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餓鬼虫 その1

 僕は僕が嫌いだ。


 無力で何もできない。だから何も手に入れられない。


 何かを手に入れたければ、手に入れる力を持たなければならない。強くならなければいけない。


 お金もそう、友達もそう、恋人も、環境も、ご飯も、家も、全部そう。


 僕は何も手に入れられない。だから僕は僕が嫌いだ。


 そして何も手に入らないこの世界が、大っ嫌いだ。


 暗い長い夜の果てに僕は朝7時半、目を覚ます。スマートフォンのアラームを止めて布団から起き上がり、ビールの空き缶がたくさん転がった部屋から出ていく。全部父親が飲んだものだ。


 片付ける気にもならない。最終的には僕が片付けてゴミに出すことになるのだけど。父さんは家のことを何もやらないから。


 母親はいない。なぜいないのかも知らない。わかっているのはウチは生活保護受給家庭で、その日の食事にも困っているという事実だけだ。


 洗面台で顔を洗い、使い古してブラシがごわごわになってしまった歯ブラシで歯を磨く。床に畳んでおいた学生服に汚れがついていないことを確認して、着替える。あとは学生鞄を持つ。他にすることはない。この時間父親はいつも通り眠り込んでいる。


 ドアに鍵をかけることもなく、家を出て学校へ向かう。


 今日から僕は中学二年生になる。感慨なんてない。祝ってくれる人もいない。なっただけだ。


 いつも通りひとりぼっちで歩き、ひとりぼっちで学校の門をくぐる。掲示板に張り出されていたクラス分けを無感情に確認して、誰とも話すことなく自分のクラスの指定された席に座る。


 新しいクラスは最初はぽつぽつとした話し声しか聞こえなかったが、ホームルームの時間が近づくにつれて話す人数が多くなり、声も大きさを増していった。最終的には教室の殆どの生徒が喋り出し、誰とも話さない僕はだんだんつんざくような騒音に耳をふさぎたくなってきた。


 いやなことに、騒音を終わらせてくれるはずの肝心な担任の先生が、チャイムの音が鳴っても姿を現さなかった。鳴りやまない話し声の騒音に、僕の頭は混乱しだした。そうしてだんだん気分が悪くなってきた。そんなタイミングで、今まで席を立って他のところで話していた男子生徒が僕の前の席に戻り、振り返って話しかけてきた。


「おはよ!おれ葉月っていいます!はじめましてだよね?おれ習井田小出身で、去年はB組だった!」 


 やめてくれ、いま話しかけないでほしい。なんて答えればいいかわからないから。いや、別に話そうと思えば話せるけど、いまはそういう気分じゃないんだ。


 僕からも何か話さないとすっごく空気が悪くなる。そんな未来が見えて、心臓を突き刺されるような痛みが胸にはしった時だった。廊下から「やばい~、遅れた、遅れた」と言う誰かの声と走ってくる足音が聞こえてきた。


 そうして大人の女性が開かれたドアから駆け込んできて、教卓の横で盛大に足を滑らせて尻もちをついた。手にしていたプリントがひらひらと宙を舞う。教室中の生徒たちが呆気にとられて話し声がやんだ。


「いてててて……」と転んだ女性が腰をおさえて呟く。あれが担任の先生なのかな?と僕は思った。

 

「大丈夫ですか~?」と一人の生徒が声をかけた。


 先生は反射的に「大丈夫よ!」と元気よく答えて立ち上がったが、散らばったプリントが目に入ったのか急に涙目になって「……じゃ、ないかなあ~……」と語尾を伸ばした。


 何人かの生徒が無言で席を立って床の上のプリントを拾い集め、先生に手渡した。先生は受け取りながら「ありがとう……ほんとにありがとう……!」と大げさに頭を下げている。それから黒板にチョークで大きな文字を書き始めた。


 夜空 晴子

 

「はい、みなさん進級おめでとうございます。私が新しい担任の、夜空清子です。今年度からこの学校に赴任してきたので、みんなとは初めましてになるかな?よろしくね。さっそくだけど今日はこれから始業式があるので——」


