4生 ep.13
ゲルド王国の王宮。 重厚な石造りの謁見の間は、北方の大国らしい威圧感に満ちていた。
その中心、何百もの近衛兵と重臣たちの視線に晒されながら、エンヴァはただの愛らしい少女としてそこに立っていた。
「そちが魔女エンヴァか! 砂漠を割り、兵を裏返すと聞いた。恐ろしい魔法を操るらしいな!」
玉座に座るゲルド王の野太い声が響く。
だが、エンヴァは怯えるどころか、小首を傾げて鈴の鳴るような声で応えた。
「めっそうもございません。私にそのような力はございませんわ」
あまりに堂々とした、そして無垢な否定。
周囲の空気が一瞬、戸惑いに揺れる。
しかし、彼女の口から続いた言葉は、その場にいた全員の背筋に冷たい刃を突き立てるものだった。
「もし……もし私にそのような恐ろしい力があったなら。今ごろ、ここにいる皆様全員が『裏返って』いるでしょうし、我が王国はその機を逃さず攻め込み、このゲルド王国は灰燼に帰していると思いますわ。……しかしそうはなっていない、それが答えではありませんか?」
敵国の心臓部で、王の顔を真っ向から見据えて言い放たれた言葉。
「生かされていることに感謝しなさい」という残酷な逆説。
ゲルド王は言葉に詰まった。
目の前の少女からは、魔力の波動も、殺気も、禍々しいオーラすら感じられない。
合図一つで衛兵に首を跳ねさせられる、華奢で儚い「ただの女」にしか見えなかった。
だが、その「見えなさ」こそが、深淵の底知れなさを物語っていた。
「コホン……しかし、そちは美しいな」
王は、思わず本音を漏らした。
砂漠の過酷さを一切感じさせない、透き通るような肌と黄金の瞳。
数多の美女を愛でてきた王の目から見ても、彼女の美しさは「妖精」という言葉すら生温い、奇跡のような造形だった。
「どうだ? 儂の息子の一人の妃にならんか? 貴国への講和の証として、悪くない話だと思うが」
「……申し訳ございませんが、過分なお計らいに感謝いたします。ですが、それはご辞退申し上げますわ」
エンヴァは優雅に、しかし一片の迷いもなく断った。
王は、彼女が放つ不思議な引力に抗えず、不機嫌になるどころか、魅了されたような溜息をついた。
「そうか。ならば、せめてなるべく予の前にその顔を見せにきておくれ。退屈な政務の合間の慰みが必要なのだ」
こうして、エンヴァはゲルド王宮に「最愛の客」として迎え入れられた。
エンヴァの知識と知見は聡明と呼ぶにふさわしく、ゲルド王は何事もエンヴァを呼んでは国の方向性までも決めるようにまで篭絡されていた。
エンヴァがゲルドへと去り、代わりにもたらされた黄金と「砂漠の薔薇」。
王都では、ゲルド側の強い要請に応える形で、イブンとステラの婚礼の儀が盛大に執り行われた。
「イブン王万歳! 王妃ステラ様万歳!」
街中が祝杯の酒と歓声に包まれ、国民は「平和」と「美しき王妃」の到来を無邪気に祝福した。
だが、その喧騒の中心にいる新郎の心は、凍りついたままだった。
イブンは、王としての責務を機械的にこなしていた。
隣に立つステラは、確かにゲルドが誇る至宝のごとき美貌を持っていた。しかし、その香油の匂いも、滑らかな肌の感触も、イブンの内側に巣食う「エンヴァ欠乏症」という名の焦燥を埋めることはできなかった。
婚礼からひと月。
「第一王妃殿下がお越しです、王」
侍従の声に、イブンは重い腰を上げる。
このひと月の間に、何度か義務的に肌を合わせた。
それは王としての継承者を残すための「仕事」であり、情愛の通った交わりではない。
ステラ王妃は、鋭い知性を持つ女だった。
彼女は、夫の心を奪ったエンヴァに対して、世俗的な「嫉妬」を抱いていたわけではない。
政略結婚の道具とされるのは王家に生まれた女の宿命であり、強大な母国軍を退けた南の英雄王の妻になることに、不満などなかった。
(……だが、この男は何を見ているのか)
ステラの目の前にいるのは、大陸に名を轟かせた勇猛な王ではない。
自分を抱きながら、どこか遠く……北の空の果てにいる魔女の影を追っている、抜け殻のような男。
ステラにとって、イブンという男への執着はすでに枯れていた。
代わりに彼女の心に積み重なっていたのは、夫をこれほどまでに無力な操り人形に変え、自分という「薔薇」をないがしろにしたまま姿を消した、魔女エンヴァに対する無自覚な嫌悪感だった。
「王、今宵は少しお疲れのようですわね」
ステラは、冷ややかに微笑みながらイブンの隣に座る。
「ああ、すまんな」
うなだれた様子のイブン王。
(・・・チッ)
彼女の嫌悪は、やがてゲルドへ送られた「魔女」を排除せんとする決意へと変わろうとしていた。




