4生 ep.3
それから三年の月日が流れた。
かつて雷鳴が穿った岩山の裂け目は、今や砂漠の勢力図を塗り替える城塞都市へと変貌を遂げていた。
アデルの決断は迅速だった。
潤沢な水が生む富を惜しみなく投じ、堅牢な城壁を築き、周辺の野盗を傭兵の武力でねじ伏せる。
生き残った野党たちを奴隷として酷使し、砂漠の空白地帯に小さな「王国」を現出させたのだ。
王国は周囲の町や村を武力で併合し、このあたりでは最も有力な一族として名を馳せた。
その王宮の奥深く。八歳になったエンヴァとイブンは、周囲から「王の愛娘と愛息」として、過保護なまでの監視下に置かれていた。
「勝手に出ないでください、エンヴァ様!」
「イブン様もいないぞ! どこへ行かれたのだ!」
侍女たちの悲鳴のような呼び声を背に、二人の影は音もなく王宮を抜け出す。
どれほど鉄壁の監視を敷こうとも、理を歪める魔女の前では、鍵も壁も無意味な玩具に過ぎない。そしてエンヴァは、影のように自分を追い続けるイブンの前でだけは、その異能を隠そうとしなかった。
王宮の屋根の上、沈思黙考に耽るエンヴァの隣には、当然のようにイブンが控えていた。
かつては乳兄弟、今は王の実子と拾い子の娘。
血筋だけで言えば、次期国王たるイブンが圧倒的に上位であるはずだった。しかし——。
「暑苦しいから、もうちょっと離れてくれる?」
「あ……はい! すみません!」
エンヴァの冷ややかな一言に、イブンは弾かれたように距離を取る。
その姿は、主人の機嫌を伺う忠実な猟犬そのものだ。
家臣たちの間では、王子が捨て子の少女の尻に敷かれていると噂になっていたが、それが許されているのは、偏に二人がまだ八歳の子供であるという無邪気な認識ゆえだった。
(……これまでの生では、目立たないように、恐れられないように生きてきたけれど)
エンヴァは、隣の「忠犬」を目を細くして眺めながら足を組み替え思考を巡らせる。
前世、その前世。理性的で合理的な自分は、常に「普通」の皮型に自分を押し込めてきた。
だが、この身体に満ちる魔力は、そんな謙虚な脚本を嘲笑うかのように肥大し続けている。
そんなある日、二人は侍従たちの監視の目をまた盗んで脱走したのである。
「ねえ、どこに行くの! また街の外?」
「……変な気配があるのよ。あなたは残っていなさい」
「嫌だ! エンヴァが行くなら、僕も行く!」
イブンの頑固さに、エンヴァは短く溜め息をついた。
彼女は流れるような動作で右と左の薬指を交差させ、円を描くように回す。
すると、二人の周囲に真珠のような光沢を放つ透明な膜が形成された。
「……えっ?」
次の瞬間、重力が消失した。
浮遊。
二人の身体はふわりと宙に浮き、窓から夜風を掴むようにして大空へと滑り出した。
「うわあああああ! 空! 落ちる、落ちる!」
「黙りなさい。でないと、その口を縫い付けるわよ」
エンヴァの冷酷な宣告に、イブンは慌てて口を塞ぎ、悲鳴を飲み込む。
イブンがこれほどまでに従順なのは、単なる忠誠心ゆえではない。 そこには一年前、彼の幼い魂に深く刻み込まれた「恐怖」という名の教育があった。
「静かにしないと、尻を焼くわよ」
エンヴァにそう宣告された直後、彼は本当に、文字通り「焼かれた」のだ。
火傷の痕を見たアデルやアミーラには「日差しで熱くなった岩にうっかり座ってしまった」と涙ながらに言い訳をしたが、それはエンヴァとの沈黙の契約を守るための嘘だった。
魔女の言葉に嘘はない。
逆らえば、次は尻では済まないことを、彼は本能で理解していた。
透明な膜に包まれた二人は、砂漠の冷気を切り裂き、城壁の篝火を遥か眼下に臨む。 エンヴァが「気配」を感じ取った場所——そこには、総勢五十名ほどの影が、月光を避けるようにして蠢いていた。
それは砂漠のハイエナ、野盗の集団だった。
城壁の防備が薄い箇所を、内部の裏切り者から買い取った情報で正確に割り出している。
