3生 ep.2
あの大きな鹿を集落が8割がた食べつくす頃・・・
比較的吹雪の少ない程度の「春」がやってきた。
こうなると集落の大人達も、大人なりの食料調達をはじめる。
あの鹿の干し肉を担いで南の森へと狩りへ向かう男達。
そして雪の下に眠る根菜や芽吹き始めた柔らかい芽を集める女達。
極寒の冬、エンヴァの日常は「散策」という名の偵察にあった。 例の大鹿の件以来、両親は彼女を「幸運を呼ぶ娘」か何かだと思い込んでいるのか、吹雪の日に娘が一人で外へ出ても一切干渉しなくなった。それは彼女にとって、何よりの好都合だった。
集落の近くで最も高くそびえる杉の木。
その最端まで軽やかに登りつめたエンヴァは、遮るもののない白銀の世界を黄金の瞳で見渡した。
大人の足でさえ数日の範囲に、他の村も、集落も、教会の影すらない。
「……理想的じゃない」
珍しく、本音が零れた。 前世、そして前々世。常に人の欲望と嫉妬にさらされてきた彼女にとって、この「空白の地図」こそが求めていた聖域だった。
集落に戻ったエンヴァは、草の繊維を束ねて丈夫な糸を縒り、大鹿の骨を削って鋭い釣り針を作り上げた。 さらに森の凍土を掘り返して虫を採取すると、氷の解けた川へと女たちを誘い出した。
「こうやって針を垂らすの。……あと、そこの支流にはこの籠を沈めておいて」
彼女が作ったのは、一度入れば出られない返しのついた「筌」。
数時間後、そこには丸々と太った川魚が跳ね、雪の上に銀色の山を築き上げた。女たちは目を剥き、驚愕の声を上げる。
「エンヴァ、どうしてこんなこと知っているの!? 誰も教えていないはずなのに!」
当然の問い詰め。六歳の少女が、高度な加工技術と漁の知識を持っているはずがない。
エンヴァは無表情のまま、あざとく首を傾げてみせた。
「ううん、なんとなく。……こうすれば、お魚さんも入ってくれるかなって思っただけ」
(……嘘に決まってるでしょ)
女たちは釈然としない顔をしながらも、目の前の「食料」という事実には抗えなかった。
結局、彼女たちは「エンヴァは少し変わった、賢すぎる子なのだ」と自分たちを納得させるしかなかったのである。
もうすぐ七歳。 幼いながらも、その容姿には「絶世」の片鱗が残酷なほどに現れ始めていた。透き通るような白い肌、冬の太陽さえ霞ませる黄金の瞳。
だが、エンヴァにとってそれは美徳ではなく、将来的に質の悪い男や権力者を引き寄せる「呪い」でしかない。
美貌という呪い。そればかりは、いかに膨大な魔力と叡智を持つ魔女であっても、時の流れを止める術がない以上、諦めるしかなかった。 日に日に研ぎ澄まされていく容姿。それが招くであろう未来の厄災を想い、六歳の少女は藁のベッドの中で、心底冷え切った結論を下していた。
(その時は、全員殺せばいいだけ)
本気だった。
彼女にとっての「殺意」は憎しみではなく、邪魔な雑草を抜くのと同じ、極めて合理的な「整理」の範疇にあった。
その日、男たちは手ぶらで狩りから戻ってきた。 肩を落とし、言い訳を並べようとする彼らを出迎えたのは、女たちが積み上げた銀色の山——脂の乗った川魚たちだった。
「な、なんだこれは……! どうやってこんなに魚を獲ったんだ!」
「……あの子よ」
母親が短く答え、視線で指し示した先。 そこには、騒ぎなどどこ吹く風と、藁に埋もれて寝たふりをしているエンヴァがいた。
「エンヴァが……またか」
「ねえ、あなた。……あの子、なんだか気味が悪いのよ。私たちが何をしていても、まるですべてを見透かしているような、冷たい目で見てくるの」
産みの母親の口から漏れた、本音の拒絶。
すべてはエンヴァの耳に届いていた。だが、彼女は眉一つ動かさない。
自分を「気味が悪い」と評する母親に対し、怒りすら湧かなかった。
ただ、事実を再認識しただけのことだ。
そんな冷え切った関係の中、エンヴァに妹が誕生した。 狭苦しい、壁の薄い家だ。
夜になれば、家族の営みはすぐ隣で行われる。
寝たふりを決め込むエンヴァの耳に届くのは、理性をかなぐり捨てた両親の嬌声と、生々しい肉体のぶつかり合う音。
(……まるで、動物ね)
暗闇の中で目を開け、エンヴァは無感情に壁を見つめる。
娯楽もなく、知恵もなく、ただ本能と快楽に溺れることでしか生を実感できない両親。
