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第1章【自我同一性のない男】

 この世界には、生死体よとばれるものたちが存在する。人間の死体が再び動き出し、時には化物のように人間を襲い、時には生前と同様に生活を送る。

 【アンデット殺しの少年】は、処刑人と呼ばれる組織で、生死体の調査を担当している。この日、【少年】の任務はとある教員の調査だった。

 不幸ではなかった。

 決して、不幸ではなかったはずだ。

 ギルドに併設された宿を取る。名前と所属と、所属番号を記入し、制服の下から取り出したタグを受付嬢に見せた。ネックレスのように首からぶら下げるタイプの簡素な金属プレートで、片面に所属、もう片面に番号が刻印されている。黒い手袋越しに触れたそれは、直前まで肌に触れていたために生温かった。

施設代は利用時に払わず、給料から引かれるシステムだ。恐ろしい気がしなくもないが、処刑人(ディミオス)以外で働いたことがないので、【少年】には詳しくはわからなかった。その代わり普通に宿を利用するよりも格段に安いのでよしとする。

 事務的な手続きは終えたのにもかかわらず、受付嬢は鍵を手渡すことに躊躇しているようだった。…番号の記入を間違えたか?紙を覗き見る。No.84096…84から始まるのは処刑人本部の調査班第4班、096は【少年】個人を示す番号。間違いではないはずだ。【少年】が自身の背後に目をやる。屈強な男2人組が並んでいた。この図体で2人部屋に収まるのか、甚だ疑問である。

 少年の後ろに列ができていることに気づいた受付嬢が、ようやく【少年】に鍵を手渡した。会釈だけしてその場を離れ、木札を確認する。203号室。

 食堂を抜け、2階に上がって部屋の鍵を開ける。ギルド併設の宿に1人部屋は無い。処刑人の大半は処理班に所属しており、処理班は最低でも2人以上での行動を義務付けられているからだ。その点調査班は、報告の義務のみで行動人数の制約は無い。任務内容によっては潜入捜査まがいのことをしなくてはならないため、複数人でいることが任務の足枷になるかもしれないから、らしい。人によっては民間協力者と行動を共にしていたり、割と自由であった。

重い木製の扉を開けて、足を踏み入れる。2段ベッドに机が2つとクローゼット、部屋の中央にテーブルがある、シンプルな部屋。王国内、どこへ行っても同じ作りになっているそれは、【少年】に安心感と、一抹の不安を与えた。隣室から男たちの話声が聞こえる。

 隣室とは異なって、鍵を閉めた【少年】の部屋は、【少年】の微かな呼吸音と、研修期間が明けた時に【先輩】が祝いにとくれた、少し値の張る革靴の足音だけが響いた。1人で使うには広い部屋の、2段ベッドの下段に荷物を投げ、テーブルにレイピアと短剣を並べる。受付で預ければ明日の朝までには手入れをしてくれるはずだが、【少年】の些細な己惚れと自尊心がそれを拒んだ。どちらも支給品であるにも関わらず。どっちにしろ、調査班が武器を用いることはめったにないから、多少手入れを怠ったところで任務に支障はない。それで死んだら笑いものだろうが。

 上着を脱いでクローゼットに掛ける。露になった正装の左胸、黒い生地に施された銀色の刺繍が、鈍い光を放っていた。処刑人の本部所属である証だが、そもそもの話調査班は本部にしか設置されていない。本部所属とは名目だけで、基本は各地区に適宜駆り出されている雑用係のようなものなので、大した身分ではない。

  優しい父だった。強い母だった。大切な妹もいた。裕福ではないが、決して毎日食うものに困っているわけでもなく、学校に通い、日常を謳歌していた。

 戦争が起きたから不幸なのか?父が戦争に駆り出されたから?戦火から逃げる最中に母や妹とはぐれたから?

 【少年】はそれを、不幸だとは思わない。

 それでは、今、1人で処刑人として日々を過ごしていることは、不幸なのか?

