4生 ep.12
国内の反乱こそ鎮めたものの、北方の大国・ゲルド王国との戦いによる傷跡は深かった。
国境沿いの町は焼かれ、財宝は奪われ、何より多くの国民が「奴隷狩り」によって連れ去られた。
エンヴァの介入で王都への直接侵攻を食い止めたとはいえ、ゲルドの国力はいまだ健在。
対するイブン軍は、再編成したばかりの疲弊した六千のみ。
「クソッ……! 攻め込もうにも、これ以上の動員は不可能か!」
「ゲルドは東西にも国境を接する大国。我らが全兵力を北へ向ければ、手薄になった背後を他国に突かれます」
「……ここは講和を。屈辱ではありますが、今は国を休める時です、イブン様!」
家臣たちの必死の訴えに、イブンは苦渋の決断を下した。
「……致し方ない。使者を出せ」
ゲルド側から返ってきた講和条件は、予想に反して「破格」の好条件だった。
・現在の国境線を不可侵とする。
・ゲルド側が先日の敗戦の責を負い多額の賠償金を支払う。
・連れ去られた国民(奴隷)の「半分」を無条件で返還する。
「なんと……! 我が国にとって、これ以上ないほど有利な条件ではないか!」
「ゲルド側も、先日の敗退に肝を冷やしているのでしょうな」
大臣たちもこの「大盤振る舞い」にほくそえんでいる。
さらに、ゲルドは王位継承権を持つ第三王女・ステラを、人質兼・妃としてイブンの元へ送るという。 だが、その見返りとして提示された最後の一条が、謁見の間を凍り付かせた。
『——対価として、魔女エンヴァを人質としてゲルドへ引き渡せ』
「…………ふざけるな」
イブンは独り、深紅の帳が下りた執務室で頭を抱えていた。
王としての理性は理解している。
エンヴァ一人を差し出せば、多額の金が入り戦乱によって傾いた国庫財政を健全化できる。
三つの大きな戦いを経た王国は疲れ切っていた、王宮を一歩出れば死体が転がっている事も珍しくない状況。
そして奪われた民の半分が戻り、大国の王女を娶ることで国の格が上がる。
そして北の大国と対等な不戦同盟を組む事が出来る。
それは、亡き父アデルさえ成し遂げられなかった理想的な平和の形だ。
だが。
(俺に……エンヴァ様を捨てろと言うのか?)
イブンは決断を下すことができなかった。
それから一か月。
しびれを切らしたゲルド側からの使者の一団が王都へと到着する。
王宮の広場には、目が眩むほどの黄金が積み上げられていた。
それは、ゲルド王国が提示した「誠意」の証。
そしてその中央、百合のような気品を纏って馬車から降り立ったのは、「砂漠の薔薇」と謳われる第三王女、ステラだった。
「はじめまして、イブン王。貴方の勇名は、我が国まで届いておりますわ」
凛とした声、吸い込まれるような瞳。
一カ月もの間、決断を先延ばしにし、精神的に追い詰められていたイブンにとって、その純粋な「美」は毒のように回った。一瞬、彼女を娶り、平和を手にする未来を夢見てしまうほどに。
しかし、その背後に控える使者の言葉が、彼を冷酷な現実へと引き戻す。
「同盟の調印はいつになさいますかな? イブン王。我らも、長くは待てませぬ」
「……吉日を選ぼう。少し考えさせてほしい」
その煮え切らない態度は、王としての威厳を欠いていた。
使者の瞳に、侮蔑の色が混じる。
「我が王は、貴国の奮戦に最大の敬意を表し、この黄金と王が最も愛する王女を差し出された。……よもや、流れるなどございますまいな?」
それは、明白な脅迫だった。
もし断れば、この黄金は軍資金に代わり、ステラは返還され、ゲルドの数万の軍勢が再びこの国を灰にするだろう。今度は、手加減なしに。
ーー王都での決戦はエンヴァのお蔭で事なきを得た。
しかし、その他の戦場では全て負けていた、結果多くの国民が死ぬか奴隷となった。
「明日……明日返事をする。今日はゆっくりと休まれよ」
逃げるように執務室へ籠もったイブン。
彼はまだ、エンヴァには何一つ話していなかった。
夜の静寂が、イブンを苛む。
豪華な装飾が施された自室は、今や彼を閉じ込める牢獄だった。
(黄金……民の半分……そして、ステラ王女。王として選ぶべき道は、決まっている)
理性の声は、エンヴァを引き渡せと囁く。
彼女一人を差し出せば、この国には空前絶後の繁栄が訪れるだろう。民は喜び、父アデルを超えた「賢王」として歴史に名を残すに違いない。
(けれど……! エンヴァ様を渡せば、俺はどうなる?)
