1生 ep.1
さらりと流れる黒髪に、吸い込まれるような深い金色の瞳。
一見すれば二十代の瑞々しい女性に見えるだろう。
けれど、彼女の魂が刻んできた時間は、すでに百五十年を優に超えていた。
それがかつて魔族と交わした「契約」の対価だったのか。
あるいは、己の好奇心を満たすために組み上げた「不老」という名の術式の結果だったのか。
もはや、彼女の記憶の書庫から、その答えを探し出すことはできない。
あまりに長い時間が、彼女の記憶を曖昧に塗りつぶしてしまってから100年近くの時間が経過していた。
何世代か前の皇妃によってこの森で生きる事を認められた魔女。
しかし、その記憶は薄れ今となっては帝国の記録にも魔女自身の記憶にも残っていない。
ただ、公式な地図に『禁忌』と記された事だけが彼女の存在を朧気に語っていた。
「……また、誰か来たのかしら。騒がしいわね」
水の半分入った木桶を手に持つ女。
名をエンヴァというその魔女は、人里離れた静寂を愛し、人目を避けて生きてきた。
彼女にとって、下界の喧騒など、瞬きをする間に過ぎ去っていく砂嵐のようなもの。
「そろそろ収穫かしら?ちゃんと乾燥させて冬の蓄えをしておかなくちゃね」
小さな家の隣、小さな豆の畑を見回る彼女は一見普通のどこにでもいる農村の女と変わらない。
彼女が望んだ、この誰にも干渉されない静かな生活は永遠に続くかのように見えた。
けれど、運命という名の神様は、この孤独な魔女をいつまでも森の中に隠してはくれないようだ。
それは、天が底を抜けたような長雨が続く、初夏の終わりのことだった。
――ピリピリ……ピリピリ……
脳の奥が痺れるような気配がした。
不躾な侵入者の震動。
その音無き音は、秒を追うごとに厚みを増し、その全容を私の中へ克明に写し出していく。
「……一人……子供? 荒い息遣い……。走っているのかしら、こんな嵐の中を」
ふぅ、と深い溜息が漏れた。
手元にあるのは、半分熱を失った生ぬるい薬湯。
それを一口、喉に流し込む。
苦味とともに、停滞していた私の思考がゆっくりと現実へと浮上した。
「……面倒ね」
何度も読んだの古い魔導書を閉じる。
パタン、と乾いた音が埃っぽい部屋に響く。
表紙に魔道書とおぼしき事は書いてあるが、内容は魔法も何も使えない人間が描いたフィクション。
できもしない悪魔召喚の儀式や出鱈目な魔法の呪文が羅列されたこの魔導書を彼女は滑稽な人間達の書いた憧れにも似た「同人誌」をある意味で愛してもいる。
薄暗い部屋の片隅、影に溶け込むように立てかけてあった黒檀の杖を手に取ると、魔女は椅子から立ち上がった。
外は、深い霧と雨の帳が降りている。
私が指先で空間をなぞると、霧は生き物のように道を開け、招かれざる客の姿を曝け出した。
そこにいたのは、全身泥にまみれ、膝をついて喘ぐ少年だった。
「……魔女、様……たす……け」
彼の名はレオ。
たまに森の入り口で薬草を拾いに来る、村の子供の一人だ。
彼は森で一度だけ面識がある、その時は突然現れた魔女に腰を抜かして逃げ去ってしまった。
しかし今日の彼は、震える腕でしっかりと「何か」を抱きしめていた。
「お願いだ……妹を……リナを、助けて……っ!」
少年の腕の中で、小さな少女が力なく首を垂らしている。
遠目からでも分かった。
「ハァ……ハァ……」
浅い呼吸音、真っ赤になった顔、意識も混濁しているようだ。
首元に赤い発心、呼吸は浅く困難、そして彼女を最も苦しめているのはまるで呪いのような高熱だ。
(あぁ……)
一目でこの少女の病を見抜く魔女。
それは当時、麓の村を襲っていた『沼地熱』。
一度発症すれば、肺の中に沼の泥が溜まるかのように呼吸を奪われ、高熱を発して数日で事切れる。
医者も教会も匙を投げた、死の宣告に等しい風土病である。
――そして、この病は感染する。
妹を背負って走ったこの少年も、長くないだろうと魔女は判断した。
(そう、このまま私が彼らを見捨てれば。)
「どうして私があなたの妹を助けなければならないのかしら?これでも私は忙しいのよ」
魔女は冷ややかな声を投げた。
けれど、レオは怯まなかった。
泥と涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、私の金色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「代わりなら、なんだって出す……! 俺の命でも、魂でもいい! だから、リナを……!」
「――あなたの安い命をもらって、私にどうしろと言うの?」
魔女はわざとらしく溜息をつき、杖の先で地面を叩いた。
瞬間、激しい雨音が消えた。
見えない傘が差し掛けられたように、3人の周囲だけが静まり返る。
「入りなさい。廊下を泥で汚したら、その瞬間に追い出すわよ」
魔女は背を向け、歩き出した。
彼女の後に続いて扉を潜ったレオは、一瞬、呆然としたように室内を見渡した。
そこには、村の家々と何ら変わらない、あるいはそれ以上に整然とした「生活」があったから。
パチパチと爆ぜる音を立てる小さな暖炉。その上では鉄製の器が静かに湯気を上げている。
使い込まれた小さなベッドに、簡素ながら手入れの行き届いた台所。
無機質な石壁には、規則正しく逆さまに吊るされた薬草の束が並び、テーブルの上には、今朝摘んだばかりの野花が小さな瓶に活けられている。
禁忌の魔女と呼ばれる者の住まいにしては、あまりにも温かく、あまりにも「人」の匂いがしすぎておりレオはその光景に安堵すら覚えていた。
「そこに、その娘を寝かせなさい」
魔女の短い指示に従い、彼は最後の手の力を振り絞って、リナを木製の処置台へと横たえた。
――だが、それが限界だった。
役目を終えた安堵からか、あるいは死神の誘いか。
次の瞬間、レオ自身の膝が力なく折れ、重い音を立てて床に崩れ落ちた。
妹を背負って嵐の中を激走し、死病の吐息を浴び続けた代償。
彼の中の『沼地熱』が、ついにその牙を剥いた。




