3生 ep.5~
エンヴァ19歳。
かつての「魔女」でもなく、ただ一人の「母」としての皮肉な幸福が、凍てついたツンドラの夜に静かに沈殿していった。
親子五人が築き上げた、脆くも美しい「氷の楽園」。 その安穏を切り裂いたのは、猛吹雪の音ではなく、凍てつくような憎悪を孕んだ叫び声だった。
小屋の扉を叩き、雪崩れ込んできたのは、かつての面影を無惨に削ぎ落とした女。
エンヴァの妹、サリだった。
「パパも、ママも……みんな死んだ! あんたたちが、あんたたちが逃げたせいよ!」
ボロボロの衣服に身を包み、凍傷で黒ずんだ指を突きつける彼女の瞳には、かつての無邪気さなど微塵もなかった。 あの夜、姉たちが消えた後、集落は地獄と化した。残された彼女は一人で町へ流れ着き、生きるためにその身を、尊厳を、あらゆる欲望の泥濘に沈めてきた。その壮絶な歳月を支えたのは、自分を捨てて幸せを掴んだ「姉」への、どす黒い怨念だけだった。
サリは、持ち前の耳の良さと、娼婦として這い上がった人脈を使い、執念深く姉の足跡を辿り続けていた。そしてついに、町の有力者に「魔女の隠れ家」の情報を売り渡し、この死のツンドラへ追手を導いてきたのだ。
「ああ、見てよ……。こんな汚い場所で、仲良く三人で『家族ごっこ』? 気持ち悪い……虫唾が走るわ!」
彼女の背後から、吹雪を割って重厚な足音が響く。 現れたのは、町の教会の紋章を掲げた異端審問官と、武装した兵団だった。
「……背徳の重婚。神の名において、貴様らを断罪する」
この大陸において、神の教えは絶対だった。 「一人の女が二人の夫を持つ」という、エンヴァが合理性ゆえに選んだ関係は、教会の法においては一発で「火刑」に処される大罪である。
「エンヴァ、下がれ!」 モーヴがレオを背中に庇い、巨大な斧を構える。
「……サリ、君はそこまで……」 シミルがリナを抱きかかえ、絶望に顔を歪ませる。
サリは狂ったように笑い転げた。 「あんたたちの血が雪を染めるのを見るのが、私の十五年間の夢だったのよ! さあ、死んで! みんな死になさい!」
(……ああ、そう。……結局、そうなのね)
エンヴァは、暖炉の火に照らされたサリの醜い貌を、ただ静かに見つめていた。
自分が与えた「知恵」も、守り抜いた「命」も、最後にはこうして自分を焼き尽くす薪になる。
アンナの時も、前世のエンヴァの時も、そして今も。
人間は、与えられた愛や慈悲よりも、奪われた憎しみを糧に強くなる。
平穏は、あまりに呆気なく、暴力的な音を立てて崩れ去った。
「エンヴァ! 子らを連れて逃げろ!!」
吠えたのはモーヴだった。
ツンドラの冬をもねじ伏せてきたその豪腕で、彼は巨大な斧を振り回し、兵士たちの包囲網に突っ込んだ。 だが、相手は血に飢えた狂信の軍勢。数に任せた組織的な連携の前に、猛牛のようなモーヴの体も、一人、また一人と折り重なる兵士たちの重圧に沈んでいく。
「が……はっ! 離せ、この……っ!」
雪原にねじ伏せられ、幾十もの剣がその首筋に突き立てられる。最強の「盾」が、泥に塗れた。
「レオ、リナ! こっちだ、裏口から森へ!」
シミルが、震える手で子供たちの背を押した。
だが、サリの執念は、その裏口さえも読み切っていた。
「逃がさない……逃がさないわよ、お姉ちゃん! あんたの『宝物』も全部、私が壊してあげる!」
裏口を固めていたのは、サリが抱き込んだ町の私兵たち。
「シミルパパ!」 「お母様……!」
レオとリナの悲鳴が、凍てついた空気を震わせる。 シミルもまた、兵士の棍棒に打たれ、雪の上に膝を折った。彼の理知的な瞳が、絶望に曇る。
家族が蹂躙され、夫たちが地に伏し、妹が狂喜の声を上げるその中心で。
エンヴァだけが、一滴の涙も流さず、ただ静かに立っていた。
彼女の視界に映るのは、かつての記憶の断片だ。
魔女として火に焼かれた時。
自ら産み落とした子に首を落とされた時。
いつも、最後はこうだった。
(……ああ。やっぱり、人間は変わらないのね。私がどれだけ静かな眠りを求めても。外の世界は、土足で私の家を壊しにやってくる)
彼女の中で、十七年かけて蓄積された「母」としての熱が、急速に冷めていく。
猛吹雪の中、狂気と憎悪に染まった妹の叫びが響き渡る。 サリの心には、姉という巨大な太陽に焼かれ続けた空白しかなかった。姉が美しすぎるせいで、姉が特別すぎるせいで、誰も自分を見てくれなかった。挙句、その姉に捨てられたせいで人生のすべてを失った。
