4生 ep.4
あの夜を境に、イブンの世界は塗り替えられた。
眠りの中でも、目覚めた後も、彼の意識は常に一点に向かっている。
エンヴァはどこにいるのか。彼女は何を考えているのか。
もはやそれは「初恋」などという瑞々しいものではなく、光に魅入られた羽虫のような、あるいは猛毒に冒された病人のような、執拗なまでの依存だった。
遠征から帰還したアデルは、玉座の間で深く椅子に身を沈め、部下たちからの報告を聞いていた。
そのほとんどが、王子の異常なまでの豹変
——「エンヴァ無しではいられない」我が子の醜態——についてだった。
「あなた……?」
アミーラが、不安げにアデルの横顔を覗き込む。彼女の腕の中で乳兄弟として育った二人。
彼女にとってもエンヴァは娘同然の存在だが、今のイブンの姿は、母親の目から見ても常軌を逸していた。
「エンヴァは、とても良い子よ。それはあなたも分かっているはずだわ」
「ああ。文句のつけようがない娘だ。そして、あの年にして恐ろしいほどに美しい」
アデルは熱い茶をすすり、冷めた視線を虚空へ向けた。
「……いずれ、どこかの強国の王族へ嫁がせ、同盟の楔にするのも悪くないと思っていたのだがな」
「その前に、イブンと距離を取らせるべきです。このままでは、あの子が壊れてしまいますわ」
アデルは深く頷いた。
だが、彼の思考の先にあるのは、単なる「若者の痴話喧嘩」ではなかった。
アデルという男は、運だけで王になったわけではない。
あの夜、彼は五十人の野盗の動きを「大枠」で把握していた。
あえて城壁の弱点情報を流し、誘い込み、一網打尽にする。それは王国の威信を周辺に示すための、冷徹な軍事作戦だった。
しかし、野盗の動きは想定より迅速だった。
斥候の報告が遅れ、迎撃の準備が整う前に、野盗たちは城壁の目前まで迫っていた
だが。
(……あの夜、イブンとエンヴァが部屋から消えていた)
それは、彼が誰にも話していない事実。
王たる者、無数の斥候を放ちどんな些細な事でも全てを把握する必要を感じていた。
そして、時を同じくして、五十人の凶悪な略奪者たちが、まるでこの世から「蒸発」したかのように、塵一つ残さず消え失せた。
王の斥候が目を離したわずかな空白の間に起きた、物理的な消失。
軍隊ですら不可能なその「片付け」を、誰が成し遂げたのか。
(二人が消え、敵が消えた。これが偶然だと考えるほど、俺は呆けてはいない)
アデルは視線を、王宮の奥へと向ける。
そこにいるのは、可憐な養女か。
それとも、王国の根幹を揺るがす道の怪物なのか。
答えを出しきれぬまま、アデル王が選んだのは「放置」という名の静観だった。
凡俗な嫡男——イブンへの情愛がないわけではない。
だが、アデルの勘は告げていた。
エンヴァという存在は、国家や血縁といった矮小な枠組みで測れるものではない。
下手に触れれば、築き上げた王国ごと食い破られるという本能的な恐怖が、彼を押し留めていた。
それから二年の時が流れ、二人は十歳になった。
王国の平穏を乱すのは、夜ごと出没し家畜や民を襲う「砂ゴブリン」の群れ。
王として民の訴えを無視するわけにはいかない。
アデルは東の街オーブ周辺にある砂ゴブリンの巣を平定するため、五百の討伐隊を組織した。
たいした戦ではない。
目的は、息子イブンを総大将に据え、次期国王としての「武勲」という箔をつけること。
しかし、玉座の間で父の命を受けたイブンが口にしたのは、王としての自覚とは程遠い言葉だった。
「エンヴァを……連れていってはなりませんか?」
「イブン! お前は軍をなんと心得る! そのように軟弱なことを言うのなら、王子の資格などない!」
雷鳴のような父の叱咤。
消沈し、幽鬼のような足取りで下がったイブンが向かったのは、やはり彼女の部屋だった。
「しばらく会えなくなる、エンヴァ……」
憔悴しきった表情で、イブンはいつものように彼女の膝にすがり、その胸に頭を預けた。
エンヴァは拒むことなく、慈しむようにイブンの頭を抱き留める。
10歳を迎えた彼女は、これまでの人生と同じく絶世の美しさを秘めた蕾のよう。
国民たちからの人気も高く、愛らしい、王女の役を演じるエンヴァは王国の象徴にすら考えられていた。
「エンヴァ……エンヴァ……離れたくない……」
背中に手を回し、子供のように泣きじゃくるイブン。
その頭を優しく撫でながら、エンヴァは静かに囁いた。
「大丈夫。もしもの時は、私の名前を呼んで。すぐに助けてあげるから」
その声、その表情。それはおよそ十歳の少女が向けるものではなかった。
その様子を物陰から伺っていた密偵は、王の間でアデルにその一言一句を報告した。
(名を呼べ……か)
アデルは苦い茶を飲み干し、その言葉の意味を反芻する。
それが、遥か遠方の戦場からでも救いを届けられるという、超越者の不遜な「契約」であることに気づくのは、まだ先のことだった。
大勢の国民と王宮から手を振るエンヴァ。
盛大に見送られ出陣したイブンは、五百の精鋭に守られ塔のような形の砂ゴブリンの巣を次々と攻略していった。 無論、十歳の少年に指揮能力などない。
砂漠を統治する者にとって、砂ゴブリンの討伐は華々しい武勲などではなく、終わりのない泥臭いルーティーン——いわば「害獣駆除」という名の公務である。
灼熱の太陽の下、兵士たちが手際よく地下の巣穴を暴いていく。
「巣の周りは駆除した! 塔を崩せ!」
「地下から出てくるぞ! 気をつけろ!」
土煙の中から引きずり出されるのは、醜悪ながらもどこか無力な、軍靴ほどの大きさしかない砂ゴブリンの赤子たち。放っておけば成長し、繁殖し、再び王国の民を脅かす火種となる。だからこそ、砂漠の法は「根絶やし」を命じている。
「さあ王子! トドメを!」
血の匂いと熱気に昂る兵士たちが、期待の眼差しをイブンに向ける。
彼らの前には、逃げ場を失い「キーキー」と甲高い悲鳴を上げる赤子たちが並べられた。
「あ、うん……」
イブンの喉が鳴る。
イブンの本質は、今もなお、血の匂いに怯える気の弱い少年のままだった。
(エンヴァ……力を貸して)
彼は無意識に、心の中でその名を唱えた。 そうしなければ、膝の震えすら止められない。
イブンが手にしたのは、対象と距離を置くことができる「槍」だった。
「は、はああっ!」
気合と共に突き出された槍。
これまでの数年間、王宮で一流の指南役に鍛えられてきたはずだった。
だが、彼の腰は無様に引け、狙いは甘い。 槍先は赤子の急所を逸れ、ただその小さな体を無益に傷つけるに留まった。
「キィィィィィッ!!」 絶命できず、砂の上でのたうち回り、余計に残酷な悲鳴を上げる赤子。
その光景に、周囲の兵士たちの熱気が急速に冷めていく。
彼らは互いに顔を見合わせ、隠しきれない失望と共に首を横に振った。
「王子! こうでございますッ!」
見かねた指揮官の一人が、苦々しい表情でイブンの手から槍を奪い取るように掴んだ。
ぐっと力強く、迷いのない一撃。
赤子の悲鳴は一瞬で断ち切られ、砂漠に静寂が戻った。




