6生 ep.7
クラリッサの規則正しい寝息を聞きながら、エンヴァは天井の染みを見つめていた。
その脳裏に浮かぶのは、先日視線を交わしたあの女――「フリーダ」と名乗った魔女の姿だ。
魔女にとって、周囲の「支配」程度の話は児戯に等しい。
人の心に潜む欲望の蕾を、ほんの少し魔法で突いてやれば彼らは勝手に踊りだす。
サイコロの目を変え、猟犬の歩みを狂わせ、確率という名の「理」を強引に捻じ曲げる。
生活に必要な金の工面など、呼吸をするよりも容易いことだ。
フリーダもまた、そうやってこの煤煙の街で財を成し、優雅な「家」と「地位」を築き上げてきたのだろう、とエンヴァは考えていた。
(……あの女。私を見て、微塵も驚かなかったわね)
普通、同じ力を持つ同類に出会えば、己の縄張りを侵されることを恐れ、牙を剥くのが権力者の本能だ。
だが、フリーダから感じられたのは、敵愾心などではなく、もっと奇妙で、ひどく乾いた「親近感」だった。
まるで、長い旅路の途中で、自分と同じ汚れを纏った巡礼者を見つけたかのような。
「魔女」という孤独を知る者だけが共有する、沈黙の合意。
彼女にとってエンヴァは、排除すべき外敵ではなく、この退屈な人間界という箱庭を共に眺める「観客席の隣人」に過ぎないのだ。
エンヴァの今世の始まりは最悪だった。
親に売られ、煤煙に咽び、十六時間の重労働を強いられる奴隷。
だが、そんな「運命の流れ」に身を任せて沈んでいくのは、あまりに退屈すぎた。
(……少しだけ、この退屈なスープにスパイスを振りかけてみようかしら)
手に入れたのは、工場の主さえ跪く莫大な金貨。
そして、隣で無邪気な寝息を立てる「クラリッサ」という名の、温かな光。
魔法を使って確率を歪め、大人の欲望を弄び、泥の中から黄金を掴み取る。
そのスリルは、枯れ果てていたエンヴァの心に、久方ぶりの「愉悦」という火を灯した。
「楽しく、おかしく」生きてみる。
それは、永遠を生きる魔女が、ほんの気まぐれに始めた「人間ごっこ」の延長線上にあった。
「うぅ〜ん……エヴァ……大好き……」
ゴソリ、と重い寝返りを打ったクラリッサが、無意識にエンヴァの細い腰に腕を回した。
寝言に合わせて、彼女の柔らかな金髪がエンヴァの鎖骨をくすぐる。
苺のケーキの夢でも見ているのか、その口元は幸福そうに緩み、抱き着く力は昼間の重労働で疲れ切っているはずなのに、驚くほど強かった。
(……本当に、おめでたい子)
エンヴァは、自分を「ただの少女」として信じて疑わないその温もりを、拒絶することなく受け入れた。
「おやすみなさい、クラリッサ。……明日も、あなたが笑える世界にしてあげるわ」
エンヴァが工場主任を飼い慣らし、クラリッサと苺のケーキを頬張っているその背後で、この国は音を立てて軋んでいた。
産業革命がもたらした光と影。
それは単なる機械の導入にとどまらず、古き良き「王の治世」という幻想を根底から食い破り始めていた。
この国はいま、巨大な過渡期の真っ只中にある。
王都の石造りの宮殿では、未だに「神に選ばれた」と信じる王と貴族たちが、色褪せた絹のカーテンの裏で権力の残滓にしがみついていた。
一方で、工場が立ち並ぶ都市部では、煤に汚れた労働者たちが、自分たちの「権利」という新しい言葉を武器に、鉄パイプとプラカードを掲げて街頭を埋め尽くしている。
「王の頭をギロチンへ!」
「我らにパンと、正当な議会を!」
そんな怒号が、連日、霧の深い路地裏から響いてくる。
王政を維持しようとする近衛騎士団と、自由を叫ぶ民衆派の武装組織。
各地で起こる武力衝突は、もはや「暴動」の域を超え、小規模な内戦の様相を呈していた。
昨日まで平穏だった村が、今日は進駐してきた革命軍の拠点となり、翌日には王軍の砲撃によって灰燼に帰す。
国境付近では、この混乱を好機と見た隣国が虎視眈々と牙を剥き、火薬の匂いは雨とともに常に大地に染み付いていた。
そのような世相の中で、エンヴァの工場は「休業」の日が目に見えて増えていた。
それは平和の訪れではなく、さらに巨大な暴力が外側で膨れ上がっている予兆に他ならない。
工場長や主任たち、いわゆる「労働者階級」が、工具を捨ててプラカードを手に取る。
彼らは「市民派」を自称し、絶対王政の打破を叫んで街頭へと繰り出していく。
「聞け、未来を担う若き市民たちよ! 惰眠を貪る王や貴族の時代は終わったのだ! これからは、俺たち労働者階級が立ち上がるべき時なんだ!」
男の咆哮が、高い天井に反響する。
街で集められた子供たちは、その熱気に気圧されるように、あるいは新たな時代の到来への淡い期待を抱くように、男をじっと見つめていた。
民主化、権利、自由。
彼らにとってそれは、苺のケーキと同じくらい実体のない、けれど甘美な響きを持つ言葉だった。
だが、その輪の最後尾で、作業着の袖を弄んでいたエンヴァだけは違った。
「……ふわぁ」
こらえきれなかった大きな欠伸が、白く細い指の間から漏れる。
彼女にとって、この光景はあまりに「既視感」が強すぎた。
かつての生で、彼女は何度も見た。
「神」の名の下に民を跪かせる王も、「正義」の名の下に王の首を撥ねる市民も。
看板を掛け替えたところで、支配する側とされる側が入れ替わるだけ。
(民主制、ね……。みんなで決めるということは、誰も責任を取らないということなのに)
数千年の歴史を、あるいは複数の世界を渡り歩いてきた魔女からすれば、この男の演説は、壊れた蓄音機が流す安っぽい流行歌に等しい。
「……ねえ、エヴァ。あのおじさん、なんだかすごいね」
隣で目を輝かせているクラリッサの袖を、エンヴァは退屈そうに引いた。
「すごいんじゃなくて、うるさいだけよ。」
デモは日に日に激しさを増し、石畳の上では憲兵隊との衝突が日常茶飯事となっていた。
大人たちが「自由」という名の熱病に浮かされて暴動に興じている間、皮肉にも工場の子供たちには、かつてない「自由な時間」が与えられていた。
「……なんだか、物騒な世の中ね」
エンヴァは、クラリッサと手を繋ぎ、不穏な熱気に包まれた街角を歩きながら独りごちた。
かつての生で、剣が触れ合い魔法が飛び交う凄惨な戦場を幾度も渡り歩いてきた彼女ですら、今のこの「内側から腐り落ち、湧き上がる」ような様相は経験がない。
それは、英雄が旗を振る戦争ではなく、無名の群衆が寄ってたかって古き玉座を解体しようとする、泥臭く、執拗な破壊のプロセスだった。
だが、そんな殺伐とした空気の中でも、エンヴァとクラリッサは「無垢な子供」という最強の特権を最大限に利用していた。
「そろそろ焼き立てのパンが店頭に並ぶ頃じゃないかしら?」
「!!!!そうだね!買いに行こうよエヴァ!」
大人たちが血眼になって体制を呪っている傍らで、二人は商店を冷やかし、焼き立てのパンの香りを楽しみ、迫りくる民主化という巨大な波から、静かに身を隠していた。




