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異世界恋愛系(短編)

婚約者から悪役令嬢と呼ばれた公爵令嬢は、初恋相手を手に入れるために完璧な淑女を目指した。

「アンジェラ、その席はお前に相応しくない。僕に愛されている彼女こそが、そこに座るべきなのだ。わかったなら、さっさと移動しろ」


 王太子の突然の暴言に、辺りはしんと静まり返った。王家の庭で催されたお茶会。本日の主催者は王太子だったはずだ。


 けれど本人は当日まで何の準備も行わず、客人の選定から招待状の作成、茶葉や菓子の指定、席順などに至るまで、すべては婚約者であるアンジェラが担っていた。当日になっても姿の見えない王太子に代わり、アンジェラがその場を取り仕切っていることは誰もがわかっている。そんな彼女を邪魔と切り捨てる王太子に非難の目が集中しているにもかかわらず、王太子の傍らの女は甲高い声で高笑いをした。


「婚約者に見向きもされないなんて、可哀想だわあ。愛らしすぎるあたしのせいよね、本当にごめんなさい」

「お前に彼女ほどの可愛らしさがないのが悪いのだ。なんだその目は。文句があるのなら、婚約解消でもするか? 僕は構わないぞ?」

「……さようでございますか。それでは、ちょうどようございました。婚約解消でお願いいたします。新しい婚約相手は、殿下のお隣にいらっしゃるご令嬢で問題ありませんか?」


 アンジェラの言葉に、王太子が動きを止めた。言われている意味がわからないというように大きく目を見開いている。


「僕との婚約を解消するだと? 貴様、本気か?」

「まあ、なぜでしょう。先ほど『文句があるのなら、婚約解消でもするか?』とおっしゃったのは殿下の方ではありませんか?」


 こてんと小首を傾げて、不思議そうにアンジェラは問いかける。ねえ、皆さまもお聞きになったでしょう?と辺りを見回せば、周囲の客人たちも小さくうなずき合っていた。頬に手をあてて、アンジェラはしばらく困り顔で微笑んでみせる。次第にアンジェラを援護するかのように、周囲のあちらこちらから囁き声が漏れ始めた。


「そもそも『お前を愛することはない』とおっしゃっていたことは、大変有名ですもの」

「あらわたくしは、『中継ぎの婚約者』と吐き捨てていらっしゃるのをお見掛けしましたけれど」

「ああ、真の婚約者である『運命の聖女』が見つかるまでの繋ぎだそうだな。身分を超えて誰とでも親しくなれる聖女だと聞いたが、身分知らずの性女もとい淫乱の間違いではないのか?」

「その上、王太子の代わりに公務で国中を駆け回る王国の天使に、『悪役令嬢』などと不名誉なあだ名をつけるなんて理解しがたい。殿下がよく隣の女性と演劇の鑑賞に励んでおられることは存じ上げておりますが、演劇にのめり込むあまり現実との境目があいまいになっておられるのでは?」

「うるさい、黙れ!」


 周囲に自分の味方はいないらしいと悟った王太子が、焦りの色をにじませて大声をあげた。無理矢理であろうが、自分の要求を通すことができればうやむやにできると思ったらしい。王族であり、ようやっと生まれた跡取りとして国王夫婦から甘やかされてきた王太子にとっては、それはごくごく当たり前の感覚だったのだ。


「状況が変わった。お前との婚約は解消しない。お前は側妃となり、僕たちを陰から支えるがいい。喜べ、愛する男の役に立てるのだ。嬉しいだろう?」

「まあ、何をおっしゃっているのか意味がわかりませんわ。婚約の解消がお嫌なのでしたら、殿下有責での婚約破棄で構わないと陛下にお約束いただいておりますの。殿下さえよろしければ、私はそちらでも構いませんわ。ただ双方納得の上の婚約解消ではなく、殿下有責の婚約破棄ということになれば、慰謝料の支払いが必要になってきますけれど、それは大丈夫なのかしら」

「何? だから、僕は婚約は続行すると」

「殿下、やはり体調が悪いのではございませんか。お話を理解していただけないのは、もしやお熱が高すぎるのではないかと……。どうぞこの場は引き受けますので、ゆっくりとお部屋で休んでくださいませ。大丈夫です。国王陛下がそのうちに説明に来てくださることでしょう」