そこから音もなく侵入し、金目のものと女たちを奪い去り、追っ手が来る前に砂塵の彼方へと消える。アデルが最も手を焼いていた、一撃離脱を得意とする手際の悪い手合いだ。
「……汚いネズミたちが、私の庭を荒らそうとしているわね」
空中を漂うエンヴァの黄金の瞳が、冷酷な光を放つ。
その隣で、彼女に抱えられたイブンは、恐怖と寒さで歯を鳴らしていた。
「エンヴァ……戻って父上に知らせよう。兵を出せば……」
「黙りなさいと言ったでしょう。口を縫われたいの?」
イブンの震える声は、冷徹な一言で一蹴された。
エンヴァは空中でゆっくりと右手を広げる。
八歳の少女の小さな手のひらに、夜空の暗闇よりも深い、禍々しい魔力が凝縮されていく。
彼女にとっては、これは「正義」ではない。
せっかく整え始めた自分の居場所を汚されることへの不快感。そして、何よりも——。
(魔力を……出したい)
下腹を突き上げる、あの甘美な疼き。
ひとたび放出した魔力はまるで利子がついているかのように数時間後には戻ってくる。
その度に彼女は一人自室にこもり膨大な魔力を投じて小さな「太陽」を生成してはどこか遠い砂漠へ飛ばしてしまうなどの「自慰行為」にふける事が度々イブンによって目撃されていた。
エンヴァの口角が、わずかに吊り上がった。
(今度は……好きに……生きてみるの……いいわよね?)
数百年の抑圧、合理性という名の枷。
それを今、砂漠の夜風の中に解き放つ。
宙空に浮かぶエンヴァの小さな手のひらが、眼下で蠢く「ゴミ」たちに向けられた。
直後、物理法則を無視した異変が砂漠を襲う。
「……何を、しているの?」
パアン!!!
隣で声を漏らしたイブンに、エンヴァの容赦ない本気の平手打ちが飛んだ。
「ッ……!」
頬に走る鋭い痛み。
だが、イブンが見たのはエンヴァの怒りの表情ではなかった。
そこにいたのは、頬を朱に染め、瞳孔を見開いた恍惚の怪物。
(邪魔を……してはいけない)
本能がそう告げていた。
今の彼女は、神か、さもなくば悪魔の領域に足を踏み入れているのだと。
眼下では、声なき絶叫が砂塵に消えていた。
エンヴァが魔力を注ぎ込んだ広大な地面が、生き物のように蠢きだす。
「なんだこれは! 助けてくれ!」
「親分! 逃げられねえ、砂が、砂が……!」
それは、底なしの流砂だった。
半径数十メートル、見渡す限りの全てのものが砂に飲み込まれている様が見て取れた。
巨大な渦を巻く砂が、五十人の野盗、連れていたラクダ、そして略奪のための道具一切を、一呑みに飲み込んでいく。藻掻けば藻掻くほど砂は重く、深く、彼らの肺を圧迫し、悲鳴さえも砂の粒子で塗り潰した。
数分。
ただそれだけの時間で、そこにはテント一つ、死体一つ残らなかった。
ただ、最初から何も存在しなかったかのような、美しい銀の砂原が広がっているだけだった。
浮遊の膜が消え、静寂の戻った砂の上に着地する。
魔力を放出しきったエンヴァの体からは、陽炎のような熱気が立ち上っていた。
彼女はゆっくりとイブンに向き直る。
そして、呆然とする彼の顔を小さな両手で掴むと、その唇を強引に奪った。
「…………っ」
それは、八歳の子供同士のものとは思えないほど、長く、深い沈黙の儀式。
その表情、まるで淫猥な大人の女のようなこれまで彼女が見せた事の無い顔。
イブンには分からなかった。これが愛情なのか、それとも口封じの呪いなのか。
あるいは、高ぶった魔力の余熱を自分に押し付けているだけなのか。
「帰るわよ。そろそろ王宮も大騒ぎでしょうから」
唇を離したエンヴァは、何事もなかったかのように歩き出す。
「う、うん。そうだね……」
イブンは、自分の唇に残る微かな鉄の味と、彼女の冷たい感触を反芻した
理解しようとしても、少年の語彙では追いつかない。
彼はただ、これを悪い夢なのだと思い込むことで、壊れそうな正気を繋ぎ止めた。
「……痛かった? ごめんなさいね」
先ほどまでの狂気はどこへ行ったのか。
エンヴァは慈愛に満ちた、けれど氷のように冷たい手でイブンの頬をなぞった。