その営みの結果として産み落とされた、真っ赤な顔で泣く妹。
この集落で、この家族と共に歩む未来などない。
自分はこの家系に属する人間ではなく、ただ一時的に器を借りているだけの「異物」なのだと。
妹の産声と両親の淫らな吐息が混ざり合う中、エンヴァは「家族への愛」を切り捨てた。
エンヴァという「知恵」がもたらした恩恵により、最果ての集落は奇跡的に平穏を保っていた。
九歳になった彼女が、かつて「大鹿」を誘導し、効率的な漁を教えなければ、三つの家族は今頃、雪の下で凍りついた骨となっていただろう。
だが、腹が満たされれば、人間は次に「欲」を抱く。 日に日に研ぎ澄まされ、神々しいまでの輝きを放ち始めたエンヴァの美貌は、閉ざされた集落の男たちの目を、じっとりと湿った歪な色に変えていた。
「なぁ、エンヴァ。15になったら、俺と結婚するんだ。父さんもそう言ってる」
隣家に住む同年代の少年、モーヴが当然のような顔でエンヴァの隣に陣取った。 彼は前世でエンヴァの人生を狂わせた村長の息子・ギアを彷彿とさせる、無自覚な傲慢さを秘めていた。勝手に肩を抱こうとするその手に、エンヴァは内心で激しい嫌悪を覚える。
(……馴れ馴れしく触らないでくれるかしら。不愉快だわ)
一方で、もう一軒の家に住む一歳年下の少年、シミル。
彼は控えめで大人しい性格だったが、モーヴのような覇気はなく、狩りも採取も人並み以下。
集落の大人たちは、勝手に「エンヴァはモーヴかシミルのどちらかと添い遂げるものだ」という未来を描いていた。
「……そうね。先の話だわ」
エンヴァは表情を消し、モーヴの腕を巧みにすり抜けて立ち上がった。
大人たちの勝手な期待。少年たちの未熟で独占欲に満ちた視線。
それは彼女にとって、かつて自分を焼き尽くし、あるいは首を落とした「前世」の縮図でしかなかった。
(できるなら、二人ともごめんだわ)
六歳の頃に抱いたあの冷徹な結論。
「最悪、全員殺してしまえばいい」
その思いは、彼女の魂の奥底で、研ぎ澄まされた氷の刃のように今も静かに息づいていた。
九歳になったエンヴァにとって、この最果ての地は、予想外の「変異」を彼女にもたらしていた。 かつての人生において、魔法は常に恐怖と排除の対象であり、あるいは神聖視される「異物」でしかなかった。しかし、この集落は違う。
ここは、不器用ながらも誰もが魔法を紡ぐ「異端者」達が追放された僻地。
彼女が魔術の研鑽に励んでも、指先から奇跡を漏らしても、隣人たちはそれを「魔女の仕業」と恐れる代わりに、「少し筋が良い」と笑って受け入れた。これは、これまでの生を絶望で塗り潰してきた彼女にとって、極めて異質な体験だった。
「ほら見ろよ、エンヴァ! こうやって火を出すんだ!」
モーヴが顔を赤くしながら、指先から小さな火花を散らせて見せる。 その無邪気な自慢に合わせ、エンヴァもまた指を鳴らす。モーヴのそれよりも、ほんの少しだけ小さく、けれど彼が「頑張れよ!」と励ませる程度の、絶妙な火球。
(……本当、阿呆らしいわ)
内心で毒づきながらも、彼女はこの環境を最大限に利用し始めていた。 誰にも怪しまれることなく、白昼堂々と「魔法の研究」ができる。この集落において、彼女の異常な探求心は「子供の遊び」として処理された。
研究の目的は、生存ではない。 彼女が求めるのは、魂の奥底にぽっかりと開いた穴
——「なぜ、私は終われないのか」という問いへの答えだった。
なぜ、肉体が滅んでも記憶は消えないのか。 なぜ、赤子として産声を上げるたびに、以前よりも巨大な魔力を宿してしまうのか。
その核心部分は、まるで見えない力で封印されているかのように、彼女自身の記憶からも削ぎ落とされている。
(何をしたら、私は死ねるのかしら)
かつては「どうでもいい」と投げ出していた自らの輪廻。
しかし、何も害を為していない村人に裏切られ火あぶりにされた前世、実の息子に首を切り落とされて死んだここ数回の人生は、彼女の魂を回復不能なまでに摩耗させていた。
ここなら、誰にも邪魔されず、この「呪い」の正体を探れるかもしれない。
時間を見つけては自らの記憶の穴を埋める魔術を開発しようとしていたエンヴァ。
しかし、その手前には何重もの封印にも似た障壁が立ちはだかっており容易では無く難航していた。




