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転生の魔女  作者: RUSA
22/38

4生 ep.5

砂漠の夜風は、戦勝の熱気を孕みながらも、イブンの肌にはどこまでも冷たく刺さった。


アデル王が差し向けた軍は、極めて有能だった。




実務を取り仕切る軍幹部たちは、アデルが商人時代から培った人脈と財力で繋ぎ止めた、戦いのプロフェッショナルだ。


彼らが練り上げる戦術に淀みはなく、高額な報酬を約束された傭兵たちは、死を恐れぬ獣のように砂ゴブリンを蹂躙していく。


一ヶ月。




砂漠の過酷な行軍を含めても、それは異例の早さだった。六割の目標を撃滅したという数字は、他国であれば歴史に残る快挙だろう。




しかし、その輝かしい勝利の円陣の中で、総大将であるはずのイブンだけが、油に浮く水のように馴染めずにいた。




「王子、こちらへ。ここは戦場ですから、奥におられた方がよろしい」


「ああ、トドメですか? いえいえ、我々がやっておきますから。お召し物が汚れます」




幹部たちが向ける言葉は慇懃だが、その瞳の奥には隠しきれない侮蔑と、「邪魔をするな」という無言の圧力が潜んでいる。彼らにとってイブンは、王の息子というだけの、壊れやすい陶器の人形に過ぎない。




兵士たちの間で囁かれる「お飾り」という二つ名。


それを耳にするたび、イブンの胸には鋭い棘が刺さった。








「敵襲! 本陣急襲! 警戒せよッ!」


戦場に鳴り響く銅鑼ドラの音が、それまでの順調な勝利を嘲笑うかのように不協和音を奏でた。 街の城門を背に、砂ゴブリンの群れを掃討していたイブン本陣。


右翼左翼の攻撃隊は川岸に作られた土塁で抵抗する砂ゴブリンの本体と交戦中だ。




だが、その背後の「街」から現れたのは、避難していたはずの平民ではなく、殺意に研ぎ澄まされた武装集団だった。




「ぶっ殺せ! アデルの野郎の息子を人質にするんだ!」


それは、かつてアデルが謀略をもって飲み込んだ都市の残党たちだった。


彼らは正面切っての戦に敗れたのではない。




アデルの卑劣な策で盟主を奪われた屈辱。


その恨みを砂の下で温め続けていた彼らは、農民や商人に身をやつし、この好機を待っていたのだ。




「背後に兵を回せ! 盾を並べろ!」


「間に合いません! 正面の砂ゴブリンたちが総攻撃に移りました! 離脱不能です!」


悲鳴に似た伝令が飛び交う。




前方は数に勝る魔物の群れ。後方は、馬を駆り、一気に距離を詰めてくる決死の奇襲部隊五十名。


イブンの本体は、あまりにも皮肉な「挟み撃ち」の形に陥っていた。




もともとイブンの護衛は、対魔物を想定した円陣を組んでいた。しかし、内側から、しかも「守るべき対象」であるはずの街から湧き出した敵に対して、その防衛線はあまりに脆かった。




「王子を捕らえろ! 抵抗する奴は首を跳ねろ!」




怒号と共に、先頭の騎馬兵が本陣の天幕を切り裂く。


次々と血に染まる近衛兵たち。十歳のイブンの目の前で、自分を守るために戦っていた兵士の頭部が、無慈悲な一撃で宙を舞った。




返り血を浴び、腰を抜かして砂の上に座り込むイブン。


砂ゴブリンの咆哮と、復讐に燃える人間たちの呪詛が混ざり合い、視界が恐怖で白く染まっていく。




(……ああ、死ぬ。僕、ここで死ぬんだ)