 夜空先生の話の内容が、僕の耳には届かなくなった。気を取り直して元気よく話している先生の顔がとてもきれいに見えたので、見惚れてしまったのだ。先生の髪は長く、ウェーブがかかっていて、肌の血色がよく、溌剌としている。鼻がすらっとしていて唇が薄く、目がきれいで……とても整った顔立ちをしている。僕はなんだか美しい景色を眺めているときみたいな気分で、葉月くんが前から先生の配ったプリントを回してくるまで、ずっとぼんやりしていた。


 始業式と着任式はとくに面白いこともなく終わった。だから今日僕の身に起きたいいことと言えば、担任の先生がとてもきれいだったということだけなのだけど、それは無味乾燥としていた最近の僕の生活の中で、ひときわ輝く花のように美しい出来事に思えた。


 その代わり、家に帰ってからが地獄だった。


 学校が始まるイコール給食がある、ということだと思っていた父親は、昼前に返ってきた僕に今日は菓子パンだけで我慢してくれと言った。どうしようもないので僕はそれに従った。どうせ春休みの期間中ろくなものを食べれなかったから、またかと思っただけだ。


 それでも空腹はつらい。僕はすぐに敷きっぱなしの布団に横になった。なにかするとお腹がすく。だから何もせず、何も考えず、布団の上でぼんやりと天井を眺めて、眠くなったら寝た。そうして目が覚めたらまたぼんやりした。


 どれくらいそうしていただろう。気付けば窓の外はすっかり暗くなっていて、電灯に照らされた柱の上に大きな虫が動いているのが目に留まった。虫はするすると柱を降りてきて、僕が寝ている布団のすぐ横までやってきた。


 不思議な色と形をした虫だった。全体は黒くて、緑色と紫色の四角い模様がついている。そうして何かを食べるようにあごの部分を動かし続けている。


 僕はじっ、とその虫を見つめて……『ああ、なんだか、僕はまるでこの虫みたいな存在なんだな』と心の中で呟いた。


 そう、呟いたときだった。どくん、と空気?が揺れて、虫の動きが一瞬止まった。そして——


 虫がどんどん大きくなっていった。あごの部分だけをカタカタと動かし続けながら、僕の隣でそれは膨らんでいく。テーブルの横に座っていた父親が立ち上がる音がした。


 僕は布団から起き上がって父親の方をふり返った。父さんも、なにが起きているかわからないといった表情で、呆然と、しかし恐怖を浮かべて、虫を凝視している。


 触角が触れる気配を感じて視線を虫に戻すと、それはすでに2メートルほどの大きさになって、壁にへばりついていた。頭部を下に——僕の目の前にしたまま。


「……げろ……」


 父さんが何か呟いた。


「逃げろ!大地!」


 僕の名前を読んだ父さんがどたどた、と足音を響かせて走ってくる。ガラスみたいな大きな目の中に浮かんだ虫の瞳が、父さんの姿を捉えているのがわかった。


 キシイイイイイ


 虫の身体から機械のような鳴き声が響いた。僕は反射的に立ち上がり、虫から少しずつ後ずさっていく。父さんが虫と僕との間に立つ。


 虫も、父さんも、少しの間まったく動かなかった。僕もテーブルの後ろまで下がってから、父さんと虫とを見つめたまま足を止めた。


「大地!逃げろ!」


 父さんが叫ぶのと、虫が父さんに襲いかかるのは同時だった。


 ベキッ!


 虫にかみ砕かれた父さんの首の骨が折れる音が聞こえた。状況を飲み込むのに数秒かけてから、僕の目から涙が流れる。


「父さん……」


 今すぐ殴りかかって虫を殺してやりたかった。けれど近づくと殺されるのもわかっている。怒りと悲しみと恐怖で僕はどうしていいかわからず、ずっと立ち続けたまま父さんが虫に食べれらるのを見ていた。


 ガシャーン!


 突然僕の正面の窓ガラスが砕け散った。暗い窓の外から、真っ黒いレザースーツを着た人影が飛び込んでくるのが見えた。


 人影は床の上にしゃがんで着地したあと、ゆっくりと立ち上がって僕の顔を見た。その顔をみた僕は思わず呆然とした。その人の顔は、今朝中学校の教室で見た夜空先生と全く一緒に見えたから。彼女は僕にそっと微笑むと優しい声で言った。


「助けにきたわよ、春野大地くん」


 僕は思わず、

 

「先生……?」


 と呟く。


 夜空先生とそっくりな女性は、ホルスターから銃を抜いて構えながら答えた。


「私はナイトソル……夜の太陽」

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