 アンジェラは、今日一番の笑顔で王太子と傍らの女性に退席を促した。耳を澄まさねば聞こえなかったはずの周囲のざわめきは、今でははっきりと王太子を嘲笑している。


「陛下が決断されたというのに従わないつもりか?」

「悪いのは体調ではなく頭でしょうに」

「熱が出ているとすれば、恋の病か。治療の見込みなしということでは、流行り病よりも厄介かもしれんな」


 王太子は赤くした顔をどす黒くした後、足音高くこの場から離れていく。そんな王太子の後姿をちらりとも見ずに、アンジェラは涼しい顔のまま砂糖の入っていない紅茶を満足そうに口にした。それはまさしく、憧れの理想の淑女そのものの姿だった。



 ***



 公爵令嬢アンジェラには、かつて未来を覗いた記憶がある。遡ること十年前。その頃の彼女は、自分と同い年とはとても思えない愚かな王太子に本気で頭を悩ませていた。公爵令嬢として自分に求められている役割は理解している。それでも、度し難い馬鹿を一生支え続けなければならないという事実に、ほとほと参っていたのだ。


 王太子との婚約は耐えられない、どうか婚約を破棄してほしい。アンジェラの切実な願いが叶えられることはなかった。何せ、ようやくできた跡取り息子である。どんなに不出来な息子でも、国王夫妻にとっては目の中に入れても痛くない愛息なのだ。そして我が子の出来が中の下どころか、下の下であることがわかっていたからこそ、アンジェラを解放してくれるはずがなかった。


 八方塞がりの状況下でアンジェラの心を絶望させたのは、実は王太子の暴言でも、息子のことばかりを見ている国王夫妻の虫のいいお願いなどでもない。日頃からアンジェラのことを「我が家の天使」と呼んではばからない祖父や父、兄弟が、婚約解消について難色を示したことにこそあった。


 結局、女など政治の駒にすぎないのだと思い知ったアンジェラは、家出を決行することにした。もちろん子ども一人で生きていくことすらできないことはわかっている。それでも粗暴な王太子と救いのない自身の未来を受け入れるためには、いくばくかの時間が必要だった。だからこそ彼女は、普段の彼女なら絶対に手を出さないような無謀な計画を実行してしまったのだ。


(誰も自分のことを知らない場所に行きたい。少しの時間で構わない。淑女たる公爵令嬢としての正しい振舞いを求められるのではなく、自分が自分として過ごしても許される場所。そんな場所が本当にあるのなら、そこでただの子どもとして過ごしてみたい。神さま、少しだけ私に時間をください)


 シーツの切れ端をつなげたロープもどきをバルコニーの柱に巻き付け、部屋から抜け出そうとした。部屋から庭に出たところで、門番に見つかることなく外に出られるはずがないのに。その上、子どもが即席で作ったロープもどきはあっさりと途中で千切れてしまった。落ちる! そう思った瞬間に、アンジェラはまばゆい光に包まれたのである。


(お父さま、お母さま、先立つ不孝をお許しください)


 けれど部屋から落下したはずのアンジェラに、衝撃と痛みは襲ってこない。代わりに、がらりと周囲の景色が変化していた。部屋を抜け出そうとしていたのは、真夜中だったはずなのに、アンジェラが空を見上げれば太陽は既にかなり高い位置まで上っていたのだ。


(ここは一体、どこなの? 貴族街、ではあるようね? なんとなく見覚えがあるもの)


 くうと、情けないお腹の音が響く。疲れと空腹に耐えかねたアンジェラは、無意識のうちに目の前にある小奇麗な外観の店の扉を叩いてしまっていた。その店の中から姿を現した相手こそ、アンジェラを保護し、彼女に様々なことを教えてくれたカルロという若い男だった。



 ***



 カルロはおかしな男だった。


 明らかに高位貴族の令嬢である自分を見て面倒くさそうな態度をとりながら、結局のところ彼女のことを突き放しはしない。


 アンジェラは当然とばかりにカルロに自分の世話を命じたが、家名を出せない時点で苦しい立場にあることは途中から気が付いていた。自分が公爵令嬢として扱われるのは、あくまで祖父や父がいるから。だから、家出をしてきた事実を告げた時点で、アンジェラは放り出されてもおかしくなかったのだ。


 そうさせないために、アンジェラは無理矢理魔力で誓約を結んだのだけれど、それはかなり乱暴な行為だった。いくら誓約を結んだとはいえ、嫌われても憎まれても仕方のない行いだ。けれど、カルロはなんだかんだ言いながらアンジェラの面倒を見てくれていた。


