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「そーだなあ。キュウリのサイズだと、血は吸わないな。もう少し大きくないといけない。あれくらいなら、血を吸うかもな」
カフジが指さしたのは、二メートルはある巨大なサソリだった。
尻尾の先の針は猛毒で、一刺しされれば屈強な男でもコロリと死んでしまう。
カフジはにやりと笑う。さすがにこれにはビビるだろうと考えていたのだ。
しかし。
ロペは、全く怯えなかった。
それどころか、キュウリを見たときと同じように興奮し、巨大サソリをしげしげと観察しはじめたのだ。
「……なんだよ、ビビらねえのか」
彼女はこくこくとうなずき、またもや論文を見せつけてくる。
「いやだから読まねえよ!」
声を荒げると、ロペは人差し指を唇にあてて、ふるふると首を横に振る。
スケッチブックには、こう書いてあった。
『巨大サソリは、臆病だから大きな声を発してはいけないです』
続いて、ぺらりと紙をめくる。
『猛毒は持っていますが、おとなしい性格だから滅多に襲いません。ですから、怖くありません!』
「……そ、そうか」
人間はキュウリみたいな可愛らしい動物は熱心に保護する。
だが、人間を害する可能性がある動物や、見た目が可愛くない動物は、貴重な動物だとしても、保護活動どころか積極的に殲滅しようとする。
どうせこの女もそんなものだと思ったが、残念ながら根っからの動物好きであった。
これでは隙を見つけて逃げられない。
むしろ、動物に熱中している間に逃げる方向で考えるべきかと、カフジは思い直す。
巨大サソリはしばらく毒キノコを何個か食べて、近くの川の水をすすってのそのそと去っていった。
ロペはまたもや目を輝かせて川に走っていった。
「よし今のうちに」
ロペが戻ってきた。
まさか逃げようとしたのがバレたかと思ったが、どうやら違うらしい。
ロペは無邪気な子供のようにニコニコ笑って、彼の腕を引っ張る。
「な、なんだよ」
何かを指さしている。
見ると、魚が一匹ピチピチと元気に動いていた。
ロペはまたもやスケッチブックを取り出し、せっせと記入する。
『この魚は、ブルーストーン国立公園地域でしか見られないハテツギョ。歯が鉄のように硬い魚です』
「はあ……。そんな魚もいるのか」
ロペはこくこくと頷くと、魚の口の中に、拳をつっこんだ。
「は!? 何してんだお前!」
魚はまだ生きている。敵である少女の拳に、ガブリと噛みついた。
ロペは少し痛そうに顔を歪める。
魚の顎を優しく上げて、拳を引っ込める。
血がぽたりぽたりと流れ落ちる。
傷口をまじまじと眺め、スケッチブックにこう書いた。
『やっぱり痛い』
「……だろうな……」
カフジは彼女の拳から、……彼女の血から、目をそらせなかった。
人間の血は、吸いたくない。
……けれど、抗えない。
ロペはカフジの異変に気づく。
彼の視線を追って、自らの血を見つめる。
ロペはこてんと首を傾げて、手を差し出した。
ぶわりと濃厚な血の香りがカフジの鼻孔を刺激する。
本能が反応した。
跪くと、細い手首をつかんで引き寄せる。
流れる血を熟れた舌で舐め取り、傷口を一つ一つ丁寧に吸い上げた。
久々に味わう人間の血は本当に美味しく、我を忘れて貪り続ける。
血が流れなくなり、ようやくカフジは正気を取り戻した。
「……はあ……」
満腹感とともに、胸に広がるのは後悔の念。
「……吸血鬼に血をすすられた感想をお聞かせ願いたいね」
これで『化け物』だのなんだのと言ってくれたら、彼女の血が尽きるまですすり尽くしてやる。
ロペはファイルをめくると、『吸血鬼の生態に関する研究レポート』を取り出してきた。
「魔物関係も対象なのかよ……」
重いため息をつく。
「にしても、お嬢さんは吸血鬼に血を飲まれると鬼になるって迷信は知らないのか? ちょっとはビビれよ」
ロペは嬉々として論文をめくる。
「いや、迷信だってのは俺らが一番良く知っているから、見せんでもいい」
人間は思い込みが激しく、吸血鬼に血を取られたら死んでしまうか、人ならざるものになると勘違いしている。