 上司にも、先輩にも恵まれたと思う。年齢故に同期は年上だし、後輩はまだいないが、それでも。

 受付嬢の視線を思い出す。あれは、憐憫だった。

 不幸ではない。

 そのはずだ。


 この世界には、生死体(アサナシア)と呼ばれる者たちがいる。死体が蘇り、腐敗したまま闊歩するのだ。

 腐敗は死因となった負傷箇所から広がっていくらしい。らしいというのは、まだ解明されていないことが多く、色々と手探りで対策を講じているからだ。それぞれ固有の特殊能力…例えば相手を麻痺させる能力だとか、そういった、恐らく生存するため…というのも可笑しいが、これ以上死なないための能力を持つ。ただの死体に戻すのは簡単で、その腐敗個所…つまりは死因となった場所に存在する、核を潰せばいい。核が腐敗を止めている、もしくは遅らせている状態である為、核を潰せば、生死体は急速に肉体が腐敗してドロドロに溶ける。

便宜上処刑人では腐敗の程度で位を分けており、低位は全身が腐っている状態で、つまりは脳も腐っているため意思はほとんど存在せず、固有能力自体は非常に弱い…というよりも、固有能力を活用するほどの脳はないが、腐敗の中心を見つけづらいせいで殺すことは難しい。大抵は長年処刑人に所属し続けているような、老人一歩手前の人たちが担当することが多い。どうにか平和な老後を過ごしてほしいものだ。中位…とひとまとめにするには範囲が広いが、脳への影響が多少はあるがまだ意識が残っていたり、脳への影響はないが身体を動かすのに著しい影響を及ぼすであろう程度には肉体の腐敗が進んでいるようなものが、中位に割り振られる。大体の処刑人は中位の生死体の処理を担当する。

高位は死因となった負傷箇所以外の腐敗は少なく、意識も正常。生死体として蘇った初めは低位だった個体であっても、生者を殺すごとに高位へと近づく。初めから高位であった、もしくはそう推察される個体であると、固有能力も著しく高く、個体によっては敵対した相手を瞬殺できる。

 低位から中位の生死体は、問答無用で殺すべきだろう。

 では、意思の疎通が可能な、腐敗個所も少ない高位の生死体をどうするべきか?

 それらは、腐敗個所さえ隠してしまえば、一見は人間と同じだ。彼らはそう簡単には自身が生死体であることを明かさず、何食わぬ顔で日常を生きていることだって珍しくない。

 それでも、生死体を生かしておくわけにはいかない。

 それは倫理や衛生面からしてもそうであるし、宗教的観点から考えても、厄災の前兆や生者に対する呪いであるなど、真偽はともかくとして、忌避されてきた。

 それでも、高位の生死体は人間との見分けが困難である。真正面から貴方は生死体かと問われて「はい、そうです」なんて答える者はいないし、場合によっては問うた時点で殺される。

 だから、例えば死体が目撃されているにも関わらず生きている人とか、そういうものの調査を行う人間が必要だった。

 それが、【少年】の所属する、処刑人本部、調査班。

 死神と呼ばれることもあるその組織は、時には救世主のように崇められ、時には生死体以上に蔑まれ、忌避される存在だった。


 目が覚めて視界に入ったそれは、きっと全く同じものは見たことがないとはいえど、やはり見慣れたそれと同じ作りをしていた。どうにもこれは、慣れる気がしなかった。幼い頃のおぼろげな記憶の中の、実家の自室が懐かしい。妹が投げたインクが壁や天井に飛び散っていた。将来有望だ。戦争で村ごと燃えたが。

 階下に降りて、朝食をとる。そこまで空腹を感じてはいなかったが、朝食はきちんととるようにというのは、【少年】の母の教えだった。パンとサラダとスープだけを取り、食堂の端の席につく。スープは日替わりだが、今日はコンソメだった。卵の気分だったが、とやかく言える立場ではない。配膳室の扉の前では何やら男女混合の数人組が騒いでいた。食事が質素だとか、実家ではどうこうとか。お前の実家の食事なんぞ知るか。任務地から想像はついていたが、胸部の刺繍を見ると黄色、やはり第3地区のようだった。時間が勿体ないだろう、飯を食え。思ったが、【少年】は口には出さず、目を逸らして代わりにパンを口に放り込んだ。食堂が混んでいる関係上仕方ないが、【少年】を気にすることなく正面に座った中年男性がなんとなく目障りだった。騒ぎを一切気にせず5分で朝食を済ませたのは尊敬に値する。

