第5話「旅人」
2人は大学までの道を二人乗りの自転車でゆっくり進んでいた。
たわいもない話。
耳を引く少し高い声。
春希の背中を掴む手。
いつも通りの朝。いつも通りの風景。それが春希にはとても貴重なものに思えた。
大学の校門前に着き、凛が自転車の後部座席から降りた。
凛はしばらく黙って、春希の方を向いた。
「今日、講義サボって遊びに行かない?」
凛は春希の方を向いて優しく笑っている。
春希もつられるように笑い、静かに頷いた。
思えば、2人の出会いも「サボり」から始まった。
大学1年生の夏、講義室では講師の声が響いていた。
春希は頬杖を付きながらテキストをペラペラとめくっていた。
突然、講師の声が大きくなり、生徒の注目が集まる。
「……そういうわけで、今から全体を二つに分けてディベートをしてもらいます!はい、ここのラインで2つに別れてー!」
生徒達の間でざわめきが広がる。
春希は言われた通りに席を立ちながら戸惑いの目線で周囲を見渡していた。
ディベート……人と意見を交わすのは苦手だ。
自分は言葉足らずで、だいたいこのような場ではうまく振る舞えない。
思いを言葉にできない自分の性格には飽き飽きしている。
突然、春希の手が掴まれ、引っ張られた。
春希は何故か抵抗する気にならず、力の向かう方向へ動き講義室の外に出た。
手を掴んでいたのは今まで言葉を交わしたこともない1人の女性だった。そう、それが凛と初めて会った瞬間だった。
「講義サボって遊びに行かない?」
凛は少し微笑んで言った。
「えっと……あなたは……」
春希は戸惑いを隠せず、ボソっと呟いた。
「ディベート……嫌いなの。みんな北風みたい。」
凛は不満気にペットボトルの水を飲みながら言った。
「北風……ですか?」
春希は凛の顔を見て聞いた。
長い黒髪に白い肌……自分に話しかけてくるなんてとてももったいないような綺麗な女性だ。春希はそう思った。
「北風と太陽っていうお話があるでしょ?旅人のコートを脱がすために北風と太陽が競争する話。」
凛は話を続ける。
「北風はとにかくビュービュー風を吹かせて脱がせようとする。でも旅人は余計にコートを必死に掴んで離さない。でも、太陽が暖かく照らしたら脱ぎましたって話。」
春希はじっと頷きながら話を聞いている。
「言葉数を多くしたり、相手の発言の粗を見つけて指摘したり……ディベートって北風みたい。それが本当に誰かの心に響いたり、助けたりするのかなって。」
凛は窓の外を眺めながら少し真剣な顔で呟いた。
「私は太陽でありたい。何度沈んでもまた昇って暖かい光で包む太陽でありたい。」
凛は振り返り、優しい笑顔で春希を見た。
「そうですね……でも、だけど何で俺を連れ出してくれたんですか?1人でも良かったはずなのに。」
春希は不思議そうな顔で尋ねた。
「……あなたは……旅人みたいだったから。……疲れて不安でどうしたらいいか分からない……そんな旅人。」
凛は恥ずかしそうに笑った。