4生 ep.2
帝国の文官たちが綴る地図において、その地は「白」だった。
支配の及ばぬ無国籍地帯。
価値を見出されぬ無支配地帯。
真っ赤なインクで塗り潰された「禁忌」の森とは対照的に、そこはただ、忘れ去られたように空白のまま放置されている。
広大な砂漠に点在する、真珠のようなオアシス。
たった一杯の水を巡り、昨日は隣人だった者たちが今日は殺し合う。
小さな集団の小競り合いは、瞬く間に火を吹き、やがて「国家」を自称する群雄たちが勃興しては、砂の城のように崩れ去っていく。
それがこの地の日常——終わりのない「水源戦争」。
精強な軍隊と広大な領土を誇る帝国ですら、この乾いた土地を統治する無益さを悟っていた。
歴史書のどこを捲っても、帝国がこの砂塵に支配の旗を立てようとした形跡はない。
ここは、文明の理屈が通用しない、神に見捨てられた徒花の土地なのだ。
そんな地獄のような環境において、オアシスからオアシスへと命を繋ぐキャラバンは、唯一この地を流れる「血流」だった。
アデルのように、武装し、商い、時には戦禍を掠めて旅を続ける者たちは、決して珍しい存在ではない。彼らは国家という鎖に縛られず、ただ「生存」というただ一点の法に従って砂の海を泳ぐ。
「……いいか、この砂漠じゃ水を持ってる奴が神だ。だが、その神を運んでるのは俺たちなんだよ」
アデルが焚き火を囲んで語るその言葉は、この地の真理だった。
略奪、虐殺、そして渇き。
あらゆる慈悲が蒸発したこの熱砂のただ中で、二人の赤子——黄金の瞳を持つエンヴァと、その手を握ろうとしたイブン——は、運命という名の砂嵐に巻き込まれようとしていた。
五年の歳月は、砂漠の過酷さを思えば瞬きのようなものだった。 アデルは「買い手がつかなかった」と悪態をつきながらも、その実、賢く手のかからないエンヴァを、そして実子イブンの面倒を実の姉のように見る彼女を、家族として受け入れていた。
だが、平穏は唐突に、そしてあまりに残酷に破られる。 五歳を迎えたある日。エンヴァの小さな体に、それは「呪い」となって降り注いだ。
「ア……ガ……ぐっ、……!」
深夜岩陰に逃げ込んだエンヴァを襲ったのは、これまで経験したことのない密度の魔力と知識の奔流だった。 何度も繰り返されて蓄積された記憶の残滓が、五歳の未熟な器を内側から食い破ろうとする。
(……こんなに、キツかった……?)
エンヴァの意識は混濁し、骨は悲鳴を上げ、全身の毛細血管が圧力に耐えかねて弾ける。
眼球から、そして口端から、熱い血液が砂の上に滴り落ちた。
(魔力が……増えている。転生を重ねるたびに……深くなっている)
前世、そしてその前の生でも、その兆候はあった。
死と再生を繰り返すたびに、源流にある魔力はより濃く、より質量を増していく。
抜け落ちていく記憶と反比例するように、破壊の力だけが研ぎ澄まされていく。
それはもはや、一つの身体で抱えられる領分を超え始めていた。
「ねえ! 大丈夫!? エンヴァ! お父さんを呼んでこようか!?」
後を追ってきたイブンが、血にまみれのたうち回るエンヴァを見て顔を真っ青にする。震える手で背中をさすってくれるが、そんな温もりですら今のエンヴァには火傷のような痛みだった。
(……そうじゃ、ないのよ。今の私に触れたら、あなたまで……)
「うあああ! 目を……つぶって! 伏せて! イブン……!! もう……!」
理性を振り絞った絶叫。その迫力に圧されたイブンは、帽子を深く被り、エンヴァの背中に隠れるようにして砂の上に伏せた。
直後。
「あ……あああああああ!」
天地を揺るがす絶叫と共に、まばゆい光が爆発した。 それは魔法というよりは、あまりに巨大な「質量」の解放。
イブンが恐る恐る目を開けた時、そこにあったはずの巨大な砂の丘が、跡形もなく消えていた。
爆発したのではない。
エンヴァが放出した魔力のあまりの密度に、砂の一粒一粒が熱すら介さずに「蒸発」し、虚空へと消えたのだ。ぽっかりと空いた空間へ、周囲の砂が音を立てて流れ落ちる光景は、この世の終わりのように静かだった。
気を失い、泥のように眠るエンヴァを背負って、イブンは野営地へと向かう。 小さな背中にかかる、血の匂いが混じった少女の重み。
「……」
見張りのカシムは居眠りをし、父アデルもまだ眠りの中にいた。
イブンは誰にも何も言わなかった。 見てはいけないものを見たという恐怖よりも、「この子を隠さなければならない」という本能的な使命感が、五歳の少年の胸に芽生えていた。
砂漠の夜が、二人の秘密を深く、重く包み込んでいった。
翌朝、砂漠の太陽が天幕を焼き始める頃、エンヴァは静かに目を覚ました。
全身を突き抜けたあの破壊的な激痛は、嘘のように引いている。