 処刑人は、本部と支部に分かれている。支部は基本生死体の殺害を担当する処理班から構成されており、所属番号がそれぞれ、第1地区が1番、第2地区が2番…といった風に、1から6までに分かれている。胸部の刺繍も地区ごとであり、第1地区から順に赤、橙、黄、緑、青、紫。2桁目が0なら管理職、1から9ならそれぞれ処理班の第1班から第9班、下3桁が個々を示す。事務職やギルドスタッフ等及び医務班等の特殊な仕事は、頭文字がアルファベットから始まる。

 本部は頭から1桁目が0なら上層部、7が処理班、8が調査班、9が、遺族に事実を伝えたりする慰霊班。死亡率が高いのは調査班だが退職率が高いのが慰霊班。本部の処理班は主に高位の生死体を担当する。一番負担が大きいのはここだろうが、そもそも強いので死亡率も退職率も低い。慰霊班が5班もあるのは精神的負担が大きく、休暇を多く与えるため。同様に調査班も計5班だが、ほぼ個人行動であるため、1班につき20人程度しかいない。本部の処理班は1班のみで、現在26人。支部の処理班や慰霊班は100人程度ずつ。本部の各班は、高位の生死体が発生した、もしくは発生が疑われたときに任務が回ってくるため、基本地区の振り分けは無い。どうせなら6班に増やせば各地区に割り振れるのに、と【少年】は考えるが、戦後の財政難の名残らしい。そもそも各地区に割り振ったところで、高位の生死体の発生は均等ではないのだから、有事の際は駆り出されるのがオチだ。胸部の刺繍は処理班が金、調査班が銀、慰霊班が黒。上層部は貴族連中なので制服は無い。稀に各地区の管理職や本部の処理班出身者がいるが、その場合は元々所属していた地区や班の制服を着用することが多い。

 朝食を食べ終えて、併設のギルドに向かった。前回の任務の報告書の提出と、次の任務内容の確認をする。場所はここからすぐの市街地で、依頼人は対象の配偶者。戦争から帰ってきてから、1人での外出が増えたり、何かを隠している様子だったりなど、様子がおかしいとのことだった。身内がこちらに協力的なのは、【少年】にとって好都合だった。これなら3日とかからず調査を終える事ができそうだ。

もう一度宿に戻り、受付で延長の手続きをしてから荷物の中から必要なものだけを身に着け、任務へと向かう。

 対象に処刑人であると気付かれるのを防ぐため、制服を隠すための上着に袖を通す。任務内容の関係上、調査班に普段の任務時の制服着用義務はない。しかし単純に荷物を減らしたいという怠慢と、年齢故に私服であるとギルドや宿の受付で苦労するという点から、【少年】は制服に上着を重ねるという方法を好んでいた。上半身さえ隠してしまえば、そうとはわからないこの制服が有難い。左肩で2か所留めるだけのフード付きのベージュの上着は、印象に残りづらい色とデザインで、この仕事についてから愛用していた。

 依頼人の自宅に着く。今回【少年】にこの任務が与えられた理由は恐らく、年齢にあった。依頼人、対象ともに教員を生業としている。隣国との戦争による徴兵が行われる直前、8年前に結婚し、5年前の終戦から現在まで2人暮らし。それぞれ担当している生徒の年齢が別であり、依頼人はまだ幼い子供、対象は【少年】と同年代かそれより上。

 道端、対象宅が見える位置で、本を読むふりをしながら様子をうかがう。昼頃になって、対象が外出した。対象に顔を覚えられることの無いようフードを被ってから、その後をつける。

 対象が初めに寄ったのは、書店だった。暫く店内を歩きまわった後、何冊かを手に取ってカウンターに向かった。その間、誰か…例えば協力者とか、生死体同士等の接触は無し。書店内を歩いている最中20代後半程度のどこかの民族衣装を着た男性に1回、40半ば程度の化粧の濃い女性に1回、対象と同年代であろう眼鏡をかけた30半ば程度の男性に2回ぶつかったが、その程度。あとは書店内を走り回っていた幼い子供たちには何度かぶつかっていた。【少年】自身もぶつかられた。襲う様子は無し。というより、教員という仕事についている限りは、幼い子供を襲うような人間であって欲しくはない。それがどんな理由があろうと、例え生存のために仕方ないとしてもだ。

対象が書店を出た後店員に身分を説明し確認すると、専門書と、文庫本をいくつか購入したらしかった。購入した文庫本は趣味だろうか。どっちにしろ、文庫本が関係している可能性は低い。専門書は人体について。これはグレー。

 書店を出て、対象が向かったのは学校だった。流石に中には入れないので、【少年】は大人しく対象が出てくるのを待つ。しかし、暫く経っても対象が出てくる様子はなかった。依頼人の情報が正しければ今日対象は休日であるはずだし、そもそも今日学校は休みだろう。裏口から出たか?

