4生 ep.1
頭上に広がるのは、無限を感じさせる美しい満天の星空。
数百万年、いや数億年前に発せられた光が頭上でまばゆく瞬いている。
陽が落ちて熱を失った砂漠の廃墟で、一つの命がこの世に繋ぎ止められようとしていた。
崩れかけた石壁にもたれかかる女の体は、すでに死の影に深く侵されている。
出産という過酷な儀式は、痩せ細った彼女から最後の体力を奪い去っていた。
止まらぬ出血が乾いた砂を黒く染め、命の灯火は今にも吹き消されそうなほどに細い。
「エンヴァ……、エンヴァ……」
極限の衰弱と苦痛、そして孤独、恐怖、諦観。
精神の九割がたを狂気に飲み込まれた彼女の意識は、もはや現実を捉えてはいなかった。
ただ本能だけが、腕の中に抱いた小さな熱を離すまいと命じている。
出ない乳を赤子の口に含ませようとする指先は、絶望的なほどに震えていた。
「オギャー! オギャー!」
静寂に包まれた死の淵で、赤子の声が響き渡った。
それは、母の衰弱を嘲笑うかのような、強烈な生命力に満ちた絶唱。
このまま誰にも見つからず、母と共に砂に還るはずだった運命を、その声が引き戻した。
たまたま、この廃墟を一夜の宿として選んでいた者がいた。
付近でキャンプを張っていた武装キャラバンの隊長が、夜風に乗って届いた異質な音に耳を止める。
「……赤ん坊の声か? こんな場所で?」
剣の柄を握り、慎重に廃墟の奥へと足を踏み入れた隊長は、そこで見た光景に息を呑んだ。
崩れかけた壁の影、血の匂いと死の気配。
その中で、ただ一人この世に抗うように泣き叫ぶ黄金の瞳の赤子と、それを抱いて力尽きようとしている母親の姿を。
隊長の手によって抱き上げられた瞬間、赤子の泣き声はぴたりと止まった。 その黄金の瞳が、自分を救い上げた男の顔をじっと見つめる。
まるで、最初からこうなることを知っていたかのような、冷ややかで鋭い眼差し。
母親は、赤子が温かな毛布に包まれたのを見届けたのか、あるいはその「名」を男の耳に刻んだのか——。
「エンヴァ……」
それが、彼女の最後の言葉となった。
母の骸を背に、キャラバンは再び砂漠の夜へと消えていく。
戦乱の砂漠諸国に、新たな「魔女」が誕生した瞬間だった。
焚き火が爆ぜる音と、乾いた夜風のうなり。
砂漠の廃墟から戻った隊長アデルの手には、目に星の光を纏った赤子が抱かれていた。
「隊長! そんな得体の知れないもん拾ってきて、どうするつもりですか!」
焚き火の向こう側で、部下の男が顔をしかめて声を上げる。
砂漠において、余計な口を増やすのは死に直結する愚行だ。
だが、アデルはどこか取り憑かれたような顔で、その赤子の瞳を見つめていた。
「そう言うな。タダで拾ったんだ、どこかの街で物好きの買い手がつくかもしれんだろ。……アミーラ! アミーラ!」
アデルが声を張り上げると、荷馬車の陰から一人の女性が顔を出した。
キャラバンの隊長であるアデルの第二夫人、アミーラ。
彼女は一ヶ月前に男の子を産んだばかりで、その胸にはまだ柔らかな母性の熱が残っていた。
「なあに、あなた。また私に拾い子の世話をさせたいの?」
アミーラは呆れたように腰に手を当てた。だが、アデルは熱っぽく言葉を続ける。
「いいか、これを見てみろ。天にまたたく星よりも輝く、見事な金色の瞳だ。もしかすると……この子は、天が俺に与えた運命の子なのかもしれんぞ」
「またそんな景気のいいことを言って。……はいはい、乳をあげればいいんでしょ。仕方ないわね」
アミーラはエンヴァを抱き上げる。
「『エンヴァ』……。変わった名前ねぇ」
呆れたように笑いながらも、その手つきはどこまでも慈愛に満ちていた。
彼女の腕の中には、ひと月ほど前に産まれたばかりの我が子、イブンがすやすやと眠っている。
その温かな体温のすぐ隣に、砂漠の死地から拾い上げられた「異物」——エンヴァがそっと並べられた。
アミーラがその豊かな胸をはだけさせ、乳をふくませる。
すると、それまで激しく泣き叫んでいたエンヴァは、魔法が解けたかのようにぴたりと声を潜めた。
(……この子は)
アミーラは、思わず息を呑んだ。 乳を飲む赤子の瞳——夜空の星を凝縮したような、あまりに鮮烈な黄金の双眸。 それは赤ん坊らしい無垢な揺らぎなど微塵もなく、ただ静かに、冷徹に、自分に命を分け与える養母を観察していた。
その時、隣で眠っていた黒髪の赤子、イブンが目を覚ました。
「ア……ブブ」 まだ言葉にもならない声を上げながら、イブンはぷくぷくと太った小さな手を、迷いなく隣のエンヴァへと伸ばす。
その指先が、エンヴァの頬に触れた。
砂漠の過酷な熱風の中でも、イブンの手は驚くほど柔らかく、温かかった。
エンヴァの黄金の瞳が、ゆっくりと隣の少年へと向けられる。
片や、砂漠の民として力強く生を受けた象徴である黒髪の少年。
片や、数千年の呪いと孤独をその身に宿した、不老の魔女の転生体。
この時、二人の間に結ばれた「乳兄弟」という絆。
それが後に、砂漠の王国を揺るがし、血塗られた戦火の中で二人を切り裂く過酷な運命の始まりになるとは、アミーラも、そして今はまだ無力な赤子たちも、知る由がなかった。




