられ、蛇蝎のごとく忌み嫌われる妻。
かつて目の前で先代の王を刺し殺したその手が、今は丁寧に灰汁を掬っている。
そのあまりに家庭的で無害な横顔に、ディルガムは複雑な吐息をつきながらも、彼女の好きにさせていた。
魔女が豆を煮ている間だけは、この世界に血の雨は降らない。
彼はそれを、束の間の安寧として受け入れていた。