 今になって考えてみれば当たり前のことだけれど、アンジェラの常識は他の人の常識とはまったく異なっていた。アンジェラにとっての当たり前は他人にとっての非常識で、アンジェラは無意識のうちに相手が自分に合わせるべきだと思っていたことを、カルロはことごとく覆していった。


 役立たずの幼い子どもの手伝いにも根気よく付き合ってくれた。本当は、カルロがひとりで作業をした方が早いはずなのに、わざわざ倍以上の時間をかけてアンジェラにやり方を教えてくれた。


 ひとに命令することに慣れ切っていたアンジェラに、自分が動くことの大切さを教えてくれたのもカルロだ。自分がおつかいに出て初めて、誰かの意図を理解することの難しさを知った。思い込みで行動して、こっぴどく叱られたこともある。おかげで今までの自分の、周囲の人間の扱い方や叱り方を反省することができた。


(公爵令嬢ではない、ただの自分を見てほしいなんて思いながら、私は自分勝手に公爵家の威光を使おうとしていたのね)


 もしかしたら自分は、自分が思っているほど素晴らしい人間ではないのかもしれない。公爵家では、生きているだけで褒め称えられた。自分の容姿に、貴族らしい動作、ダンスも得意だし、教養もある。けれど、それだけでは何の意味もないということを知ってしまった。淑女教育を完璧にこなすだけでは、人心把握することはできないと思い知らされた。


「ねえ、カルロ。私ってもしかして、何もできない?」

「まあ、そうだな。商会で働く見習いに比べれば、何もできないな」

「そんな」

「だが、子どもならそういうものではないのか。もともと商会の出であればいざ知らず、君は貴族のご令嬢なのだろう。ならば、君は君なりに頑張っている」

「カルロは、何もできない私を邪魔だと思わないの?」

「そもそも勝手に家に転がり来ておいて、何を今さら」

「だって、本気で私のお世話ができることは名誉なことだと思っていたのだもの」


 思わず恥ずかしくなって、涙目になってカルロを睨みつければよしよしと頭を撫でられた。


「もう、子ども扱いしないでって言っているでしょう」

「怖い夢を見たから、一緒に寝てと頼んできたくせに」

「それはそうだけれど!」

「いくら姪っ子扱いしているとはいえ、さすがに一緒の寝台には寝られないからな。まったく、あんな斬新な態勢で寝たのは実家を出てから初めてだ」


 失敗をしても怒らず、呆れず、近くで見守ってくれるカルロの存在は、アンジェラにとって新鮮だった。公爵令嬢として完璧を求められてきたアンジェラのことを、ただの子ども……正確には彼の姪っ子と同様の扱いをしてくれる。それがとても嬉しくて、けれど時々、なぜか姪っ子扱いされるのが悔しくて、不思議な気持ちになっていた。その気持ちの名前に気が付いた時には、別れの時だったのだけれど。



 ***



 アンジェラがカルロの元に来たのが突然だったように、彼の元を去る日が来たのもまた突然だった。商会を営んでいるカルロの元に、横暴な貴族がやってきているという話は耳にしていた。けれどまさかその相手が、王族で、しかも自分の婚約者である王太子だったなんて思いもしなかった。


 カルロの後ろから覗き見た王太子は、自分よりもずいぶん年の離れた大人の男になっていた。自分と同い年の王太子が成人を迎えているだなんてありえない。けれど、この国に自分の婚約者以外の王子はいないのだ。だからこそ、彼は待望の世継ぎとして甘やかされ、あのような尊大で傲慢な人物に育ってしまっているのだから。


 そこでようやくアンジェラは、今自分がいる世界が未来の世界だということに気が付いた。さっと鳥肌が立つ。震えが止まらない。顔色の悪さを指摘され、おとなしく奥の部屋に引っ込む。カルロはアンジェラが、王太子に女として見られたことに怯えていたと思っていたようだが、真実は違うのだ。


 あの目も当てられない馬鹿な男が自分の婚約者で、半裸の下品な女が「運命の聖女」を気取っていることに頭痛とめまいを覚えただけだった。そして、カルロに出会って自分を省みていなければ、自分もまたあのような俗物に成り下がっていたかもしれない可能性に思い至り、鳥肌が立った。


(それにしても、あのような女に私が負けたなんて信じられませんわ)


 アンジェラはこの年で、小さな淑女と呼ばれている。王太子との婚約解消を求めて自宅で駄々をこねてしまったが、人前でアンジェラが感情を爆発させることは滅多にない。そしてアンジェラは淑女の名に恥じないように、自分だけでなく、周囲にも努力を求めてきた。だから、アンジェラが婚約者のそばにいながら、王太子があのような堕落した人間になっていることが信じられないのだ。


(私を嫌い、寄せ付けないことでああなった? それでも、あれはあんまりだわ。近くに寄れない状態であっても、どうにかして改善を促すはず。だって、あんなひとが自分の婚約者だなんておぞましいもの)


 そこでアンジェラはもうひとつの可能性に思い至る。

 もしもアンジェラが先ほどの彼女に負けたのではなく、あえて勝ちを譲ったのだとしたら?


