喜劇演者との出会い
昼休み。ツミキは、薬の服用のために保健室を訪れていた。其処のソファに何時も、昼寝をしている生徒がいる。
「伊海君。そろそろ起きなさい」と、塚村が声をかける。「三十分経ったよ」
「あー。はい……」とブツブツ言いながら、青年はソファの上から起き上がった。
「夜中は眠れてる?」と、塚本は伊海に向かって質問する。
「いいえ」と、きっぱりと彼は答える。「夜中の二時を過ぎても、目力が爛々です」
「睡眠薬は?」
「飲んでも爛々です」
「鎮静剤は?」
「合わせて飲んでも爛々です」
そのやり取りの後、塚村は少し黙ってから、「眠る前に温めた牛乳でも飲んでみなさい」と助言した。
パーテーションの奥で薬を飲んでいたツミキは、変わった人が居るなぁと思いながら、ポーチを閉じた。
何かの気配を感じて、背の方を振り返ると、さっきまでソファで横たわっていた生徒が、パーテーションの中を覗き込んでいた。
「うわっ」と、ツミキが声を上げると、塚村が「伊海君。覗かない」と、落ち着いた風に生徒に忠告する。
「君が噂の『薬物聖女』さんだったんだね」と、伊海と言う青年はおかしな事を言う。「本人に会えて嬉しいです。はい、握手」と言って、彼は片手を出してくる。
「伊海君。知らない女の子に触ろうとしない」と、塚本は生徒をいさめる。
「いや、まぁ……握手、ですか」と、ツミキはしどろもどろに、青年の手を握り返した。
皮膚がサラサラしていて、手の平が温かい。
青年は二回シェイクハンドをして、手を解いた。ツミキも手を引っ込める。
「薬物聖女さんって、陸上部なんでしょ?」と、青年は聞いてきた。「体弱いのに、体力はあるの?」
「いや、それは、親の勧めで」と、ツミキは述べた。
伊海はゆっくりと数回頷いた。
「ああ。体の弱い子を鍛えようとする『ド根性型親像』が出来上がった」
失礼な人だが、どうやらこの青年は、ツミキとコミュニケーションが取りたいらしい。
少し会話をしてみる事にした。
青年のフルネームは、「伊海ショウ」と言う。
「『薬物聖女』って言うのは、三年生の間で流行ってる噂なんだけど」と、彼は語る。「薬を服用してても、大田の言いがかりに屈しないし、殴らせなかったって言う事で話題に成ってる。それに、きっと殴りかかかっても、返り討ちにしただろうって言うのが伝説に成ってる。一部の生徒には、『薬物聖女』さんは、本当に聖女なんだ」
その言葉を聞いて、ツミキは気恥ずかしい気分になってきた。
「それで、俺の紹介に移るんだけど」と、ショウ。
「年は十七。三年生。演劇部。睡眠障害持ち。五時間目終わりから元気になるタイプ。授業にはあんまり出ないけど、部活には必ず出る。近い未来に、チャップリンの再来と呼ばれる男」
それを聞いて、ツミキは「はぁ」と相槌を打った。
「モダン・タイムスは観た事ある?」と、ショウはぐいぐい聞いてくる。
「タイトルを聞いた事ならあります」と、ツミキは答えた。
「あれは是非観たほうが良いよ。機械化社会で、機械のように働かされる人間を、喜劇的に描いた作品なんだけどね」
つらつらと喋る青年は、身振り手振りが大きい。それに反して、声質は非常に落ち着いていて、まだ五時間目が終わっていないためか、夢を見るような眠たそうな眼をしていた。
昼休みが終わる頃、ショウはようやくツミキの名前を聞いた。
「それじゃ、これからもよろしくね。ツミキちゃん」と、言って、ショウは手を振る。
「よろしく……」と、気が抜けた声を返し、ツミキは首を傾げた。
よろしくと言うのは、どう言う意味だろう。保健室仲間としてよろしくと言う事? まぁ、毎日保健室には行くんだから、仲間にもなってしまうか。
そんな事を考えながら、ツミキは階段を歩き、二階まで向かった。