代わりに、彼女の意識を支配していたのは、鮮烈な「魔女の記憶」だった。
昨夜、五歳の小さな器から溢れ出したあの奔流。
その瞬間、脳を焼き切るほどの衝撃と共に、彼女の全身を駆け抜けたのは、恐怖でも苦痛でもなかった。
(……とても、気持ち良かった)
私は、そっと自分の小さな下腹に手を当て、昨夜の残響を確かめる。
そこには紛れもない「潤い」が存在していた。
それは、五歳の少女が知るはずのない、そして知ってはいけない類の抗いがたい法悦を伴う快楽だった。
「魔女」は数多の転生の中で女としての生を何度も繰り返してきた。
何十という男たちに抱かれ、愛を囁かれ、肉体的な快楽を知ったこともあった。
けれど、そんなものは今の記憶の前では、泥水のように濁った、退屈な遊戯に過ぎない。
魔力という名の、宇宙そのものを吐き出すかのような純粋な放出。
その瞬間の震えは、魂の芯までを沸騰させ、あらゆる感覚を白濁させるほどに甘美だった。
あの夜以来、イブンの世界はエンヴァを中心に回り始めていた。 それが幼い恋心なのか、それとも抗いがたい強者への畏怖なのか、五歳の彼には判別できない。ただ、キャラバンの誰が見ても、影のようにエンヴァに寄り添うイブンの姿は日常の景色となっていた。
砂漠に銀の月が昇るある夜。 ふと目を覚ましたイブンは、隣にいるはずの少女の体温が消えていることに気づく。
「……エンヴァはどこ? カシム」
天幕を出て、眠たげに見張りをしていたカシムに尋ねる。
「ああ、あっちの岩場の方へ行ったよ。夜風は毒だ、連れ戻してやってくれ」
カシムが指差した先。そこには、月光を浴びて岩肌に佇む、不気味なほど静かな少女の背中があった。
「ねえ、エンヴァ。戻ろうよ、風邪を引いちゃう」
背後から声をかけるイブンに、彼女は振り返りもしない。ただ、冷たく透き通った声で問いかけた。
「……あなた、あの時のこと。一緒にいたわよね。見たでしょう?」
イブンは一瞬言葉に詰まり、重く頷いた。
この少女に嘘を言っても無駄だと本能が悟っていた。
あの砂の丘が蒸発した、地獄のような光景。
「秘密にしてくれて助かるわ。……これからも黙っていてくれるなら、あなたたちに『恵み』をあげてもいい。けれど、もし口外したら……解っているわよね?」
少女がゆっくりと手のひらを天にかざす。 魔法の素養などないイブンでさえ、周囲の空気がパチパチと震え、肺が押し潰されるような膨大な圧力——魔力——を感じ取っていた。
「目を瞑っていなさい。身のためよ」
逆らう術などない。イブンが強く目を閉じ、身を屈めた刹那。
シャーーー――ッ!
天と地が一本の白銀の糸で繋がったかのような錯覚。 次の瞬間、世界を粉砕するような轟音が鼓膜を叩いた。
――ドンッ!!
衝撃波が地面を揺らし、巨大な岩山が真ん中から真っ二つに割れた。 切り裂かれた岩肌からはブスブスと熱い煙が上がり、焦燥した匂いが鼻を突く。
「ひええええええ!」
あまりの衝撃に悲鳴を上げるイブン。
その騒ぎを聞きつけ、アデルをはじめとする大人たちが武器を手に次々と駆けつけてくる。
そこには、顔を赤く上気させ、恍惚とした表情を浮かべるエンヴァがいた。
しかし、大人たちの足音が近づくやいなや、彼女は一瞬で「怯えた少女」の仮面を被る。
「……雷が、落ちたの」
涙ぐんだ瞳で、無垢な指先が岩の裂け目を指した。
「雷だと……? 確かに、この音は……」
「しかし、岩山がここまで割れるなんて、見たこともない」
「あんたたち! 怪我はないかい!」
血相を変えて駆けつけたアミーラが、二人を強く抱き寄せる。
その時だった。
「隊長! 見てください、これ……水だ! 水が湧いてる!」
部下の叫びにアデルが駆け寄ると、雷が穿った岩の裂け目から、透明な地下水がこんこんと溢れ出していた。
「おお……これは神の恵みだ!」
「俺たちだけが知るオアシス。……冷たい!不純物も混ざってない良質な水だ!」
狂喜乱舞する大人たち。 アデルはこの瞬間、直感した。この情報の価値を。
彼は即座に、この岩山を拠点を定め、情報の徹底した秘匿を命じた。
他のキャラバンに悟られぬよう、わざわざ遠くの街で買った水をこの拠点に運び込み、出所を偽装して各地の市場へ流す——。
「こんなオアシス、他所に知れたら傭兵を雇われてお陀仏だ。慎重に動くぞ」
アデルの警戒は功を奏した。
良質な水を独占し、巧みに情報操作を行うアデルのキャラバンは、各地の市場で急速にその発言力を強めていく。
その繁栄の影で。
イブンだけは、エンヴァの快楽に上気した恍惚の表情を忘れる事ができなかった。
彼はその秘密を、墓場まで持っていく覚悟で胸の奥に閉じ込めた。