 アンジェラは考える。なぜならアンジェラは信じているのだ。自分の才能を。自分の知識を。そして自分の家族の献身を。淑女としての矜持が彼女にはある。そして導き出された答えは。


(私は、自ら望んで殿下を律しなかった? あえてあの女と殿下がくっつくように仕向けた?)


 それは突飛なようでいて、他の何よりもしっくりくる答えだった。

 だって、アンジェラには力がある。実際にはアンジェラ自身になかったとしても、アンジェラを愛する家族は、王家などよりもずっと貴族の心を把握している。そんなアンジェラの家族たちが、王太子の愚行を諫めないことがあるだろうか。


 それならば先ほどの王太子の姿は、アンジェラとアンジェラの家族が望んだものだと言える。


(神輿は軽ければ軽いほど担ぎやすい。そして、あまりにもお粗末なものであれば惜しげもなく捨てられる……)


 どうしてアンジェラが未来に飛ばされたかなんてわからない。けれどもしも理由があるのだとしたら、アンジェラは選ばれたのではないだろうか。


 あのままではこの国は、きっと近いうちに立ち行かなくなる。それは王族以外の人間には自明の理だ。いや、殿下以外は理解しているのかもしれない。だからこそ、王家は必死になってアンジェラとの婚約をとりまとめたのだろう。公爵家の後ろ盾があれば、国内の貴族も王家を裏切らないから。そしてアンジェラの才覚があれば、王子の代わりに政治を取り仕切ることができるから。それはつまり、アンジェラの一生を愚かな婚約者と彼が選んだ空っぽの女性に捧げるということ。


(まっぴらごめんだわ)


 唇を噛んだ瞬間、脳裏によぎったのはいつもの苦虫を噛みつぶしたようなカルロだった。


 ――馬鹿だな。どうして諦めようとするんだ。君らしくもない――

 ――戦え。欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れろ――

 ――君が欲しいものは何だ。君の将来の夢は?――


 渋い顔をしているくせに、心の中は誰よりも熱いあのひと。


 そして、そんな彼を困らせているのが大嫌いな婚約者だということが何より許せなかった。あの男は、自分だけではなくカルロの人生まで食い潰すのか。


(私のカルロに、近づかないで!)


 不意に込み上げてきた感情に、頬が熱くなる。国のためではなく、カルロと自分の未来のために、完璧な淑女を目指さなければならない。自分たちの人生を誰に邪魔されることもなく、切り開いていくために。


(神さま、どうぞお願いです。愛するひとを守り、その隣で生きていくための力を私にください)


 この世界が未来の世界だとして、神は一度、アンジェラの願いを叶えてくれた。きっと神さまは、王国を救う代わりに、アンジェラの「淑女たる公爵令嬢としての正しい振舞いを求められるのではなく、自分が自分として過ごしても許される場所でただの子どもとして過ごしてみたい」という願いを叶えてくれた。


 次の願いを無償で叶えてくれと申し出ることは、あまりにも厚かましいだろう。けれど、どんな対価を支払えば、神の御心にそえるのだろうか。


 アンジェラは願掛けを行う際に、「断ち物」をする大人たちを知っている。自分の願いを叶えるために、自分の大好きなものを差し出すのだ。神さまは代償なんて求めないと神官さまは言うけれど、アンジェラはそんなことはないと思っていた。自分の願いを叶えてもらうのだ、何の代償もいらないはずがない。


 酒も煙草も縁のない子どものアンジェラだけれど、彼女にとっては欠かせない嗜好品が存在する。それが甘味だ。女子どもを魅了する至福のひと時。けれど、カルロに笑顔で巡り合うためならばなんだって我慢できる。そうしてアンジェラは、願いを叶えるための対価として甘味を断つことを決めたのだった。