教科書を取り出そうと机の中に手を入れたツミキは、指先に鋭い痛みを感じた。
「痛っ」と声を上げて手を引き抜くと、指先が切れている。刃物のようなものが中に入っているらしい。
何だろう? カッターなんて持ってきてないし。
訝りながら机の中を確認すると、きらりと光る物がある。鞄から定規を取り出し、その光る物を掻き出してみた。カツンと言って床に落ちたのは、大きな硝子の破片だった。
青い光の粒子が、眼前を染める。
「ツミキ」と、聞き覚えのある声が聞こえた。八歳だった頃のアヤナが、目の前にいる。
自分の様子も見てみると、身長が低く胸も出っ張っていない。着ている物も子供服だ。
「何きょろきょろしているの?」と、アヤナは不思議そうだ。
「何でもない」と、ツミキは答えた。
「緊張してる?」と、アヤナは聞く。
「なんで?」と、ツミキ。
アヤナはツミキの左手を握り、「だって明日、手術でしょ?」と声をかけた。
ツミキは、その日が度重なる手術の前日であった事を思い出した。
「うん。少し、緊張してる」と、ツミキは述べた。
「手術は、怖い?」と、アヤナは重ねて聞く。ツミキは頷いた。
ツミキは幼い頃、自分の心を表現するのが下手だった。そんな時、アヤナはツミキの心の中の不安をほぐしてくれた。
「でもね」と、ツミキは言う。「次の手術が終わったら、弟が生まれるの」
アヤナは目を伏せて、「そう」と呟いた。「弟が出来たら、ツミキは私が要らなくなる?」
ツミキは首を横に振った。
「そんな事ない。アヤナは、友達だもん」
アヤナは数回瞬きをしてから、「そうだね」とだけ答えた。
ツミキの視界を遮るように、空から光の粒子が降ってくる。
眩しさに片手を目の前に差し出すと、その手に青い粒子が飛び込んできた。
アヤナの姿が、光の中に消える。
次に、出会って間もないイクマの姿が見えた。
「ツミキ。お前の弟だ」と、父親は言う。「名前を呼んでごらん、イクマって。ツミキお姉ちゃんだよって」
その通りに声をかけると、彼は暫く黙ってから、「初めまして。ツミキ」と、やけに滑らかな発音で返事をした。初めて出会った時から、八歳の姿をした少年が。
光の粒子は再び空中を舞い始め、ツミキの視界を眩ませる。
また、手の平に一粒の光が飛び込んできた。
暗い桟橋が見えた。蛍明かりの燈る草地と、静かな水辺。
どこまで続いているかは分からないが、舟で漕ぎ出したら、きっとずっと果てまで行けるのだろう。
空には七日目ほどの月が浮かんでいて、これから夜空は明るくなるのだと示しているようだった。
「お代は用意できたかい?」と、桟橋の向こうのボートから、声が聞こえた。
何時もの、フードを被った船頭の女の子が、ボートの中にいる。
ツミキは、ポケットの中に在った二粒と、手に握っていた二粒を合わせ、船頭の手の平に四粒の宝石を転がした。
「これだけ」と、ツミキが言うと、船頭は「あと一粒だね」と返す。
「このボートに乗ったら、何処に着くの?」と、ツミキは聞いてみた。
「あんたが自力じゃ絶対に辿り着けない場所」と、船頭は言って、ヒヒヒと笑った。
瞼を開けると、何時も通りにイクマの顔が見えた。心配そうなアヤナの顔も。
指先に痛みを感じ、手を目の前に持ってくると、ガーゼと医療用テープでがちがちに止められていた。
指先を切っただけと言うには、傷が深かったのだろう。
「何かあった?」と、ツミキは聞いた。
イクマは深々と溜息を吐いてから、「教室で、お前が指先から流血しながら卒倒してた」と言う。
「指先だけで済んで良かったよ」と、アヤナも言う。「ツミキの机の中、硝子片だらけだったんだから」
どうやら、事態は悪化しているようだった。




