心臓を掴む存在
道着を着た相手の体が、滑るように少女の背の方へ受け流される。
拳で少女の顔面を狙って来た者は、派手に畳の上に転んだ。
次の相手は蹴りで来た。しかも、「人間の蹴り方」を習った事のある者の持つ、滑らかな重心運動と蹴り足の威力を持っている一蹴だ。
少女の手首が返され、蹴り足を上方向にそらす。相手は一瞬ふらついたが、すぐさまバランスを整え、次の一蹴を繰り出した。
それも、瞬く間に力の方向を変えられ、大きくバランスを崩した相手の懐に飛び込んだ少女は、対戦者に額にデコピンをした。
対戦者は畳に尻もちをつく。
「そこまで」と、判定役が声をかけてくる。
少女と対戦していた十五人が、次々に畳の上から体を起こした。
「上手くなったもんだ」と、皮肉なのか誉め言葉なのか分からない声がかけられた。
その言葉に、黒い髪の少女は余裕の笑みを見せるのだった。
道着を脱いでシャワーを浴び、ジャージにすっかり着替えて廊下に出た少女を、「ツミキ」と、呼ぶ者がある。
同じくジャージに着替えて、まだ乾ききっていない髪の毛にタオルを乗せている青年だ。
名を、イクマと言う。
彼はスポーツドリンクを飲みながら、リュックサックを背負った背を壁に寄りかかって、足を組んでいた。その姿勢が楽かどうかは分からないが、「纏まっていてカッコイイ」と、イクマは思って居るらしい。
「今日は最大何人いなした?」と、青少年は聞いてくる。
「相撲じゃないんだから」とだけ、少女は返した。
「言葉の意味が通ってれば、問題ないだろ?」と、イクマは言い、「で?」と聞いてくる。
「二十五人」と、ツミキと言う少女は控えめに答える。
実際に、その日の少女が畳に転がした人数は、四十五人に上る。
その気配を感じ取りながら、イクマは口を閉じたまま歯列を舐める仕草をして、「ふーん」と応じた。
同じ家に帰る事になる二人は、長い夕方の中を黙って歩く。話題が無い事は無いが、一日を酷使された脳は、二人に「ぼんやりして良い時間」を与えてくれているようだ。
そのぼんやりしている時間の間、ツミキは学校で起こった事を思い出した。
問題発生件数は、高校に入ってから二件目。
一件目は「部活動に入った事」で、次の一件が「常にポーチを持っているのが疑問視された事」だ。
入学したてのツミキは、最初は「花道部」と言う、運動とは関係ない部活に入ろうと思って居た。
しかし、両親からの説得で、運動部に入る事になった。体同士がぶつかる運動は避けたほうが良いだろうと考え、陸上部を選んだ。
その陸上部に通うようになって二週間目。女子の先輩から、何時もポーチを持っている事を指摘された。
直接聞かれたわけではない。その先輩は、自分達の仲間同士で集まって、「あの子、何で何時もポーチ持っているんだろう」「邪魔にならないのかな」「カッコつけてんじゃない?」などと言い合った後、もっと変質的な想像まで働かせていた。
彼女達は、誰かを不愉快にする事で、自分達に危険が及ぶはずが無いと思い込んでいる。
猶予期間は自分達だけに与えられた特権であり、他の子供が自分達に向かって使って良い権利では無いとさえ思って居る。
そんな、意識的「選ばれし者」達の、偏った権利の主張を聞かされて、ツミキはほとほと疲れ切っていた。
「表情暗いな」と、ぼそりとイクマが言う。彼は最近声変りしてきて、少し低い声が出るようになっていた。
「ん?」と、ツミキは抑揚を上げる。
「いや、お前の表情が暗いって言ったの」と、イクマは短く説明した。
「うん」と、ツミキは答えてから、「薬飲んでるのが、バレそうになった」と答えた。
イクマはちょっと首を傾げた。
「ドーピングだと思われたとか?」
