4生 ep.7
市場の喧騒が嘘のように遠のく、檻の前の静寂。
私はゆっくりと腰を落とし、鉄格子の向こう側にいる、泥にまみれた「黄金」へと語りかける。
「同類……? で、いいのよね」
少女は重い瞼を持ち上げ、私の顔をじっと眺めた。
だが、そこに驚きや歓喜はない。
ただ、ひどく退屈で、つまらないものを見たかのような溜め息が漏れた。
「私に構うな、若き魔女よ」
芯の通った声。
その一言で、彼女が私よりも遥かに長い「時間」を積み重ねてきた存在であることを理解する。
「随分な扱いを受けているのね」
「それが運命だからだ。私は運命を変えることを辞めた」
「……何度目なの?」
私の問いに、彼女は答えなかった。
答えなかったというより、本人ももはや数えることを止めてしまったのだろう。
無限に続く輪廻の螺旋の中で、彼女の魂は摩耗し、世界の成り行きに身を任せる「諦観」に辿り着いた。
「あなたとゆっくりお話をしたいのだけれど」
「断る。私のことは放っておいてくれないか、若き魔女よ」
彼女は拒絶し、再び目を閉じようとする。
けれど、今の私は「好きに生きる」と決めた人生を謳歌している。
賢者の沈黙に付き合ってあげるほど、聞き分けの良い魔女ではない。
「そうなの。でも、運命なんて簡単に変わってしまうものよ」
私は背後に控えていた奴隷商に、金貨が詰まった袋を放り投げる。チャリン、という金色の音が響く。それは、この衰弱した少女を3人買ってもお釣りが来るほどの額。
「これであなたの運命は私のものよ。戻ってお茶に付き合ってくださるかしら?」
ガチャリ。
魔法で鍵の構造を直接操作し、彼女の腰輪を外す。
自由になったはずの彼女は、立ち上がる気力さえ見せないが、私はその細い腕を強引に引き寄せた。
「ねえ、先輩」
泥だらけの少女は、眉をひそめて私を睨んだが、抗う力は残っていない。
こうして、王宮へと連れ帰られた「新たな火種」。
それは、エンヴァが初めて手に入れた、自分を理解し得る「鏡」のような存在だった。
「エンヴァ様がお帰りになりました! ……その、奴隷を買ってお戻りに……」
その知らせを受けた瞬間、イブンの思考は真っ白に染まった。
「……奴隷を? いつ、どこで。気分が優れぬと寝所にいたはずではないか!」
兵士の制止を振り切り、彼は王宮の廊下を駆ける。英雄と称される逞しい足取りは、愛する女性への執着と不安に突き動かされていた。
勢いよくエンヴァの寝所の扉を開ける。
だが、そこで彼が目にしたのは、彼が想像していたどんな光景よりも拒絶に満ちたものだった。
「エンヴァ! 気分が悪いと聞いていたが——」
部屋の中、エンヴァは湯気の立つ桶を傍らに置き、黒髪の少女の体を濡らした布で丁寧に拭い清めていた。 少女は一糸まとわぬ姿で、されるがままになっている。
エンヴァの指先が、少女の痩せた背中を慈しむように、あるいは精密な鑑定を行うかのように滑る。
「ご覧の通り、私は今とても忙しいの。御用がなければ、出て行ってもらえるかしら?」
近寄ろうとするイブンを、エンヴァは顔も上げずに手で制した。
優先順位。
イブンは立ち尽くした。
自分という存在が、今の彼女にとっては部屋の調度品以下の価値しかないことを悟らされる。
だが、彼を最も打ちのめしたのは、少女がふと向けた視線だった。
(……黄金の瞳……)
イブンの心臓に、目に見えない杭が打ち込まれる。
エンヴァだけが持つ、特別な神性。それを宿した「同類」の出現。
この部屋に流れる空気は、自分のような「ただの人間」が立ち入っていいものではない。
瞬時にそれを察したイブンは、絞り出すような声で告げた。
「……また、夜に来る」
彼は逃げるように部屋を去った。
扉が閉まると、エンヴァは再び静かに濡れた布を動かし始めた。
何度も布を替え、こびりついた汚れと油を落としていく。
やがて、泥の下から透き通るような肌と、漆黒の髪がその本来の輝きを取り戻した。
「……気が済んだか?」
少女が、相変わらず感情の読めない声で尋ねる。
「全然? この娘に、最高級の着物と食事を用意してちょうだい」
エンヴァの指示一つで、王宮の侍女たちが蜂の巣をつついたような騒ぎで動き出す。
数刻後。
まだ痩せ細ってはいるが、適切な手入れを受け、美しい絹のドレスを纏った少女がそこにいた。
遠目には、どこかの没落貴族の令嬢か、隠し育てられた王女にさえ見える。
先ほどまで腰に鉄輪を嵌められ、砂にまみれていた「不良在庫」は、今やエンヴァの隣に並ぶに相応しい美観の少女へと変貌を遂げていた。
清潔な衣類を纏い、温かな食事を口にした少女は、椅子に深く沈み込んでいた。その姿は一見すれば穏やかだが、纏う空気は依然として重い。
「何と呼んだらいいかしら? 先輩」
