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レリエルが背にしていたえんじ色のカーテンに手を伸ばし、彼はその向こうにある扉へとレリエルを促した。背後をとられることに強い抵抗感を覚えたが、女の力でどうこうできるような状況ではない。おとなしく、その扉を開けると先ほどの部屋と同じような大きさの小部屋だった。
そこには天蓋付きの大きなベッドが一つ、存在感を放って鎮座していた。窓もなく、壁につけられた燭台がほんのりと室内を照らしていて、ムーディーさを演出している。
レリエルが入り口で立ち止まって硬直していると、後ろから肩を掴まれて部屋の中へ押し込まれた。扉の閉まる音と、施錠の音が響いた。
「さて、ね。私はこれでも忙しい身なので。手短に済ませたい」
「え、え、え?」
人生初のお姫様抱っこでベッドに運ばれ、放り出される。ギシ、とベッドを軋ませて上からその男に覆い被さられた。男の、金に近いブルネット髪の先が触れそうなほど近づく。
レリエルが家人以外の者達と交流を絶ったのは、わずか五歳の頃だった。屋敷内の使用人もその頃から雇われている者ばかりで、若い男性というものは、レリエルにとって未知の生き物といってもよかった。それでも、この状況がどういう状況であるかということぐらい、察しはついた。
とっさに男の顎を掌で押し除けようとしたが、あっさりと手首を掴まれて押さえ込まれてしまった。
「なに、タダでとは言わん。あなたの大事なモノを奪うのだ。欲しい物があれば言え。大概のことは叶えてやれるのは、あなたも分かっているだろう?」
欲しい物、などない。ただ、この手を離して家に帰してくれればそれでいい。そう言いたいのだが、レリエルは恐ろしさに口をつぐんだままだ。
青ざめたまま黙っているレリエルに、男は首を傾げておかしそうに笑った。
「おや、先ほど流暢にいくつもの他言語を駆使していた者とは思えんほど大人しいことだ」
その言葉にレリエルは、はっとなって口を開いた。そう、母語であるリアダ語では人見知りのレリエルになってしまうが、他言語ならば、と。選んだのは、友好国であるお隣のリブール語であった。
「申し訳ありません。恥ずかしながら、私は幼少から屋敷に閉じこもったまま、社交会にも顔を出したことがございません。その、あなたはどちら様なのでしょうか」
レリエルの言葉に、男は盛大に吹き出すと腹を抱えて笑い出した。解放されたレリエルは、上半身を起こし、いまだ笑い止まない男の背中をぽかんと眺めていた。
「ははッ、ちょっと待ってくれッ! まさか、私の顔を知らぬとは! はははッ」
何がおかしいのか分からない。屋敷に引きこもっているレリエルにとっては当たり前のことで、知らないのは目の前の男のことだけではない。家人以外の顔は知らないのである。
「まあいい。話を戻すぞ。それで?」
「それで、と言いますと?」
男もレリエルと同じリブール語で話してくれた。
「あなたが欲しいものは? 金? それとも目の前の私か?」
「え? いえ、必要ありませんが」
「そうはっきりと断られると傷つくんだが」
「私の欲しい物は……」
なんだろう、とレリエルは考え込む。本、はそれこそ沢山読んだ。他国の本も取り寄せて、言語を学ぶために両親に家庭教師までつけてもらって。その家庭教師と普通に会話できるようになるまでにも、かなり時間がかかったのを覚えている。
そうして思い出す。その家庭教師も、目の前の男と同じように他言語を用いてレリエルと会話してくれた。そう、人見知りのレリエルでも、外国の言葉ならば臆することなく堂々と自分の意見を言えるのだ。それを楽しいと思わせてくれた人だった。
そして、先ほどこの男とも、リブール語、フランゲン語、アルダルス語で会話した時もレリエルの心は開いて、わくわくと踊ったものだ。
「わ、私は……、人と話すのが苦手です。でも、他の国の言葉ならうまく話せます。それが楽しいと思いました……。そういう機会があれば、嬉しく思います」
辿々しく、レリエルは母語のリアダ語で、小さく消え入りそうになりながらそう言った。緊張で体は冷たいのに、頬だけが異常に熱かった。それでも、上っ面ではなく、心からの気持ちを伝えたいと思った時に選び取ったのは、リアダ語だった。
「うーむ」
「む、難しいでしょうか」
「いいや。そうではない。そうではないが、あなたにやってもらいたいと思っていたことが、まさしくそういう事なのでな。欲しい物は、別にまた考えてもらわねばならん」
「え」
「失礼します、殿下。そろそろ参りませんと、夜会が終わってしまいます」
ノックの音と共に、男性の声が扉の向こうから聞こえて来た。
今、この男はなんと呼ばれた? とレリエルは口を開けて男をじっと見る。
「ああ、紹介が遅れた。私はアルフォンソ・リアダという名で、この国の王太子だ。以後、お見知り置きを」
に、と人の悪い笑みを浮かべて、その男、アルフォンソ王太子殿下はレリエルの前で右手を胸にあて、右足を一歩引き下げた、見事なお辞儀を披露してくれた。