だが、吸血鬼が人を殺める可能性は、人間が人間を殺める割合以下である。
そもそも、ほとんどの吸血鬼は人間の血に依存しているのだ。依存対象を片っ端から殺してしまっては種が成り立たない。
貰う血は少量で、よっぽどの病気がない限り死にやしない。
しかし、人間は血を取られるおそれから、吸血鬼を忌み嫌う。
それならまだわかるが、人間は吸血鬼の餌食になってしまった哀れな被害者をも差別の対象とする。
……カフジがはじめて血を吸った少年も、周囲の人間から暴行を加えられ、命を落とした。
「お前自身が良くても、周りにあれこれ言われるぞ。いいのか?」
ロペは迷いなく首を縦に振った。
「……変なやつだな、お前。いや、まあ、最初から変なやつだってのは分かっていたがな」
ロペはこてんと首をかしげる。
「そりゃそうだろ。同僚を倒した吸血鬼と一緒に歩いているんだぞ。普通だったら公園を楽しむ余裕はねえよ」
スケッチブックを取り出すと、さらさらと文字を書く。
『あなたはやっていませんよね?』
びくりと、肩が跳ねる。
「んだよ。なら、誰がやったんだ?」
『眠り薬』
「……」
ロペは言葉を加える。
『眠り薬の匂いがしました。それに、床に落ちている書類に、凶暴な獣を捕まえるのに睡眠薬を使用する研究所に関する書きかけの研究資料がありました。おそらく、その実験中に誤って研究所内に睡眠薬が蔓延したのだと思います』
「なら、どうして俺だけ眠らなかったのか? 俺が薬をばらまいたのかも、とは思わなかったのか?」
『吸血鬼は人よりも頑丈です。私が来たときには睡眠薬の香りも薄まっていました。あの程度なら、吸血鬼には効きません』
ロペが分析した通りだった。
その時、カフジは散歩の時間だった。
最近の風潮は、吸血鬼であっても、ある程度の自由は与えるべきとされている。
しかし完全に自由にしては、吸血鬼は好き勝手に人を襲う。
そこで、カフジには国立公園を出てしまうと爆発する首輪がつけられている。
最初はこんな非人道的な魔法道具をつけやがって、と腹が立ったが、今やもう諦めた。
散歩の時間だぞと厳重警備の男に呼びつけられ、首輪をつける、その寸前。
警備の男がばたりと倒れた。
何があったのかと暫く固まり、他の人でも呼んでこようと場所を移動すると、研究所内の人間が全員眠っていた。
さてどうしようか、今のうちに逃げてしまおうか、と思っていたときに、ロペがやってきたのだ。
全部自分がやったと嘘をつけば、か弱い女なんてビビって逃げだすと考えて適当なハッタリをかましたが、バレてしまっていた。
「……お前、本当に頭がいいんだな」
こっそりと、「常識はないが」と一言付け足す。
カフジの嫌味に反応せず、彼女は嬉しそうに大きく頷いた。
不可思議なロペの行動に呆れていると、どこからかピロピロと安っぽい音が流れる。
ロペは不思議そうにカフジを見上げる。
「いや、俺は違うぞ。お前のだろ。お前のバックから聞こえるぞ」
バックをおろして、ガサガサと漁る。
研究ファイルはあんなにも早く取り出したのに、バックの中をひっくり返して、ようやく小さな機器を手にとった。
カフジには見覚えがあった。研究者たちがお互い連絡をとるために使っていた、携帯という魔法道具だ。
ポチポチとボタンを押して、耳に当てる。
喋れないのに受け答えできるのかとカフジは思ったが、携帯はテレパシー魔法を誰でも手軽に使える機器なので、強く心で思えば、言いたいことがあちらに伝わってくれる。
ロペは小さく頷いたり、ふるふる首を横に振ったりして答え、携帯をバックにしまう。
スケッチブックにさらさらと記入する。
『研究所の人たちから。カフジと一緒に帰ってこいって言われました』
「起きたんだな、あいつら」
『あと、怒られました』
「だろうな」
眠っている研究員を放置して、吸血鬼とお散歩は常識に考えてアウトである。
ロペは、はにかみながら、スケッチブックをペラリとめくる。
『君の名前、カフジって言うんだね』
「……そういえば、俺の自己紹介はしてなかったな。……名前も知らない吸血鬼についていくのはどうなんだ」
恥ずかしそうにロペは微笑む。
「……」
もはや何も言う気力もなく、カフジはため息をついた。