「死んじゃえばいいんだ!」
その呪詛を、エンヴァはまるで聖母のような慈愛を湛えた瞳で受け止めた。 彼女は、首筋に突き立てられた刃も、地に伏した夫たちの絶望も無視して、ふらりと歩み寄る。そして、震えるサリの頭を、かつての母のように優しくその胸に抱き寄せた。
「そうね、ごめんね。……最後くらいは、あなたの言うことを聞いてあげるわ」
その囁きは、甘く、冷たく、そして絶対的な終焉を予感させた。
驚愕に目を見開く兵士たちの前で、最強の魔女は無抵抗のまま、その細い手首を鎖で縛り上げられた。
「……え?」
サリの喉が鳴る。 あれほど憎み、あれほど壊したかった姉。 だが、その姉に「最後」と言われ、優しく抱きしめられた瞬間、彼女の胸を満たしていたはずの復讐の炎が、得体の知れない「恐怖」に塗り替えられていく。
エンヴァは縛り上げられ、引きずられながらも、地に伏したモーヴとシミル、そして泣きじゃくる子供たちを振り返った。
その瞳には、かつての「母」の面影はもうない。
町の広場に築かれたのは、天を突くような三つの処刑柱。 その周囲を、好奇と恐怖、そして歪んだ熱狂を孕んだ百人以上の群衆が取り囲んでいた。
重婚という「不潔な罪」を犯した二人の男と、彼らを惑わしたとされる「絶世の美女」。
異端審問官の宣告は冷酷だった。三人は火刑。その罪の証として遺された幼きレオとリナは、修道院へと送られ、一生をかけて両親の不徳を贖う「奴隷」となることが決まった。
薪が積み上げられ、処刑の刻が迫る。 左右の柱に縛り付けられたモーヴとシミルは、死の恐怖など微塵も感じさせないほどに、中央のエンヴァだけを見つめていた。
「エンヴァ! 俺は後悔していない! お前を奪い去ったあの日から、俺の人生は完成していたんだ! 愛している!」
モーヴの野性味溢れる咆哮が広場に響き渡る。
「僕もだ、エンヴァ! 君と過ごした夜こそが、僕にとっての真の神域だった! 愛している、永遠に!」
シミルの悲痛なまでの叫びが空を裂く。 だが、その中心で、エンヴァはただ虚空を見つめていた。
やがて、処刑人の松明がくべられた。 パチパチと乾いた音を立てて火が回る。足元から這い上がってくる熱気と、皮膚を焼く不快な感触。
(……また火刑? 芸がないわね。早く終わらないかしら)
エンヴァは欠伸でも噛み殺したいような退屈さを感じていた。
数えきれないほどの「死」を経験してきた彼女にとって、この苦痛はもはや、ただの不快な作業でしかない。左右からは、炎に包まれながらも自分を呼び続ける夫たちの絶叫が届く。
「エンヴァ!」「エンヴァーーー!!」
愛の言葉と、死の苦悶が混ざり合った地獄のような合唱。
見物人たちは、火に巻かれながらも一言も発さず、ただ超然と美しく佇む少女の姿に、戦慄を覚えた。
「見ろ……叫び声一つ上げないぞ」
「男たちをあそこまで狂わせるなんて、やはりあれは人の皮を被った『心を奪う魔女』だ……!」
異端審問官の非情な声が広場に響く。 その最前列で、レオとリナは兵士たちに組み伏せられ、無理やり顔を上げさせられていた。
「ママ! ママーーーッ!!」 「モーヴパパ! シミルパパアアアアア!!」
幼い喉が潰れんばかりの悲鳴。 視界に映るのは、美しかった母が黒い煙に包まれ、大好きだった父たちの腕が、炭となって崩れ落ちていく光景。 執行官たちは、この惨劇を「教育」と呼んだ。罪人の子らが二度と神に背かぬよう、親の末路を骨の髄まで叩き込むのだと。
処刑が終わると執行官たちは満足げに頷いた。
「魔女は滅んだ。さあ、その子供たちを連れて行け」
引きずられていくレオとリナ。 だが、彼らの瞳からは、先ほどまでの涙が消え失せていた。 ただ、燃え尽きた灰の山を、そして自分たちからすべてを奪った大人たちを、凍てつくような「無」の眼差しで見つめている。
執行官たちは、勝利の美酒に酔いしれていた。
「これこそが神の正義だ」と、灰になった「魔女」と「不浄な夫たち」の残骸を見下ろし、満足げに鼻を鳴らす。だが、彼らは気づいていなかった。その足元で、自分たちが何を育て上げてしまったのかを。
最前列で、両親が「物」へと変わる様を強制的に見せつけられたレオとリナ。
二人の幼い網膜には、網目状に広がる漆黒の炎が焼き付いていた。それは涙で洗い流せるような代物ではない。一生、瞬きをするたびに瞼の裏で燃え上がり、彼らの視界を「憎悪」の色に染め上げる消えない呪印であった。