父アデルの期待。


王子としての箔。




そんなものは、目の前に迫る冷たい鋼の輝きの前では、砂粒ほどの価値もなかった。


だが、その時。 凍りついた脳裏に、あの冷たくも甘美な、エンヴァとの約束が蘇った。




『もしもの時は、私の名前を呼んで。すぐに助けてあげるから』


イブンは、震える唇を必死に動かした。




もはや、それは助けを求める叫びですらなく、絶対的な神へと縋る信徒の祈りに近かった。




「エンヴァ! エンヴァ! エンヴァ!!!! 助けて!!」


十歳の王子の喉から、魂を削り出すような絶叫が上がった。




しかし、目の前の暴漢たちにその名は届かない。


彼らにとって、それは死に直面した子供が泣き喚く、意味を持たない戯言に過ぎなかった。




「なんだ? こいつ、恐怖で狂ったか?」


「とりあえず捕らえろ。アデルの野郎に街を一つ開放させるための手札だ」


「ガキ一人にそんな価値がありますかねぇ?」


「……その時はコイツをイビって首を落とせば、俺たちの気が晴れるってもんだ。なあ?」


下卑た笑い声が本陣に響く。




イブンを守っていた親衛隊は、もはや物言わぬ肉塊となって足元に転がっていた。




「さあ、来てもらうぞ! クソガキ!」


男の無慈悲な蹴りが、イブンの小さなみぞおちを抉った。


「ウゥ……!! オェ……ッ!」 肺から空気が弾け出し、胃液を吐き散らして砂にまみれる。


かつての誇り高き王子の面影はどこにもない。


ただの、惨めに命を乞う弱者がそこにいた。




「おいおい、まだ殺すんじゃねえぞ」


男たちが手を伸ばした瞬間、イブンは本能だけでその包囲を潜り抜け、がむしゃらに駆け出した。


だが、運命は非情だ。


もつれた足が地面を捉えきれず、彼はそのまま急斜面を滑り落ち、本陣脇の川へと投げ出された。




「水へ落ちたか。面倒な……おい、さっさと引きずり上げてこい!」




その時だった。 天を裂くような、鋭い叫びが戦場に降ってきた。




「クエエエエエエエエエ!!!!!」


上空を旋回する巨大な怪鳥の咆哮。




その声を合図に、戦場の時間が停止した。


直後——地面が「沸いた」。


砂の下から、数百万という単位の漆黒の甲虫アブリムシが、津波となって溢れ出したのだ。


「アブリムシだーーっ!!」


「うわああああああ!」


砂漠の悪魔、アブリムシという黒い塊は、逃げ惑う男たちに容赦なく降り注ぐ。


「食われる! 兄貴ッ!」「逃げろ!」 叫ぶ男の脚は、数秒後には白濁とした骨を晒していた。




キチキチキチキチ……


数千万の顎が肉を噛み砕き、羽を擦り合わせる音。


敵兵も、味方の兵士の死体も、 動くもの全てが黒い波に呑み込まれ、一分と経たぬうちに、そこには無機質な「白い骨」の山だけが積み上がった。




川に落ち、水面に首だけを出して凍りついていたイブンの元には、ただの一匹も虫は近づかなかった。 まるで、見えない壁に拒絶されているかのように。




川岸の向こう側の防衛線を攻めていたイブンの軍だけは無事だった。


無事に砂ゴブリンの猛攻を払いのけ、指揮官ゴブリンの首を取り敵軍を壊滅させていた。




川の中から震えながら這い上がったイブンの目に飛び込んできたのは、月光に照らされた数百の白い骨だった。あの大量のアブリムシは影も形もなく消え去っていた。




肉も、鎧も、馬具の革ですらも消え失せ、そこにはただ無機質な死の残骸だけが転がっている。


「……王子! ご無事ですか!」


生き残った軍幹部の一人が、砂塵を払って駆け寄ってきた。