イブンは自分の喉元を触れた。 そこには見えない「鎖」がある。
彼女に尻を焼かれ、彼女に絶望を見せられ、そして彼女の圧倒的な力に魂を売った。
彼女のいない玉座など、ただの冷たい石の椅子だ。
ステラ王女の美しさも、エンヴァが放つあの「死の香り」を伴う魔性には到底及ばない。
「俺は……、俺はどうすればいいんだ……!」
暗闇で頭を抱えるイブンは一人悶えていた。
運命の朝、王宮の広間は凍り付くような緊張感に包まれていた。
黄金の積まれた馬車、着飾ったゲルドの使者たち、そして「砂漠の薔薇」ステラ王女が、イブンの口から発せられる「答え」を待っていた。
イブンは一睡もできぬまま、憔悴しきった表情で玉座に座っていた。
王としての理性は「講和」を、男としての心は「拒絶」を叫び、彼の精神は今にも千切れそうだった。
だが、その沈黙を破ったのは、当の魔女エンヴァだった。
彼女は、まるで隣町へ買い物にでも行くような軽やかな足取りで広間へ現れると、絶望の淵にいるイブンを見下ろして、当たり前のように告げた。
「ちょっと、行ってくるわ。……留守番を頼むわね、イブン」
「え……?」
イブンの喉から、掠れた声が漏れた。
彼女は知っていたのだ。
この一ヶ月、彼が何を隠し、何に苦悩していたのかを。
そして、ゲルドが自分という「毒」を求めていることもその目的もすべて。
「あ、あああ……っ!!」
イブンは玉座から崩れ落ち、その場に膝をついて泣き崩れた。
王としての威厳も、英雄としての虚飾も、すべてが涙と共に流れ落ちる。
ゲルドの使者たちが困惑の表情を浮かべる中、エンヴァは泣きじゃくるイブンの耳元で、冷たく、けれどどこか楽しげに囁いた。
「ちゃんとしないと、また尻を焼くわよ」
その言葉に、イブンはビクリと肩を震わせた。
あの日、彼女に刻まれた尻の火傷はまだ癒えていない。
馬に乗る度に感じたその痛みが、皮肉にも彼に「彼女が自分の主人である」という現実を再認識させた。
エンヴァは使者たちを促し、用意されていた豪華な馬車へと足を向けた。
ステラ王女が、信じられないものを見るような目でイブンを見つめる中、彼は必死に顔を上げ、去りゆく魔女の背中に向かって叫んだ。
「必ず……必ず戻ってきてくれ! エンヴァ! 愛しているんだ! 愛しているんだ、お前を!!」
家臣たちも、ゲルドの王女も、そして使者たちも、そのあまりに剥き出しの告白に息を呑んだ。
一国の王が、一人の少女に、これほどまでに醜く、切実に愛を乞う姿を誰が予想しただろうか。
エンヴァは馬車のステップに足をかけ、振り返ることなく、気だるげに言った。
「……考えておくわ」
扉が閉まる。
馬車が砂塵を上げて走り出す。
あとに残されたのは、積み上げられた黄金と、美しき王女ステラ、そして愛する女を自ら差し出してしまった、抜け殻のような「英雄王」イブンだけだった。