あの日からどれだけの月日が経っただろう。
姉を殺し、その夫たちを灰にし、奪われ続けた人生の「清算」を終えたはずのサリ。
しかし、彼女が手に入れたのは勝利の美酒ではなく、喉を焼く砂のような孤独だった。
町へと戻り、有力者の庇護の下で「魔女を告発した女」として持て囃される日々。
だが、彼女の耳には、あの処刑場の喧騒ではなく、最期に姉に抱きしめられた時の、衣擦れの音と心音だけが鳴り止まない。
ある日、サリは衝動に突き動かされ、レオとリナが預けられた修道院を訪れる。 「あの子たちの絶望した顔を見れば、私の心はもっと晴れるはず」 そう自分に言い聞かせ、重い鉄の扉を開けた。
だが、灰色の法衣に身を包んだ二人と対面した瞬間、サリの膝は崩れかけた。
「……叔母様。わざわざ、お会いしに来てくださったのですか?」
そう言って微笑んだのは、黒髪のリナだった。
その立ち居振る舞い、優雅な指先の動き、そして何より——すべてを見透かし、それでいて何も期待していない、あの「乾燥」した黄金の瞳。
「ひっ……!」
サリは悲鳴を飲み込んだ。 目の前にいるのは、幼い姪ではない。
自分を抱きしめ、「ごめんね」と囁いて死んでいった、あの忌々しくも美しかった姉・エンヴァそのものに見えた。
「ママが言っていました。サリ叔母様は、とても寂しがり屋で、誰かに愛してほしかっただけなのだと」
隣に立つ金髪のレオが、父モーヴ譲りの鋭い眼光でサリを見下ろす。
その瞳の奥には、両親を焼き尽くしたあの日の黒炎が、今も静かに、けれど激しく燃え盛っている。
「……嘘よ。あいつが、そんなこと……!」 「本当ですよ。だから僕たちは、叔母様を『愛して』あげようって決めたんです」
レオがサリの肩に手を置く。
その力強さは、かつて自分を組み伏せた兵士たちの比ではなかった。
二人の子供に囲まれ、サリは悟った。
自分は姉を殺したのではない。
姉という呪いを、この二人の怪物の中に永遠に閉じ込めてしまったのだと。
それからのサリは、何かに取り憑かれたように修道院へ通い詰め、多額の寄付を繰り返した。
町の者は「慈悲深い聖女だ」と称賛したが、実態は違った。
彼女は、二人の子供たちの瞳の中に、姉の面影を探さずにはいられなくなったのだ。
「ねえ、リナ。今日はあのお話をしましょう? ……お姉ちゃんが、私に冷たくした時の話を」
「ええ、いいですよ、叔母様。何度でも聞かせてください。あなたがどうやってママを殺したのか、その物語を」
どんなに貧しくなってもサリの寄付は続けられた。
いつしかそれはレオとリナが奴隷の身分から自由を得られるほどの金額になっていた。
エンヴァに似て美しい彼女の顔と体は娼婦として最高の素材と言えた。
サリの狂気は、静かな夜に牙を剥いた。
ある晩、彼女は懐に鋭利な短剣を忍ばせ、子供たちが眠る修道院の寄宿舎へと忍び込んだ。
(今度こそ……今度こそ、あの忌々しい『血』を根絶やしにしてやる)
眠っているレオとリナの首筋に刃を当て、一息に振り下ろそうとしたその瞬間――リナの瞼が、音もなく持ち上がった。
「……叔母様。そんなに震えて、どうしたのですか?」
暗闇の中で、リナの金色の瞳が爛々と輝く。
その瞬間、サリの脳裏を爆風のような衝撃が襲った。
目の前に広がるのは、煤けた寄宿舎の天井ではない。 天を突く火柱。肉の焼ける異臭。そして、黒炎に包まれながらも、一切の恨み言を吐かず、ただ慈しむように自分を見つめ、優しく微笑んだあの時のエンヴァの顔だ。
(来る――また、あいつが来る!)
サリの手から短剣が滑り落ち、床に虚しい音を立てた。
サリにとって、あの時のエンヴァの微笑は「許し」などではなかった。それは「私は死なない」という、魔女による絶望的なまでの宣言だったのだ。
いつ、あの炎の中から煤にまみれた姉の手が伸びてきて、自分の首を絞め上げるのか。
いつ、自分が眠りについた瞬間に、姉の黄金の瞳が天井から見下ろしてくるのか。
(ああ、お姉ちゃん……。あんたは死んでまで、私を支配するのね)
数年後、サリは変わり果てた姿で発見される。
自らの瞳を「黄金色ではないから」という理由で潰し、暗闇の中で
「お姉ちゃん、ごめんね、愛してる」
と、かつて一度も口にしなかった言葉を、壊れた蓄音機のように繰り返していたという。
そして、物語は一旦レオとリナの二人のその後に移る。