私が問いかけると、彼女はふぅと、肺に残った最後の熱を吐き出すような溜め息をついた。
「私は今やそなたの所有物だ。何とでも呼ぶがいい」
「……名前を決めていないの?」
「ああ。特定の名は持たない」
その一言に、私は得も言われぬ新鮮さを、そして微かな戦慄を覚えた。
名を、引き継がない。
それは、繰り返される転生の中で「自分」という個を繋ぎ止めることを放棄したという証だ。
「それでは……先輩と呼ぶわ。」
「好きにするといい。どうせ、残された時間は少ない」
その言葉が、私の胸をざわつかせた。
エンヴァは衝動的に立ち上がり、「先輩」の額に自分の額をそっと接触させた。
「……っ」
目を閉じ、意識を「先輩」の奥底へと沈めていく。
それは、通常の魔術師が行う精神探査とは一線を画す、魂の深層へのダイブだった。
潜り抜けた先に見えたのは、地獄を煮詰めたような黒いドロドロとした層
次に現れたのは、誰かの憎悪か悲しみか、血よりも赤い層。
そして、すべてを削ぎ落とした先にある虚無層。
そこを潜り抜けた瞬間、私は見た。 魂の中心に口を開けた、巨大な「裂け目」を。
それは強大な重力を持ち、轟音のうなりをあげ周囲のすべてを、光すら引きずり込む無限の重力。
漆黒よりも黒い「真黒」が、彼女の魂の形を内側から崩壊させていた。
目に見えずとも、魂が叫び声を上げるような絶望的な空隙。
『解るだろう。魂の断絶だよ、若い魔女よ』
どこからか、彼女の声が聞こえる。
『戻っておいで。あまりそこにいてはいけない』
直後、逆再生のように、今まで潜ってきた道を引きずり戻される。
視界が激しく揺れ、冷たい空気の感触が肌に戻った。
私は自分の体に引き戻されていた。
「あ……」
ツーーーーー
エンヴァの両目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは悲しみというより、あまりに巨大な「終わり」に触れたことへの、魂の拒絶反応だった。
涙は止まることなく、石畳の床へと落ちていく。
もって数週間、あるいは、もって数日。
「先輩」の魂に触れたエンヴァは、残酷なほどの確信を得ていた。
魂の裂け目はあまりに深く、もはや修復の余地などない。
この「先輩」が繰り返してきた輪廻の螺旋は、若きエンヴァの歩みを何十倍、何百倍も上回る、気の遠くなるような年月を積み重ねていたのだ。
「話を……聞かせてほしい。なんでもいい。先輩の見てきたものを」
エンヴァは頬を伝う涙も拭わず、ただ縋るように請うた。
「……それが、若き魔女への指針となるのなら」
リナは、もはや光を失いつつある瞳で遠くを見つめ、静かに語り出した。
それは、一人の人間が背負うにはあまりに重く、眩い、万華鏡のような生の集積だった。
「……はじめは、自由に生きてみたり、目立たずに生きてみようと思ったさ。けれど、力を持つ者は、結局のところ世界に望まれてしまう」
ある人生では、彼女は魔族を率いる魔王として玉座に座した。
圧倒的な暴力で恐怖を植え付け、種族の頂点に立った。
またある人生では、魔力を解放する快楽に身を任せ、大陸の半分をその手中に収めた。
彼女が歩く後には、新しい法か、あるいは見渡す限りの灰燼しか残らなかった。
ただ一人の男にその身を捧げたこともあった。
魔法を捨て、一人の女として愛に殉じ、誰かのために生きる喜びと、それを失う絶望を骨の髄まで味わった。
絶望の果てに、「神」にまみえようとしたことさえあった。この不条理な輪廻の鎖を断ち切るため、あるいはその意味を問うために、天の門を叩き、世界の理そのものに挑んだ。
語られるどの人生も、誇り高く、壮大で、あまりに濃密だった。
国を興し、文明を滅ぼし、愛し、祈り、呪った数々の生。 だが、その輝かしい遍歴を語る「先輩」の声は、どこまでも平坦で冷めていた。
「どれほど熱烈に生きようとも、結局、魂は少しずつ削れていく。何度も、何度も上書きされるうちに、記憶は澱となり、自分という形を保つのが億劫になるのだよ」
エンヴァは、「先輩」の言葉を、一文字も漏らさぬよう魂に刻み込んだ。
大陸を支配することも、愛に生きることも、神に挑むことも。
自分にとっては、まだ始まったばかりのでしかない。
けれど、その果てに待っているのが、この「先輩」のような底なしの虚無であるのなら。
「……私は、どうすればいいの?」
エンヴァの問いに、「先輩」はただ、わずかに口角を上げた。
それが慈悲なのか、あるいは若さへの憐憫なのか、エンヴァには判別できなかった。
「どうにも、ならんさね。」
「先輩」は、焦点の合わない瞳で、この世のどこにもない遠い場所を見つめていた。
その枯れ果てた声には、怒りも悲しみもなく、ただ数千年の歳月がもたらした諦念だけが宿っていた。