彼は奇跡的に虫の津波から外れた場所にいた幸運な生存者だった。


しかし、彼がイブンの手を取ろうとした、その時。




上空を旋回し続けていた巨大な鳥が、再び鋭い咆哮をあげた。


「クエエエエエエエエエッ!!」




その鳴き声が空気を震わせた瞬間、駆け寄っていた幹部の動きが止まった。


彼は何が起きたのか理解できないまま、苦悶に顔を歪めて胸を掻きむしり、そのまま音もなく砂の上に崩れ落ちた。




心停止——あまりに精密な狙い撃ち。


イブンはその光景を、ただ虚無の瞳で見つめることしかできなかった。




後に、王宮の奥深くでエンヴァは、イブンの髪を優しく梳きながら事もなげにこう語った。




たった一言。


「あの幹部が黒幕よ」


彼女にとって、それは害虫を駆除するのと何ら変わりない作業だった。


イブンは背筋が凍る思いがした。




「勝利だ! 砂ゴブリンの本体を駆逐したぞ!」


「掃討戦に入れ! メスとガキは一匹残らず始末しろ! 根絶やしだ!」


歓声というよりは、血に飢えた獣たちの咆哮が戦場を支配した。


指揮官の号令一つで、軍は効率的な「殺戮機械」へとその姿を変えていく。


そこにイブンの意志が介在する余地など微塵もなかった。




五百いた兵は、あのアブリムシの災厄を経て三百五十名まで減っていたが、生き残った者たちの士気は逆に異常なほど高まっていた。




「おい、お坊ちゃんの護衛に十人ほどついてやれ! 転んで死なれでもしたら、俺たちの報酬がパーになっちまう!」




一人の隊長の雑な指示で、一小隊がしぶしぶといった様子でイブンの周囲を固め始める。


彼らにとって、イブンは守るべき主君ではなく、無事に持ち帰らねばならない「高価な割れ物」に過ぎない。


「……あんた、よく生き残ったね。あんな地獄で、傷一つないなんてさ。運だけはいっちょ前だ」


護衛の兵士の一人が、吐き捨てるように言った。


「ま、運だけでもあればめっけもんだよ坊主。何せお前も俺もまだ生きてる」




その瞳には、仲間を失った悲しみと、何もせず生き延びた「お飾り」への剥き出しの嫉妬が混じっていた。


(運なんかじゃない……)


イブンは、握り締めた槍の冷たさを通して、心の中で反論した。




彼には分かっていた。


自分を飲み込もうとした甲虫の津波。


その絶望的な狂乱のただ中で、上空を旋回する怪鳥の叫びを聞いた時。


自分を避けて流れていく虫たちの羽音の中に、確かに感じたのだ。

冷たく、けれど天から自分だけを熱く射抜く、エンヴァの視線を。





王都に戻ったイブンを待っていたのは、割れんばかりの歓声と、父アデルの満足げな笑みだった。


「よくやった、イブン! 砂ゴブリンを壊滅させ、卑劣な残党の奇襲すら返り討ちにするとは。流石は我が息子だ!」


公的な記録にはこう記された。


『イブン王子率いる討伐軍、オーブの地にて敵主力を撃滅。奇襲を仕掛けた反乱分子をも勇猛果敢に撃退し、これを完全鎮圧せり』



残存兵力三百五十名をまとめて帰還したイブンは、民衆から「砂漠の若き英雄」として称えられた。 だが、その内実は、五百名の兵のうち百五十名と数多の敵を「虫の餌」として捧げた砂上の楼閣に過ぎない。


イブンは、称賛を浴びるほどに、自分の魂がエンヴァという底なしの沼に沈んでいくのを感じていた。



アデル王は、その鋭敏な野性を決して失ってはいなかった。 息子が戦場へ赴いたその日から、彼は「王国の心臓」とも言えるエンヴァの動向を、最高密度の監視下に置いていた。