「どうしようもなくなったら、俺のところに来い。都落ちで悪いが、故郷まで連れて行ってやる」

「約束ですよ? 神に誓えますか?」

「神と君の名に誓って、約束してやる。何かあったら、俺が面倒をみてやる。安心して、喧嘩してこい」


 そのアンジェラを後押しするように、カルロは約束してくれた。きっと彼は、この約束にアンジェラが結婚の可能性を見出しているなんて思いもしていないだろうけれど。


 アンジェラの覚悟を待っていたかのように、アンジェラの周りに力が満ちる。別れの挨拶とともに、アンジェラはカルロの頬に口づけをひとつ落としたけれど、きっと鈍感な彼のことだ。子どもの可愛らしい親愛の挨拶としてしか受け止められていないだろう。それでも、その温もりを忘れないでほしかった。



 ***



 カルロと出会った十年後の未来から、アンジェラはまた元の世界へと戻ってきた。


 意識を取り戻したアンジェラは、見慣れたいつもの自室に寝かされていた。自分でシーツを引き裂いてロープを作ったあげく、そのロープが切れて自室から庭へ落下したなんてどうやって言い訳をしようかと思っていたが、なんと神さまはアンジェラの願い事におまけをつけてくれていたらしい。


 アンジェラが戻ってきたのは、シーツに細工をするよりもずっと早い時間帯。本来なら、夕食も食べずにアンジェラが部屋に引きこもっていた時間だったのだ。


(これは「断ち物」をする私への神さまからの激励なのかしら)


 ありがたいことだと神に感謝を捧げつつ、アンジェラは自身の野望を叶えるために動き出すことにした。まずは夕食時に拗ねて部屋に引きこもっていたことを詫びて、家族との団らんを楽しむ。家族にとってはいつも通りの、アンジェラにとっては数ヶ月ぶりの家族との食事は、涙が出るほど懐かしく愛おしいものだった。


 そうやってよくよく観察してみれば、アンジェラは確かに家族に愛されていた。よく考えてみれば、公爵家の一存で王太子との婚約を解消できるはずがないのだ。カルロが言った通り、彼らはただ時機を推し量っていただけだった。だから未来で得た情報と推測を元にアンジェラが、王太子が好意を寄せるとある下町の少女とやらの情報だって、笑ってしまうほどに簡単に入手できたのだ。


「儂の可愛い天使よ。あの愚か者を懲らしめずともよいのか?」


 祖父は杖を振り回しているし、父は笑顔で王位の簒奪を唱え始めた。兄弟たちは無言のまま剣の素振りを行っているので、闇討ちを企んでいるのかもしれない。正々堂々と決闘を申し込まれても困ってしまうのだが。母は母で、楽しそうにお茶会の封筒を扇のように開いたり閉じたりしているので、女性ならではの社交で圧力をかける気満々のようだった。


「もうおじいさまったら。以前に、王太子殿下との婚約解消のためには時間が必要だとおっしゃっていたではありませんか。『急いてはことを仕損じる』とも言いますでしょう?」


 みんながアンジェラ以上に不満を持っていることはわかっていたけれど、あくまで笑って首を振った。ここで現場を押さえるだけでは意味がないのだ。それでは、王太子が謝罪をしてなあなあにされるだけ。それで女遊びの取り繕い方だけ学ばれても始末に悪い。


 何しろアンジェラの目標は公爵家に有利な立場で、王子との婚約を解消すること。そして自身がカルロと結婚できるようにすることなのだから。王太子を有責にするための証拠はどれだけあっても足りないということはない。それまでの間、王子と運命の聖女さまとやらには、楽しく踊ってもらった方が都合がいい。


「ぼく、姉上のために王さまになりましょうか?」

「まあ、私のために頑張ってくれるの? 嬉しいわ」

「可愛い妹よ、わたしが国王になっても良いのだぞ?」

「あらあら、頼りにしておりますわ。おふたりなら、どちらが公爵家当主でも国王陛下でも安心ですわね」

「お前が望むのなら女王になるという手もあるのだぞ?」

「それは遠慮しておきますわ」


 アンジェラだって、女王として国を動かすための才覚がないわけではない。けれど、女王の立場は難しい。王配を誰にするかについて、たくさんの横やりが入るだろう。そうとわかっていながら、わざわざ女王に立候補する気など起きなかった。


 今後のために爵位が必要というのであれば、公爵家が持つ複数の爵位の中からいずれかを譲ってもらえれば事足りる。アンジェラ個人としてはカルロと一緒に辺境へ引っ越すこともやぶさかではないのだけれど、商会として辺境領に貢献したいというカルロの望みを叶えるならば、やはりカルロにはお婿に来てもらう方が手っ取り早い。


