4生 ep.6
「エンヴァ、なぁエンヴァ」
幾分たくましくなったとは言え、イブンのエンヴァへの依存はとどまる所を知らない。
バルコニーから振り返った彼女の姿はまさに聖典に記された天使そのものに見えた。
「……今度は何の用? イブン」
豪奢な天蓋付きのベッドに身を横たえ、エンヴァは心底退屈そうに視線だけを向けた。
かつては「捨て子の少女」だった彼女は、今やその美貌と底知れぬ威圧感で、王宮の空気を支配する影の女王となっていた。
「南の砂漠の向こう、大国から大規模なキャラバンが到着したんだ。珍しい宝物もたくさんあるらしい。……一緒に見に行かないか?」
誘うイブンの声は、戦場での猛々しさが嘘のように弾んでいる。
(……逢い引きのお誘い、ね。なんだか面倒ね)
内心で溜め息をつく。
戦場での「忠犬」ぶりは評価してあげてもいいけれど、プライベートでのこの執着は、重い。
「ごめんなさいね。今日は少し朝から気分が悪いの」
「なっ、何だって!? すぐに医者を呼ぼう! おい、誰か! ……エンヴァ、君はそこに横になっているんだ。無理をしてはいけない!」
大仰に狼狽し、駆け寄ろうとするイブン。
しかし、エンヴァが瞳の奥に「冷たい光」を宿した瞬間、彼の足は凍りついたように止まった。
かつて、不用意な一言で尻を焼かれ、本気の平手打ちで奥歯を一本失った記憶。
青年へと成長し、どれほど武勲を立てようとも、彼の魂に刻まれた「罰の記憶」は、エンヴァの不機嫌の境界線を理解していた。
「わ、わかった……。無理は禁物だ。また明日来るよ、ちゃんと休むんだよ、エンヴァ」
逃げるように部屋を去るイブンの足音を聞き届け、エンヴァはゆっくりと身を起こすと、独りバルコニーの椅子に身を預けた。
「キャラバン……ね」
彼女が指先を微かに動かすと、王宮内に満ちていた魔力が、さらに微細な——目に見えないほどの霧となって霧散していった。
数キロ先で農民が交わす他愛ない愚痴。
路地裏で交わされる密輸の相談。
そして、王宮の兵士たちの心臓の鼓動。
耳を澄ませば、この都市のすべてが彼女の脳内に流れ込んでくる。
その気になれば、濃密な魔力を一箇所に収束させ、相手の心臓を物理的に握り潰すことも容易い。
この王国は、エンヴァの体内にあるも同然だった。
だが。
「……何かしら、これ」
南の門をくぐり、市場へと向かう巨大な商隊。
その喧騒の中に、異質な魔力の波紋が混じっていた。
いや、それに対して干渉できなかった。
それは近隣の魔術師が持つそれとは明らかに質が違う。
どこか——自分と同じ「人ならざる者」の臭いがした。
「へーい!らっしゃい! 活きのいい奴隷だよ、よく働くよ!」
「こいつを見ろ、某国の貴族のお嬢様だ! 珍しい緑の目をした処女だよ! さあ買った買った!」
王都のメインストリートは、南から届いた熱気と狂乱に包まれていた。
キャラバン。
それは砂漠を越え、水や食料、武器、そして時には「人間」さえも商品として運び出す商人たちの群れだ。
色鮮やかなスパイスの香りが鼻を突き、屋台からは肉の焼ける脂っこい匂いが立ち上る。
見たこともないカラフルな模様の絨毯を山積みにした牛車が、石畳を軋ませながら通り過ぎていく。市民たちは異国から届いた「祭りの余韻」に酔いしれ、酒場からは昼間から陽気な歌声が漏れていた。
「……騒々しいわね」
深く被ったフードの隙間から、黄金の瞳が鋭く通りを射抜く。
王宮で「気分が悪い」と言って寝所に引きこもったはずのエンヴァだった。
目に見えないほどの薄い魔力の霧が、その「震源地」へと私を導く。
辿り着いたそこは、南方の最大手、ダニル・キャラバンが陣取る巨大な特設市場だった。
「おーい! もっとこっちへ動かせ! 詰めるな、見栄えが悪くなるだろ!」
「鎖を繋いだらどんどん外に出せ! 水をぶっかけろ! 泥を落として油を塗れ! 商品を光らせるんだよ!」
怒号と笑い声、そしてジャラジャラと鳴り続ける重苦しい金属音が、市場の喧騒を塗り潰していた。 そこは、あらゆる「品揃え」を誇るという触れ込みに違わぬ、大規模な奴隷市場だった。
牛車が引く「人檻」が次々と到着し、中から五人、十人と、力なく項垂れた人間たちが引きずり出されていく。
彼らの腰に嵌められた重い鉄輪は、地面に打ち込まれた頑強なアンカーへと鎖で繋がれ、まるで家畜の競り市のように列をなしていく。
商人の手下たちが、桶に入った水を乱暴に奴隷たちへ浴びせ、その上から安物の油を肌に擦り込んでいく。 乾いた砂漠の光を反射し、ヌラヌラと光り出す生身の肌。
キャラバンの列は彼方まで続いている。
背後にはまだ十台以上の人檻が控え、この「荷下ろし」が終わる気配は微塵もなかった。
「……面白い。面白い光景ね」
無意識に、そんな言葉が独り言となって唇から溢れた。
人間もまた、水や工芸品と同じ「資源」に過ぎない。
その事実をこれほどまでに華やかに体現してみせるこの光景に、魔女は純粋な知的好奇心に近い高揚感を覚えていた。
「……そろそろ、このあたりかしら」
不可視の魔力の霧を指先で手繰り、私は一歩、また一歩と「澱」の中へと足を踏み入れる。 華やかな絨毯や、ヌラヌラと油光りする健康的な奴隷たちの列を通り過ぎ、たどり着いたのは市場の隅。まるでゴミでも置くかのように放置された、ひときわ小さく、薄汚れた鉄の檻の前だった。
その中に「それ」はいた。
檻の中で膝を立て、力なく座り込んでいるのは10歳程に見える一人の少女だ。
泥にまみれた真っ黒な髪。
骨が浮き出るほどに痩せ細り、今にも栄養失調で事切れそうな、ひ弱な肉体。
本来なら、過酷な砂漠の旅に耐えられず道端に捨てられていてもおかしくない「不良品」だ。
エンヴァはその場から動けなくなった。
「…………」
少女がゆっくりと顔を上げる。
その顔立ちは幼いが、眼差しには子供特有の無邪気さも、奴隷特有の絶望も微塵もなかった。
そこにあるのは、数多の星霜を生き抜いた老賢者のような、静謐で深遠な知性。
まるで、エンヴァがここに来ることを最初から知っていたかのように。 あるいは、数千年の時を隔ててようやく待ち人を迎えたかのような、確信に満ちた面持ち。
そして、何よりも——。
泥に汚れた顔の中で、彼女の双眸だけが異質な輝きを放っていた。
エンヴァと同じ、黄金の光を宿していた。