戦場でイブンが背後から刃を突きつけられ、絶体絶命の窮地に陥っていたその時。 アデルが配した密偵たちは、震えながらその報告を上げている。


「エンヴァ様は……一歩も動いておられません。一日中、バルコニーに立ち、ただ空を見ておいでです……しかし」




城壁の彼方、数日かかる距離にある戦場で、空を裂く怪鳥が咆哮し、数百万の虫が地を埋め尽くしたあの日。 エンヴァは確かに、王宮のバルコニーにいた。


食事も摂らず、誰とも口を利かず。




ただ、砂漠の彼方を見据えるその黄金の瞳は、まるで千里の先までを把握しているかのようだった。


「その表情は……何と言うか子供のそれではなく……はい」

「何というのだ?詳しく申せ」


「は、恐れながら申し上げますが……まるで男に抱かれている最中かのような淫猥な。」


密偵は最後に一言付け加えた。

「その快楽を享受している最中、まさに達する瞬間かのような表情で、私の目を凝視したのでございます。」




アデルは戦慄した。


もし、あの戦場の地獄が彼女の仕業であるならば。

物理的な距離を無視し、居ながらにして数百の命を蟲に食わせてみせたというのなら。

それはもはや、魔法や呪いといった言葉で片付けられるものではない。

しかも、快楽?




アデルが躍進した、あの雷が岩山を打った日。

あの時エンヴァの目の奥にたゆたっていた黄金の光の裏にある漆黒とそこに潜む欲望を見逃さなかった。

(あれも、仕組まれた事)




アデルは悟った。

監視など無意味だ。



この少女は、王宮という檻に閉じ込められているのではない。


彼女がここにいたいから、ここにいるだけなのだ。

もし彼女がその気になれば、この王国を一夜にして流砂の下へ沈めることも、住民全員を虫に食わせることも容易い。




アデルは、あの日以来、エンヴァの正体を探ることを止めた。


代わりに、彼は一つの決断を下す。

この怪物を「娘」として遇し続け、息子を「英雄」として祭り上げ、彼女がこの王国を「お気に入りの箱庭」として愛し続けてくれることを、神に……いや、目の前の魔女に祈ることを。






アデル王の治世は、血と硝煙の中にありながらも、砂漠の民にとっては「黄金時代」の萌芽と呼べるものだった。 彼は単なる征服者ではなかった。商人の血が流れる彼は、富の循環こそが真の支配を生むと理解していたのだ。


整備された交易路、略奪の脅威から解放された市場、そして徹底した治安維持。砂漠の南側三分の一を呑み込んだその施政下で、かつての小国たちはアデルの圧倒的な軍事力と経済力の前に膝を折り、その「慈悲」という名の支配を甘受した。


そして、その繁栄の影で、一人の青年が異様な変貌を遂げようとしていた。




かつて「お飾り」と嘲笑された王子イブンは、今や見違えるほど逞しい青年へと成長していた。 しかし、その成長の原動力は、王としての自覚でも、民への愛でもない。 ただ一点。王宮の奥底に棲まう、あの銀髪の魔女からの冷酷な宣告だった。




「……イブン。またあの日みたいに、使い物にならない醜態を晒したら……捨てるわよ」


エンヴァのその一言は、イブンにとって死の宣告よりも重く、鋭く彼の魂を抉った。

エンヴァに「捨てられる」という底なしの恐怖。




その恐怖から逃れるためだけに、彼は狂ったように剣を振り、槍を振るった。




最前線で泥にまみれ、敵の返り血を浴び、自らの命をチップとして戦場に投げ出す。

かつて砂ゴブリンの赤子に震えていた面影は、もはやどこにもない。


「……おい、見たか。王子、あんな無茶な突撃をしやがって」


かつて彼を「お飾り」と蔑んでいた古参の兵士たちも、その狂気じみた成長を認めざるを得なかった。

いまだ完成された「英雄」ではない。

けれど、少なくとも戦場に立つ資格を持つ一人の兵士。


彼らは敬意と皮肉を込めて、イブンを「新米」と呼び始めた。




二人は15歳になっていた。

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