「我が家の天使よ。お前は実に賢い。一時の感情で行動を起こさないのは、淑女として見習うべき美徳だ。だからこそ、儂はお前が心配なのだよ。あの男と婚約をしてから、お前は大好きだった菓子を口にしなくなった。やはり思い悩んでいることがあるのではないか?」

「おじいさま、大丈夫です。私は、おじいさまたちには甘えることができますもの。みんながとっても甘いので、お菓子は必要ないのです。でも、そうですね。私、家の外ではうんと頑張っておりますでしょう? 家族の前では弱虫になることをお許しくださいませ」


 アンジェラは、カルロの家でたくさんのことを学ばせてもらった。

 正しさだけがすべてではないことを。時には、自分の感情を見せて素直に振舞うことで、正論で理論武装するよりもずっと、相手と分かり合えることができることを。


 今までは身分制度を絶対だと思い込んだ、マナーにうるさい小さな淑女として過ごしてきた。きっとカルロに出会わなければ、鼻持ちならない貴族女性になっていただろう。本当の淑女というのは、たくさんのことを飲み込んだうえで、最後は穏やかに微笑むことができるしたたかな女性に違いない。そしてそんな淑女像は、不思議なほどアンジェラの考えるところの「悪役令嬢」とよく似ている気がしてならないのだった。



 ***



「アンジェラ、貴様、僕を嵌めたのか!」

「嵌めただなんて、人聞きの悪い。ですが、国王陛下からご説明があったにもかかわらず、いつまでも婚約解消に納得していただけなかったのですから、仕方がありませんわ」


 結局例のお茶会が終わっても、王太子との婚約は解消できなかった。どれだけ説明されたところで、アンジェラたちと異なる常識の世界に生きている人間には、理解できなかったのだ。結局、王太子とかのご令嬢は蟄居が命じられた。爵位だけ与えてどこかの寒村に封じなかったのは、周囲への迷惑を考慮した結果だ。


 あのような周囲に毒ばかりを撒き続ける人間を田舎に放逐するのは、向こうの土地の人間に対して喧嘩を売るようなものだ。流刑地扱いされれば、彼らも気分がよくないだろう。それならば、平民扱いで閉じ込めておくのが一番いい。きっと彼らは、自分たちがどれだけ恵まれているのか最期まで理解できないのだろうけれど。


 もはや「断ち物」は終わった。そう不意に気が付いたのは、アンジェラの口内に大好きなお菓子の味が広がったからだ。カルロと一緒に食べた、彼の故郷の甘味。果物の風味豊かな、たっぷりのジャムを挟んだあのクッキーの味わい。あまりの懐かしさにめまいがした。


 アンジェラは少しだけ勘違いをしていた。「断ち物」は、アンジェラから「甘味」を食べることをやめさせるものではなかった。神はもっと端的にアンジェラから対価を受け取っていた。あの日以来、アンジェラは甘味を認知することができなかったのである。


 それが、いきなり思い出されたのだ。これは、神からの許しが出たのだと思ってよいのではないだろうか。アンジェラの家族は、彼女が辺境伯領の三男坊に好意を寄せていることを知っている。その男が、王都で商会を営んでいることも、王太子から不当な圧力をかけられていたことも。何せ、彼女は少しずつ彼に近づいてここぞという時に手を差し伸べたのだから。


 カルロという名前しか知らなかったアンジェラだったが、本人を探すのはそれほど難しくはなかった。何せ無理矢理誓約を結べるほどに、魔力の質と量が釣り合っているのだ。それだけの魔力を持っているとなれば、ある程度の高位貴族の血筋に間違いない。その上、王太子が田舎としてあれだけ下に見ているということは、国防の要かあるいは国家の食糧庫が領地なのではないかと想像がついた。それだけの重要拠点を田舎と言い切る王太子のうかつさには怖気立つというものだ。


「おじいさま、本日のお出かけですが、ご一緒してもよろしいですか」

「うむ。天使のおねだりだ。儂が断れようはずもない。だが、相手の男がお前に相応しいか、よく見定めねばならん」

「おじいさま、今まで手を組んでお仕事をなさっていたではありませんか。今さらですわ」

「それはそれ、これはこれだ」

「もう、おじいさまったら」


 きっとカルロは驚くだろう。十年間も恋焦がれた自分と違って、カルロはアンジェラと別れてから数ヶ月程度しか経っていないはずだ。その上、彼にとっては自分は保護すべき子どもであって、女として見られたことなどいなかった。けれど、手に入れたいものがあるのならば、立ち上がるしかないことをアンジェラは既に知っている。恋する女はどこまでも強くなれるのだ。