 敷地内に入り、窓から覗き込む形で建物の周りを1周する。職員室らしき部屋で、対象が先程購入した専門書を開いているのが見えた。真面目か。家で読め。

 もし気づかれたら入学希望ということにしようと割り切り、【少年】は対象が見える位置で手帳に記録をつける。数分後、対象が思い立ったように首元の包帯を外して取り替えた。遠目なので確証はないが、腐敗は無し。一見白だが、服で隠れる位置に腐敗がある可能性もあるため、保留。

 2時間後、専門書を机にしまった対象が立ち上がった。【少年】は再びその場を離れて、玄関が見える位置に移動する。対象はそのまま帰宅。

 夜の外出の可能性も考えたが、一晩中そこにいると不審に思われるだろうということと、ただ単純に夜更かしと食事を抜くという愚行により成長期を無駄にしたくないという【少年】の個人的な感情から、玄関扉に偽のチラシを挟めることで、外出の有無を見分けることにした。ただでさえ、昼飯を抜かしているのだ。当然腹は減る。明日早朝に確認し、チラシが無くなっていたら夜間の外出の可能性を考え、翌日は夜間の行動を見る。

 宿に戻って夕飯と入浴を済ませて、すぐに就寝した。夕飯は肉と野菜の炒め物だった。文句を言える立場ではないのは重々承知しているが、味が濃かった。

 早朝、日が昇るよりも早くに【少年】は部屋を出て、対象の自宅に向かった。チラシはそのまま玄関にあったので、放置しておく。今日、対象は仕事があるらしく、出勤までは時間があるので、一旦宿に戻った。昼頃まで時間が空くのは確実であるので、一度ギルドに向かい、連絡がないかだけを確認する。電報は2件で、【班長】からの報告命令と、【先輩】からの雑談だった。報告はギルドから【班長】に行っているはずであるが、【少年】の直属の上司にあたる処刑人調査班第4班を取り仕切る彼は、本人からの連絡を定期的に、かつ全員に求める。その内容は任務に関するものだけではなく、体調に異常はないかとか、最近何か印象に残ったことはないかとか、他愛のない話も書けとのことだった。お人よしだが、これのおかげで、【少年】が正常な精神を保っているのも確かだった。そうでなければ、【少年】のような年齢の子供がこのような環境で働き続けていれば、いずれは壊れるだろう。

そして【先輩】からは、今回はいつもの民間協力者の話と、第5地区のおすすめの料理屋だった。前回は第1地区の観光案内だった。民間協力者は…【少年】も一度だけ会ったことがあるが、【少年】より少し年上のやんちゃな女性だった。【先輩】とは姉妹のように過ごしているそうだ。楽しそうで何より。そして今回も、電報の文字数による料金加算のぎりぎりまで書かれていた。暇なのか?

 【班長】には適当に近況を報告し、【先輩】には「機会があれば行ってみたいです」というような、当たり障りのない返事をしておく。朝食をとり、もう一泊分滞在の手続きをしてから、【少年】は対象宅に向かった。対象が出勤するのを確認してから、扉を叩く。

 すぐに女性の声が聞こえて、重そうな扉が開いた。

「処刑人調査班です」

 頭を下げると、「あらあら」と柔らかい声が返ってくる。毒気を抜かれて顔を上げると、声の通り、おとなしそうなボブカットの女性がこちらを見ていた。

「取り敢えず、入ってくださいな」

 招き入れられる。少し迷ったが中に入り、扉が閉められたのを確認してから上着を脱いだ。依頼人や対象の職業を考えて、もし近隣住民に見られていたとしても、依頼人の元生徒ということで押し通せるだろう。

