白昼夢
夏の終わりの宵の入りは、彩度の高い鮮やかな夕陽に染まっていた。太陽が沈み切り、次第に辺りは紺色の闇に覆われて行く。
ヒグラシは死にそうな声で嫁を呼び、鈴虫とコオロギの輪唱もうるさい。
「大丈夫か?」と、然して心配そうでもないような、暢気なイクマの声が頭の上から聞こえてきた。
「大丈夫だったら、此処で、うずくまって、ない」と、ツミキは頭を抱えたまま片言で答えた。
家までの帰宅途中の道端で、ツミキは身動きが取れなくなっていた。
物音はずっと飽和状態が続き、おまけに視界の中を光の粒子が飛び続けていて、気分が悪くなってしまったのだ。
「何時ものやつ?」と、イクマは聞く。
「何時ものやつ」と、ツミキは呻く。
「ケンキは?」と、イクマが再び問う。
「知らない」と、ツミキは答える。
イクマはツミキの横にしゃがみこみ、ツミキの額に手を当てた。
「熱がちょっとあるな」
ツミキはその発言に文句をつける。
「熱だけじゃない。耳もおかしいし、目が回りそう」
「それだけイラつけるなら、余裕っぽいな」
そう言って、イクマはツミキに肩を貸した。
「此処からなら、『塾』のほうが近い」
「えー?」と、ツミキは力なく反発する。
イクマはツミキを立ち上がらせ、家に行くなら直進してくはずの十字路を、左手に折れた。
「家に帰っても、どうせ『塾』に知らせが行くだろうからな」
「うーん……」と唸ってから、ツミキは黙り込んだ。
彼女の視界の中では、相変わらず無数の蛍のような光の粒子が、縦横無尽に漂っていた。
塾は、講義を受けに来ている子供達で溢れている。その大部分はこれから家に帰る所らしい。
「あれ?」と、顔見知りが声をかけてくる。「兄ちゃん達、休みのはずじゃない?」
「ああ。ちょっとこいつが体調崩してな」と、イクマは足を引きずっているツミキの方をちらっと見る。
「何時ものやつ?」と聞かれ、イクマはテキパキと答える。「そう。先生呼んできてくれ。ツミキねーちゃんが、何時ものやつでグロッキーだって」
「グロッキーって何?」
「今にも倒れそうって事」
「ふーん」
そうやり取りをしてから、数名の子供達が講師を呼びに行った。
同時に、それまで僅かに力があったツミキの足元が、急に脱力する。
安心感から、本当に気を失ってしまったようだ。
瞼の裏に青い光の粒子がチラつく。
やがて粒子は瞼の暗闇の中で視界の整列し、まるで道を示す灯火のようになった。
足を動かしている感覚はしないが、ツミキの視界は粒子の照らす暗い道を進んで行く。
その視界の中に、草むらに覆われた暗い水辺が見えた。光の粒子はいつの間にか本物の蛍になっており、彼等の習性通りに、光の瞬きで交信し始めた。
さっきまで聞こえていた、鈴虫やコオロギの羽音も聞こえてくる。
草が生えていない一部から、水辺の中に桟橋が伸び、ボートが一艘あった。
そのボートの中には、上着のフードで顔を隠した子供のような人物が一人、座っている。その手元にはランタンのような物があるが、火は燈っていない。
「行きは良い良い帰りは恐い」と、その人物は女の子の声で揶揄うように言う。「お代は先だよ」
ぼんやりと桟橋に立っていたツミキは、両手を見て、それからジャージのポケットを探った。「お代」に成りそうなものは持っていない。
「何にもないなぁ」と呟くと、「じゃぁ、探してくれば良い」と言って、女の子はツミキの背後を指さした。
後ろを振り返ると、遠くまで整列していた蛍火が、一つの光の塊になって押し寄せてきた。
ツミキは、片手の甲で目を覆い、顔をそらした。
青い光に包まれた彼女の耳に、赤子をあやすような声が聞こえてきた。
ぺちっぺちっと、少し痛いくらいの力で頬を叩かれ、ツミキは目を開けた。