「さあ、カルロ。待っていてくださいませ。私、あなたのことを口説き落としてみせますから!」


 ようやっと手に入れられる甘い甘い、カルロとの時間。そして久方ぶりのあの懐かしい甘味が食べられるに違いないことを期待して、うっとりとアンジェラは瞳を閉じた。



 ***



「それで、どうしてこういうことになるんだ?」


 納得いかないという表情を隠さないカルロの隣で、アンジェラはころころと笑ってみせた。あの日、十年ぶりにカルロの店を訪れた後、そのままカルロを公爵家に連れてきたのだ。


 目を白黒させるカルロは、実家の人間が公爵家に勢ぞろいしていることに頭を抱えてしまっていた。


「あら、カルロ以外のご家族の皆さまには、納得していただいておりますわ」

「それがまずおかしいんだ。どうして、君がうちの家族とこんなに親しいのか」


 目を吊り上げるカルロの頭を、カルロの長兄がすかさず押さえつける。ぐりぐりと拳骨を落としつつも、長兄の笑顔は優しい。なんだかんだで、弟のことを可愛がっているのだ。


「お前、可愛いお嬢さまを前になんて顔をしているんだ。政略結婚どころか、ここまで乞われて結婚するんなら、本望だろう。昔から言っていたじゃないか。結婚するなら恋愛結婚に限るって」

「まあ、カルロったらそうでしたの。意外とロマンチストでしたのね。それならば私、ちょうどよろしかったですわ。求婚用に赤い薔薇を百本準備しておいて正解でした」


 アンジェラがちらりと横を向けば、執事が心得たように小さくうなずいた。


「待て待て待て。どうして、いきなり求婚することになっているんだ。婚約が先だろう。そもそも、少しずつお互いを知っていくという話ではなかったか?」

「まあ。十年も待たせておいて、さらにおあずけを命じるなんて罪なお方。私、一人寝が寂しくて、泣いてしまいますわ」

「年頃の娘が、はしたない話をするんじゃない!」

「昔は、寂しいと言ったら朝まで手を握って隣にいてくださったではありませんか」

「あれはそういう意味じゃない」

「お前、否定しないのか。生真面目朴念仁だと思っていたが、手が早いんだな」

「兄上も、勝手に納得するのはやめてくれ」

「気分の切り替えに、お庭でも散歩いたしましょうか?」

「おお、嫁の実家で大胆だな。人目がないからって、押し倒すなよ」

「誰がするか!」


 長兄を振り切りずんずんと歩くカルロに、そっとアンジェラが自分の腕を絡める。


「だまし討ちみたいな真似をしてごめんなさい」

「まったくだ。せめてもう少し、俺にもどうにか連絡できなかったのか」


 カルロは、アンジェラの言葉を疑わなかった。あの日、突然家にやって来た迷惑な子どもがアンジェラだったなんて信じがたいだろうに、それでもカルロは全部受け入れてくれた。それが涙が出るほど嬉しい。


「カルロに情報を流して、未来を変えてしまうのが怖かったの。だって、早い段階で辺境領と王都の貴族との関係が安定していたら、カルロは王都までわざわざ乗り込んでくることはなかったでしょう?」


 アンジェラの質問に、カルロは懐かしい苦虫を噛みつぶしたような顔で押し黙る。その表情に、アンジェラは自身の考えの正しさを実感した。彼はとても情に厚いひとだ。もともと高位貴族とのやり取りを好んでいないにもかかわらず、あえて王都に乗り込んできたのはあくまで辺境伯領を守るため。最初から公爵家が手厚く保護していれば、きっとカルロと自分を結ぶ縁はなくなってしまう。


 それにとアンジェラは肩をすくめた。祖父も父もそして兄弟たちまで、アンジェラのことを溺愛している。万が一辺境伯に連なる者が、アンジェラに守られなければ潰れてしまうようならば、彼らはアンジェラが嫁ぐことを決して許しはしないだろう。なんだったら、嬉々として彼ら自ら潰そうとするいに違いない。だからこそ、表立ってカルロに直接かかわることはできなかったのだ。


「もしも君が婚約を解消する前に、俺が婚約者を見つけていたり、結婚していたりしていたらどうするつもりだったんだ」

「そもそもカルロに来ていた縁談は、すべてこちらが手を回して叩きつぶしておりましたわ! ちょっと容姿の良い男性や、財力のある男性を紹介するだけで譲ってくださる方ばかりでしたから本当に助かりました」