 そのまま居間に案内され、「お若いのに大変ね」など言われながら紅茶を差し出された。ありがとうございます、と伝え、紅茶に唇を浸すだけにとどめる。実際に飲む勇気は、【少年】にはなかった。依頼人に悪意は見られないが、調査班としての性に近い。…【先輩】なら毒を盛られてもケロッとしているのだろうな、とふと思い、【少年】は笑いをこらえた。

 もう一度、依頼人を見た。事前情報で分かっていたことではあるが、年齢は30代半ば。おっとりした言動が目立つ。アクセサリーは左手薬指の指輪以外身に着けておらず、服装も女性的でありながら動きやすそうなパンツスタイル。

 この人が配偶者を疑い依頼をしたということが、少し意外に感じた。

「…ご主人様の件ですが、」

 そう切り出すと、「ああ!」と依頼人は両手を叩く。

「あの人ね、帰ってきてから様子がおかしいのよ」

「具体的にはどのように?」

 様子がおかしいことは、こちらは事前情報で知っている。というか、依頼人が自分で依頼時に書いただろうに。

 【少年】は内心で不満を抱きながらも、表情は変えないまま依頼人に問うた。

「前までは必ずではないけれど、買い物の時はできるだけ私と2人で出かけていたの。それが、最近一人で出かけることが多くて…あの人が休みの日の、日中よ」

 それは昨日、【少年】も確認している。

「夜間の外出は?」

「無いわ」

「ほかには何か?」

「最近よそよそしいわ。私が話しかけてもはぐらかすし、肌を見せるのも嫌がるし…何かおかしいのよ」

「はぁ…」

 最悪だ。今日の電報で【先輩】を呼び出しておけばよかった。こういう感情論については、【少年】よりも【先輩】のほうが得意だ。【少年】が求めているのはもっと確実性のある、例えば生死体になれば食事が不要になることによる食事用の減少や、固有能力の使用の痕跡だ。首の包帯に言及するのではなく「肌を見せない」という言い回しを選んだのは、つまりは夫婦間のそういう話だ。夜のそれなんぞ【少年】には知る由もない。戦争によるPTSDで不全になることもあるらしいが。

「…つまり、依頼書にすべて記載してくださったということですね?」

「ええ」

 当たり障りのない言いまわしで、何も知らないことを確認する。返ってきた肯定に、【少年】は舌打ちを堪えた。元から表情筋が決して豊かではない達であるのが幸いした。

 そこからいくつか会話をしたが、やはり情報は無し。家の中も見させてもらったが、健常者にしては無駄に多い包帯以外、特に目立つものはなかった。

「ご協力ありがとうございました。結果は担当の者を通じてお渡しいたします」

 定型文を述べ、頭を下げる。上着を羽織ってから扉に手を掛けるが、そこで【少年】はこの依頼人の職業を思い出し、「最後にひとつ、いいでしょうか」と振り返った。

「なにかしら?」

 依頼人が首を傾げる。「ご主人様のこととは関係ないのですが、」と前置いてから、続けた。

「私と同じ髪と目の色をした、40代の女性と、女の子を見かけたことはありませんか?」

「いいえ」

 大した期待はしていなかった。念のため、聞いただけだ。「そうですか」と【少年】は、再び扉に手を掛ける。

「綺麗な色ね」

 扉を開けたことにより光が差し込み、【少年】の白髪が光を反射する。依頼人の言葉に、【少年】は、依頼人への接触をして初めて、その灰色の目を細めて。

「そうでしょう?」

 どこか自慢げに笑った。


 まだ日が落ちるまでは時間があるので、【少年】は昨日の学校に向かった。生徒数が多い様子から対象が生徒全員を把握していることは無いだろうと考え、警備員に事情を説明して…とはいっても対象の名前は出さず、「関係者がいるかもしれない」という曖昧な情報のみであったが、校舎内に入る。髪色は多少目立つだろうが、【少年】の場合髪と目の色の組み合わせが特殊なのであって、髪色単体であれば、多くは無いが稀に見かける程度の色である為、建物内でフードを被ることの不審さを踏まえて、フードを脱いで堂々と校舎内を歩いた。生徒が廊下に出ている様子からして授業後だろうと考え、職員室を探す。廊下の窓から覗き込むと、やはり同じ席に対象がいた。まばらではあるがほかの教員もいる中で、特に不審な行動は無い。

