4生 ep.11
嵐のような虐殺から一夜明け、王都に流れる空気は一変していた。
かつての放蕩王アデルの緩やかな空気は消え、一人の青年が背負った「覚悟」が満ちていた。
イブンは休む間もなく、己の手足となる者たちを呼び出した。
「ハルファ、カリード、ハッサン!」
呼び出されたのは、武勇に秀でた騎士でも老練な将軍でもない。
ただ、イブンが「裏切らない」と確信できる数少ない幼馴染たちだった。
「残存兵を再編成せよ。三軍に分け、即刻出撃の準備を整えるのだ」
「は! イブン様!」
軍務経験の乏しい彼らを起用するのは博打に等しかった。
だが、父の腹心であったはずのカシムの裏切りを目の当たりにしたイブンにとって、今の王都に信じられる「他人」など一人もいなかった。
(大丈夫……。もはや戦術など不要なほどに、兵士には『恐怖』が染みついている)
イブンは、再編成された兵士たちの虚ろな、それでいて何かに怯えるような瞳を見て確信した。
彼らは見たのだ。
城門の前で、仲間や敵が「裏返る」瞬間を。砂の巨人が人を粘土のように潰す光景を。
かつての敵兵も、降伏した残兵も、今や自分たちの背後にあの「黄金の瞳の魔女」がいるという事実だけで、死神に追い立てられるように狂暴な忠誠を誓っていた。
「再編成が終わり次第、出撃だ! 裏切り者の四部族——ラシーク、タミー、マヒージ、マハルを攻め滅ぼす! この国に反逆の芽を二度と残さぬ!」
イブンの決断は、アデル王のそれとは比較にならないほど迅速かつ苛烈だった。
彼は「魔女」という抑止力を王城に残したまま、自ら六千の遠征軍を率いて西へと取って返した。
戦火の広がりは、もはや一方的な「駆除」に近かった。
イブンの軍勢が地平線に現れるだけで、部族連合の戦意は霧散した。自分たちが挑もうとした相手は、人間ではなく「魔王の加護」を得た死の軍勢なのだ。
「ジハード!!」
イブンの咆哮が荒野に裂ける。それは救済を求める声ではなく、かつての弱き自分を、そして自らを死の淵に追いやった者たちを焼き尽くすための絶叫だった。
数において並んでいたはずのラシーク・マハル連合軍との決戦。
しかし、戦いの幕が開いた瞬間、そこにあったのは「戦争」ではなく「一方的な虐殺」だった。
連合軍が目にしたのは、イブンの精強な騎馬隊だけではない。
風に翻る、見たこともない不気味な旗印。漆黒の布地に鮮血を思わせる赤い逆十字。
「魔女だ……! あの時の魔女が来ているぞ!」
「魔女に逆らう者に死を! 身体を裏返されるぞ!!」
その旗は、理屈を超えた恐怖を呼び覚ました。
エンヴァが戦場に立っている必要すらなかった。
ただその「影」を感じさせるだけで、勇猛を誇った戦士たちの指先は震え、槍を落とした。
陣形を保つことも、退却の命令を聞くこともできず、連合軍は内側から瓦解していった。
逃げ惑う背中を容赦なく刺し貫き、命乞いをする族長たちを馬で踏みにじる。
かつてのアデル王のような「寛大さ」は、今のイブンには一欠片も残っていない。
「鎖に繋げ! 一人も逃がすな! これらはすべて、王都へ捧げる贄となるのだ!」
敵兵を数千の奴隷とし、勝利の報告と共に王都へ持ち帰ったイブンは人々から「英雄王」とたたえられた。
王都の広場は、熱病のような興奮と、凍り付くような沈黙が同居する異様な空間と化していた。
城壁の上、数千の聴衆が見守る中で、引き立てられたのはラシーク族の族長とその一族だった。かつてアデル王を裏切り、この国を切り刻もうとした反逆者たち。 他の族長たちは戦火の中で命を落としたが、ラシークとその家族だけは、イブンの手によって生け捕りにされていた。
「これより、ラシーク族長の処刑を行う!」
イブンの宣言が響く。だが、そこに処刑人の姿はない。
代わりにローブを深く被った子供達を引きつれ現れたのは、白磁の肌を持つ、この世のものとは思えないほど美しい少女
——エンヴァだった。
その背後にはあの「漆黒に赤い逆さ十字」の旗がはためいていた。
エンヴァは、退屈そうに処刑台へと歩を進めると、縛られた一族を一瞥した。 族長、正妻、そして第二、第三夫人。さらには、まだ幼い四人の子供たち。
一様に皆涙を流してわが身を呪っており、まだ10台の若い第三夫人は自分がこれから処刑されるという緊張から過呼吸をおこして地面に転がっていた。
「……」
彼らを一瞥したエンヴァが、右手の薬指をスーッと横に滑らせる。
その、まるで空気に触れるような繊細な動きに呼応して、地獄が顕現した。
ベロン! ベロベロベロ……ッ!!
一瞬だった。 族長から幼子に至るまで、八人の肉体が同時に「裏返った」。
鎧や衣服は内側に巻き込まれ、真っ赤な筋肉組織と脈打つ血管が、白日の下に剥き出しになる。
「ア……ガ……、ァ……」
肺が空気を直接吸い込み、声帯が剥き出しのまま震える。 死ぬことさえ許されず、内側と外側を反転させたまま脈動し続ける肉塊。
その、生物の限界を超えたおぞましい姿に、広場は一瞬、静止した。
だが、次の瞬間。 恐怖は、熱狂へと反転した。
「……おお、おおお! 魔女の力だ!」
「あの時と同じだ! 裏切り者への、神聖なる裁きだ!」
「イブン王万歳! 魔女エンヴァ様万歳!!」
圧倒的な、逃れようのない「力」を目の当たりにした国民たちは、恐怖を克服するために、それを「正義」として崇拝することを選んだ。 割れんばかりの歓声が王都を揺らし、流された血の海を祝福の雫に変えていく。
こうしてイブンは、父さえ成し得なかった「国内の完全平定」を成し遂げた。
国民は彼をと称え、その背後に立つ魔女を国の守護神として仰いだ。
だが、その日の夜。
黄金のカーテンの裏側、王宮の奥深くでは、もう一つの真実が呼吸していた。
対外的には冷徹な英雄王。
しかし、ひとたびエンヴァの前に跪けば、彼はただの「所有物」へと戻る。
「……エンヴァ……、ああ、エンヴァ……様」
返り血と、戦の煤に汚れたままのイブンが、エンヴァの膝に縋り付く。
その瞳には、外で見せている王の威厳など微塵もなく、ただ主人の慈悲を乞う奴隷のような、熱を帯びた執着だけが宿っていた。
エンヴァは、自分にすがりつくイブンの髪を、壊れ物を扱うように優しく撫でた。
「いい子ね、イブン。」
その表情は、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、獲物をじっくりと壊していく魔王のようでもあった。
彼女は笑っていた。
広場の中心に晒された「それ」は、一週間もの間、王都の空気を呪縛し続けた。
族長一家だった八つの肉塊。皮を失い、むき出しの筋肉が泥を噛み、肺が空気を直接啜り上げる音。それは悲鳴というより、この世の終わりの喘鳴だった。 最後の一個が脈動を止め、ただの腐肉へと成り果てたのを確認してから、ようやく清掃が許された。
「魔女に逆らうと、こうなる」
その教訓は、石畳に染み付いた血痕と共に、国民の魂に深く刻み込まれた。
為政者の背後に、理解不能で絶対的な「死」が座っているという事実。
それが、イブン王国の新たな秩序となった。