「おい」

「カルロは気づいていませんでしたけれど、意外と女性からの人気が高かったのですよ。子どもの私はもう心配で仕方がなかったのです!」


 嫉妬をちらりと滲ませて、アンジェラは組んでいたカルロの腕に自身の豊満な胸元を押し当てた。柔らかな肢体に触れてしまったと焦るカルロだが、アンジェラの拘束は解けそうにない。


「アンジェラ、密着しすぎている。寒いなら羽織るものを持ってこさせるから、離れなさい」

「あら、私はわざと押し当てているんですけれど?」

「君のことを大事にしたいんだ」

「大事にしたいのならなおさら、早めに美味しく召し上がってくださいませ」

「せめて結婚してからだ」

「もたもたしていては傷んでしまいますわ」

「だから、俺を茂みに連れ込もうとするんじゃない!」

「ふふふふ、そんな生娘のような反応をなさって。可愛らしくて、襲ってしまいたくなりますわ」

「ふざけるな。男は君が考えるよりずっと危険な生き物なんだぞ」

「あら、私、辺境伯領で剣と魔術の修行も行っておりますのよ。私が嫌だと思う行動は、カルロさまであってもとらせませんわ」

「……まさか親父とお袋の修行に耐えたのか?」

「ええ。おふたりから、お墨付きをいただきましたので、どうぞご安心くださいまし」


 カルロが王都で商会の仕事に勤しんでいる間、アンジェラは男装をした状態で修業に励んでいたのだという。日頃から公爵家にてみっちり鍛錬を積んでいたこともあり、何の問題も起きなかったのだとか。それを聞いてカルロが頭を抱えた。


「正直、心配しかない」

「大丈夫です。私が、きっとカルロを幸せにしてみせますから」

「その台詞は俺が言うべきものではないのか」

「あら、男女どちらが言っても良いものではありませんこと? だって、カルロに出会わなければ、私がこうやって強くなることもありませんでしたもの」

「それでも、俺なんかよりずっと君にふさわしい男はいるはずで」

「では、このように考えてはいかがでしょう? 私を支えてくれたのはカルロ。あなたがいてこその私。だから私の強さは、すなわちカルロの強さでもあるのです」


 カルロに出会わなければ、きっと自分がこんな風に笑って生きる未来は訪れなかった。王子と聖女を恨みながら、日陰の妃としてひとり寂しく過ごしていたに違いないのだ。


 どんな時でも、自分が立ち上がれば未来を切り開くことができるのだと知ったのはカルロに出会ったから。扱いづらい公爵令嬢ではなく、ただの子どもとして優しくしてもらえたから、世界の見え方が変わったのだ。


 きっとカルロにとっては当たり前のことだったのだろうけれど、守られるべき子どもとしてたっぷりと愛情を注いでもらえた。それは男女間の愛とはまったく性質の異なるものだったけれど、やせ細り枯れかけていたアンジェラの根っこを生き返らせるには十分なものだった。カルロがいたから、アンジェラはこの世界に根を張り、しっかりと生きていきたいと立ち上がれたのだ。そして周囲から注がれていた愛情だって、ちゃんと受け止め直すことができたのた。


 アンジェラにとって、カルロは父のように安心でき、兄のように優しく、そして初めて知る憧れの存在だった。そんなアンジェラにとっての光に釣り合うように努力したのだ。カルロ自身にだって、「自分なんか」とは絶対に言わせない。密かに決意したアンジェラが、突然つり目がちな目元を柔らかく緩ませた。


「まあ、ちょうど良いところに宿り木が」

「寄生植物が好きなのか?」

「雰囲気の欠片もない台詞ですこと。商会を担っていく立場で宿り木の花言葉ではなく、学術的な部分を持ち出してくるなんて本当にお馬鹿さんね。でもそこがカルロらしくて、私は大好きですの」


 冬至祭にはまだ早い。宿り木の下で口づけをしても、永遠の愛と幸福を得ることができるのか。それは神のみぞ知るだ。けれど、アンジェラは知っている。どんなに難しいことであっても、諦めずに立ち向かわなくては夢を叶える機会さえ得られないことを。


「カルロ、愛しているわ」


 アンジェラはとびきりの笑顔でカルロに首元に腕を回して引き寄せた。

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カルロ視点の物語はこちら 『婚約者から悪役令嬢と呼ばれた自称天使に、いつの間にか外堀を埋められた。』
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