 対象は採点をしているのか、何かの書類をチェックしている様子だった。しばらく廊下から様子をうかがっていると、対象と女性教員が職員室を出る。対象に背を向ける形で一度職員室の扉の前から離れた。

 【少年】が後をつけると、2人が向かったのは資料室だった。なんとなく嫌な予感がしながら、扉に手を掛けると、内側から鍵がかかっている。処刑人に一般人の保護義務はない。襲われれば悲鳴くらいなら聞こえてくるだろうと踏んで、何かあったら外から窓を蹴破るつもりで、取り敢えず一旦廊下で待機した。

 動きがあったのは生徒のほとんどが帰宅したころで、開いた扉から出てきたのは2人。様子はおかしいが、殺されてはいないようで、一旦安堵する。すれ違いざまに、包帯が外された首筋を確認すると、昨日は遠距離からであったために見えなかったが、腐敗の代わりにあるのはうっ血痕。

 これは、黒だ。

 いや、処刑人の立場から言うと白なのだが、世間一般的には黒だ。

つまりは、浮気だった。

 夫婦での、共に出かけることや行為がなかったのは、単純に、徴兵で依頼人と離れている間に愛想がつきたとか、そういうことだろう。依頼人のおっとりとした性格で処刑人に調査を依頼したというのがどこか引っかかっていたが、つまりは、この依頼は、依頼人の一縷の望みだったというわけだ。対象が生死体であれば、それは浮気ではないということになるから。

「…どうすればいいんだ、これ」

1人、【少年】が呟く。不幸中の幸いは、相手が生徒ではなく同僚であったという点か。

悶々としたまま警備員に「問題は無かった」と告げ、協力への感謝を示す定型文を伝えてからギルドに向かう。迷ったが、まあ浮気なんぞ業務外であるので、どうせ依頼人は気づいているのであろうし、あとは本人たちでどうにかしてくれという意思を込めて、【少年】は報告書に「異常なし」と記入した。

生死体であることが確定、もしくは可能性が高い場合や、真偽の判別がつかなかった場合は報告書に詳細を書かなければいけないが、異常がないと確定している場合は、人権保護の観点から、何か特筆すべき点がない限りは記入の義務はない。わざわざ報告書に書かなくていい詳細を書きたい人はいないので、大抵殆ど白紙のままの書類が提出されるだけで終わる。

これで生死体であることが確定しておらず、完全な白でもない場合は、本部および該当地区の処理班や、場合によっては上層部の間で審議がなされ、判断が下される。生死体であることが確定している場合は、調査班の人間にも処理の許可は下りるが、そもそも調査班と慰霊班は…慰霊班に稀にいる元々処理班の所属で負傷等により戦闘ができなくなった人たちはともかく、基本は訓練を受けていない。余程のチャンスがない限りは挑んでも殺されるだけなので、【少年】も実戦経験は数えるほどしかなかった。

報告書の提出ついでに、次の任務を確認する。ここからは離れているが同じ第3地区内で、距離を差し引いても余裕のある日付の指定だった。ついでに休めということか。

資料を受け取っても、日は落ちかけていたがまだ宿で食事をするには少し時間が早く、【少年】はギルドを出て、そのまま街を散策する。昨日対象を追う中で一度立ち寄った書店に入り、今度はゆっくりと本棚を見る。目立つ位置に並べられているのはなんとなく聞いたことのある作家の新刊だった。数秒眺めて、【少年】は、それが、【少年】がまだ幼かったころ、父が生前よく読んでいた作家のものだと思い出す。

【少年】の故郷が燃えて、逃げる最中に母や妹とはぐれて、1年後、終戦の直後に、【少年】は処刑人に所属した。そのとき、「ようやく遺族が見つかった」と手渡されたのが、父の右の肩甲骨とドックタグだった。