ツミキは恥ずかしそうに、「それだったらまだよかった」と述べた。
夕陽はゆっくりと空を緋色に染めていく。日差しを撮影するための、専門のカメラであれば、赤い夕日が撮れているはずだ。
二人は、如何にも建てられたばかりの近代的なデザインの家に帰宅し、両親に今日の出来事を報告した。
問題は翌日も起こった。部活中、トイレの中で服用を済ませてきたツミキを、先の先輩の一人が見つけた。
「やだ。やっぱそうなんだ」と、その先輩は言って、彼女は口元を押さえ、その押さえた手の中でニヤリと笑んだ。
その先輩は、洗面台からパッと退くと、ニヤつきながら同じ部活の生徒に声をかけた。
「やっぱりあいつ、年がら年中、生理用品使ってる」と。
トイレから出てきたツミキに向け、下品な笑いと共に「年中生理女」と言う声が投げられた。
「年中生理の奴はトイレに籠ってな」と、男子生徒達がニヤつきながら言い、ツミキの肩を突き飛ばして廊下の壁にぶつけさせた。
あ。やばい。
ツミキはそう直感したが、その現象はすぐに始まった。
視界に霞がかる感覚。群衆の中にいるような声と音の飽和。現実の世界に、青い光の粒が混じる。
「お前等、俺の連れに何した?」と、ドスの利いた青年の声が聞こえてきた。ケンキの声だ。
ツミキを守るように、彼は前に出る。青い光の粒が、その体の表面に集まって行く。
視界が連続的に瞬いているようで、ツミキは頭痛を覚えた。
「何だよ。突き飛ばされたくらいで」と、罵って来た男子生徒は怯む。
「突き飛ばされたくらい、だぁ?」と、脅しを利かせながら、青少年は相手を挑発した。
鋭い拳の一閃を、相手の鼻先で寸止めする。
寸止めを食らった相手は体を震わせながら、強がりを言った。
「何だよ。殴らない、のかよ……。ハ、ハハ……。そうだよな。殴ったら、大、問題だ、もんな」
「ああ?」と声をがならせ、ケンキは脅す。「お前、俺が手加減した事も分からねぇ凡人なの? それとも、喧嘩が怖いから、先生に言いに行きまちゅ~って口か?」
そう挑発された男子は、それなりに「男心」を持っていたらしい。
明らかに握り慣れていない拳を作って、大げさなフォームで殴りかかってきた。
ケンキはツミキの体を避けさせる。
小さな「男心」を働かせた相手の拳は、廊下の壁を殴った。
「いてっ!」と、その男子生徒は拳を腹に抱え込み、悶絶する。
ケンキは、その男子生徒の首根っこを摑まえ、その耳元で低く唸るように言った。
「廊下の壁ってのは、中々硬いだろう?」
鍛えられた拳が、男子生徒の襟首を絞り上げる。
「ツミキも、さっき同じ痛い目に遭ったんだよ」
「は、放せ!」と、別の男子生徒が声を上げ、ケンキに掴みかかってくる。
ケンキの判断は早かった。肩を掴まれる直前、ふわりと後方に身を引き、首元を掴んでいた男子生徒を、掴みかかってきた奴のほうに投げつけた。
どすっと、人間同士のぶつかる音がする。
その一部始終を「観覧」していた、先の女子生徒に、ケンキは視線を移す。
「おい。てめぇ。これ以上、下らねぇ御託を言いふらすなら、女でも容赦しねぇぞ」
そう言い残すと、ケンキはツミキを連れ、集まり始めた野次馬の間を分けた。
息が上がり、どくどくと心臓が鳴る。何かとても恐ろしいものに出会った気がする。冷たい手で心臓を掴まれるように、生物としての恐怖すら抱く相手。
ツミキに言いがかりをつけた女子生徒は、この時、ケンキと言う存在に、錯覚的な恋をしたのだ。
穏やかな日常と言うものに我慢できなかった自分の、心臓を掴む存在。
その錯覚に陥って行った女性生徒は、女性としては背が高く、長い黒髪と大きな茶の瞳を持っていた。ツミキより一つ学年が上の、部活動の先輩。
名を、藍里サラエと言う。