イクマと塾の講師が、ツミキの顔を覗いている。馬渡と言う名の生物学の講師だ。
辺りを見回すと白い壁と白い家具が見える。衛生室のソファの上に横たわらせられていたようだ。
髪の毛を短く切り、眼鏡をかけた講師は、「大丈夫か?」と、声をかけてくれた。
「あ……ああ」と、ツミキは声に出し、もう一度、辺りを見回した。「治ってる」
「何が?」と、イクマが聞いてくる。
「何時ものやつが」と、ツミキが返事をすると、「ああ。治ったか」と、馬渡は相槌を打つ。
「今回のは、原因は分かったんですか?」と、ツミキは尋ねた。
「いや、何時も通り原因不明」と、馬渡は言う。「お前が意識を失ってから、一定時間『昏睡状態』になると回復するのも、何時も通り」
「もしかして、眠たいと起こるとかなんすかね?」と、イクマが聞く。
馬渡はイクマの問いを軽くスルーする。
「今回のやつは何時から始まった?」
ツミキは昼間の出来事を思い出した。
「上級生に突き飛ばされて、壁に背中打ってからですね」
それを聞いてイクマと馬渡は顔を見合わせ、互いに頷いた。
その日は、ツミキは塾に泊まる事になった。イクマは家に帰り、両親に事を報告する。
「また白昼夢か」と、父親はリビングでイクマの報告を受けて、片手で顎を支えた。「何とかせんといかんなぁ」
「それ毎回言ってるけど」と、コンロの前で鍋を掻き回しながら、母親が受け答える。「今まで結論が出た事は?」
「無いよねぇ」と、父親の代わりにイクマが答える。「多分、ケンキがらみの何かだと思うんだけど」
「なんで?」と、父親。
イクマは冷蔵庫から、冷やして置いたスポーツドリンクを取り出し、こう答えた。
「ツミキが上級生から喧嘩売られて、ケンキが反撃したんだ。その前後から、『白昼夢』が始まったんだって」
それを聞いて、両親は一瞬視線を合わせ、不自然ではないようにすぐに視線を外した。
イクマは二人の間に走った緊張に、気づかないふりをしながら、事件当時の様子を細かく語った。
「ケンキ。上級生を脅したって?」と、馬渡は生徒に問いかける。
ケンキは落ち着いた様子で答えた。
「脅すも何も。諸注意をしてやっただけだよ」
「殴りかかって来たって、向こうは言ってるそうだが」
「俺のは寸止めだ。殴りかかって来たのは、あっちのほう。それで、壁を殴って自爆した」
「なるほど」と、一度、馬渡は納得して見せてから、「だが、『諸注意』が少し効きすぎたかもしれんな」と応じた。
「どんな風に?」と、ケンキ。
馬渡は少し考え、「それを言ったら、またお前は『粛清』に行くだろう?」と聞き返した。
ケンキは言う。
「今後、ツミキに危険があるなら、回避しておく」
馬渡は、困り切ったように返した。
「脅す事は『回避』にはならないんだよ」
そう言いかけた時、誰かがドアをノックした。
「誰だ?」と、馬渡が返事をすると、ドアの向こうから「光根タマラです。『お薬』の予備はありますか?」と呼びかけてくる。
「あるぞ。入ってこい」と、馬渡は答えた。
ドアを開けたのは、仄かに茶の髪をした少女だった。ツミキ達とも面識のある、高校の同級生だ。
彼女は診察用の椅子に座っているケンキを見つけて、身をすくませるような様子を見せた。
「驚かなくて良い。それで、薬だな」と言って、馬渡は予備のカプセルをしまってあった棚から、薬の束を取り出す。「幾ついる?」
「一週間分」と、タマラは答えた。
「そんなに無くしたのか?」と、馬渡は目を見張る。
「無くしたって言うか……飲みすぎちゃって」と、タマラはバツが悪そうに述べた。
馬渡が薬を取りに行っている間に、タマラはケンキに声をかけた。
「今日は、イクマ君は?」
「家だ」と、短くケンキは答えた。