戦場で、遺体の回収は困難だろう。それを理解していながらも、認めたくなくて、兵士からそれを受け取り【少年】へ手渡す役目を負っただけの【班長】に泣きついた。革の袋に入れられた、手の中に納まるほどのそれが父だということに、納得したくなかったのだ。結局立ち会っていた【先輩】になだめられるまで、【班長】に泣きついていた。酷いことを言ったのかもしれない。【少年】はショックのあまり詳しくは覚えていなかったが、それでも、あんなことがあっても自分を部下として大切にしてくれる【班長】のことを、【少年】は信頼していたし、尊敬していた。

 その本を手に取った。タイトルは、『忘却』。

以前、【先輩】が、人間は声から忘れていく、という話をしていた。

その時はちょうど、調査対象の腐敗を確認した後で、危険だというにもかかわらず、【先輩】は、対象と偶然を装って雑談をした後、報告書に詳細を記入していた。

「…私たちは、最後に彼らと会話できるわけだからさ、」

 そう、【先輩】は呟いた。

「私たちくらいは、彼らを覚えていたいと思うよ」

 それに何と返したのか、【少年】は覚えていなかった。しかし、それに対して【先輩】は、困ったように笑って、【少年】の頭を撫でたのだった。

 【少年】に、【先輩】のような判断はできない。生死体とは極力関わらずにいるべきだ。あちらに感情移入してしまうのは当然危険であるし、こちらが処刑人だと気付かれたら、それは死を意味する。【先輩】は、その【少年】の考えを否定しなかったが、肯定もしなかった。

 何が正しいのだろうか。

 もしくは、この仕事に、正しさなんて存在しないのかもしれない。

 父の好きだった作家の新作ということもあり、その文庫本を購入した。しかしすぐに読む気にはなれず、行く当てもなくふらふらと彷徨う。既に暗くなった街は、店の並んだあたりを離れると途端に静かになり、壊れた街灯が点滅していた。

人気のない路地で、背後から延ばされた細い腕に、咄嗟に腰から抜いたのは、重いレイピアではなく、使いやすい短剣だった。

その手が【少年】に触れる直前の行動に、【男】が驚いたように飛び退く。刃先は空を切るが、逆手に持ち直して地面を蹴った。

「危ないな…!」

 胸部を狙ったつもりの刃先は、【男】が右腕で自身を庇ったことにより、切り傷をつけるだけにとどまる。傷口から流れ出るのは、鮮明な赤色ではなく、どろりとした黒い液体。それは、相手が生死体であることの証明だ。

 堪え切れなかった苛立ちは、【少年】の口から舌打ちとなって音を発した。目の前にいるのは、先日書店で見かけた、20代程度の、民族衣装を着た、長髪に眼鏡をかけた男性。

 あの時こちらを認識して、潰しに来たということか。

 固有能力はわからないが、【少年】に対してそれを使う様子がないことから、珍しいことではあるが、高位ではあっても殺傷能力は低いとみていいだろう。武器を持っている様子もない。

 腐敗個所は見えない。核は、ハイネックで隠れている首か、長袖で隠れている腕か、その他か。

 体勢を立て直して、服の上から【男】の左脚に短剣を突き刺す。引き抜くと、脈動の止まっているそれの傷口から、黒が流れ出た。

 致死性という観点では意味は無いに等しいが、それでも、多少動きを鈍らせることはできる。その隙を狙って【少年】は【男】の胸部を蹴り飛ばし、倒れたそれの首筋に刃先を押し付けた。服が厚く傷をつけることはかなわなかったが、白いハイネックが黒く汚れる。

 ここに核があるかはわからないが、人間でいうところの致命傷を受けると、生死体は位が下がる。本能的に、それを避けるはずだ。

「俺と同じ髪と目の色の、女性と女の子に見覚えは無いか」

 右手の短剣を【男】の首筋に添えたまま、【少年】はフードを外した。短い白髪が微かな光を透かし、色素の薄い灰色の目は【男】を無感情に見下ろす。

 その【少年】の様子に、【男】は数秒の沈黙の後。

「…知ってるとしたら?」

「お前っ…!」

 【少年】の腕に力が籠るが、肝心の致命傷を与えることはできなかった。動揺を察した【男】は、【少年】を突き飛ばしてその拘束を解く。しかし【少年】から逃げる様子は見せず、困ったように服に付いた土ぼこりを払い、左脚の傷口を見下ろして、「あー…」と呟いた。

「…どうすんのこれ。この服第4地区に行かないと売ってないんだけど」

「知るか死ね」

「もう死んでるけど?」

 平然とそう返した【男】に、【少年】はレイピアを抜いて構える。その様子を見て、【男】はため息をついてから、無抵抗を示すように両手を軽く上げた。

「…ごめん、嘘ついた。本屋のおじさんから、忘れ物って」

 そう言いながら、両手を一度おろして右袖の内側に左手を入れ、小さな紙袋を取り出す。それにより布がずれたために、右腕に巻かれた包帯がのぞいた。あそこが核か?

 恐る恐る受け取った【少年】が中身を見ると、入っていたのは、書店で配っていたらしい、ガラスのチャームがついた金属製の栞と、新刊が紹介されているチラシだった。

 気がかりなことはあるが、取り敢えず。

「…お前昨日もあの店にいなかったか…?」

「あの人私の知り合いなんだよね」

 元同業者、と【男】が、再び両手を上げて続ける。

「…不意打ちを狙ったのは認めるよ。服装から君が処刑人だとはわかったし、関わらないほうが身のためだと思ったから」

「…俺をどうするつもりだった?」

「別に。気絶させてそれと一緒に転がしておこうかなって」

 人間に対して「転がす」という表現を用いているあたり、多少高位の生死体らしい倫理観の欠如はあるが、本気で加害の意志…はあるが、殺傷の意志は無かったらしい。

 【少年】は少し迷い、ため息をついて刀身を仕舞った。暫く実戦をしていなかったから、腕が痛い。

「…私を殺さないの?」

「もう死んでるだろ」

 訝しげな様子の【男】に、【少年】はあっさりと返す。それに、と【少年】が続けた。

「処理は俺の仕事じゃない」

 驚いたように目を見開く【男】に、「ただ、」と【少年】は【男】を指さした。

「次は処理する」

 そう言い放った【少年】に対して、しかし【男】は数秒悩む様子を見せて。

「…君、私を飼わないか?」

「キモ…」

「お兄さん泣いちゃうよ」

「おっさんだろ」

 軽い応答のあと、「どういう意味だ」と【少年】は【男】を睨んだ。

「処刑人の調査班なら、民間協力者を持てるだろう。私に殺傷能力は無い。生死体同士は攻撃ができない。便利だと思うけど」

「…そうだとして、お前にメリットは?」

「知的好奇心」

 あっさりと【男】は言った。「あと自分の遺産が余ってるから使い切りたい」とも。

「…遺族に渡してさっさと死ねよ」

「家族いないんだよね」

 徴兵されてたら私だけ生き残っちゃった、と【男】が言う。さらっと言ったが、重くないか。

 【少年】はもう一度、先ほど【男】に渡された栞を手に取った。淡く色のついたガラスのチャームは何かの花がモチーフにされていて、恐らく、先程購入した小説の中に登場するのだろう。

 【先輩】の話を思い出した。

 この【男】の最後を知りたいと思ったのは、きっと【先輩】のような人間になりたいという羨望と、相手に対する情けを掛ける自身を可愛がりたいだけであって、それらは、【少年】の単なる自己愛に過ぎなかった。

「…一晩考えさせろ」

 【少年】の返答に笑った【男】の黒い瞳がこの先を見透かしているようで、【少年】は、えも言われないような寒気を感じた。



 翌日【少年】が宿を出ると、少し離れた…とはいっても宿やギルドから見える位置にあるカフェのテラスで、その【男】は悠々と寛いでいた。昨日汚れた服は捨てたのか、紺色だった民族衣装は、淡い青色のものに変わっていた。インナーは、乳白色のハイネック。

「…お前ここで叫んでやろうか?」

「私泣くよ」

「やめろキモい」

 【少年】に言われて何を思ったのか、【男】はけらけらと笑う。

「それで?私に話しかけたということは、了承してもらえたということでいいのかな?」

 【少年】が舌打ちを返す。危険性は低いかもしれないが、この性格は好きにはなれない。やはり、叫んでしまおうか。

「…さっさと行くぞ」

 そう告げた【少年】に、やはり【男】は【少年】の内心を知る気が無いのか、若しくは気づいていながらそれを嘲笑っているのか、再び、声を上げて笑った。

 成瀬です。

 ぼちぼち更新していこうと思います。

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