【永禄十三年(1570年)夏~冬】
【永禄十三年(1570年)七月】
引き続き、近畿で動きが激しくなっている。六月に入ると、甲賀に逃げ込んでいた六角勢が南近江に入って、織田、浅井連合軍に撃退されたそうだ。
その他の情報も踏まえて考えると、六角の動きはよその勢力と連動していたのかもしれない。六月の中旬には池田勝正が家臣の荒木村重と弟の池田知正の裏切りに遭い、三好三人衆が摂津に足場を確保する流れとなった。
大和の松永久秀、三好義継は、正面切って反織田信長、反足利義昭を表明したわけではないが、動員をかけているからにはその方向なのだろう、とは陸遜の分析だった。
そして、ひとまず屈服して上洛の約束までしていた朝倉が、再び兵を挙げた。摂津、大和、越前の三正面作戦という形になる。京の警護のために派遣している者達が心配だが、撤退させられる状況でもなかった。
ただ、今のところは信長からの軍事的な協力要請は届いていない。独力でやりたいのか、後ろから攻め込まれるのを警戒しているのか。後者の観点からは、京の治安維持を担当している新田の警護隊に、人質的な意味合いが生じてくる。
織田からすれば、我が新田は史実における上杉や武田のような存在なのかもしれない。信長を打倒しての全国制覇を目指すのなら、今こそ攻め込むべきなのだろう。だが、それもまた……。
織田が畿内を押さえて、さらに西国を制圧すれば、新田が下についてもさほど不自然ではなくなりそうにも思える。ただ、相手がどう感じるかは不明である。戦国の世の常識的には、仮想敵を放置して安穏に過ごすという感覚はないだろうから、決戦を余儀なくされるケースも考えられた。
【永禄十三年(1570年)八月】
京の情勢は気になるところだが、要請もないのに派兵するわけにもいかない。その分、域内の内政を進める動きとなっていた。
関東では、河川を改修し、できるだけ直線的で広い流域と複数の深い川筋、掘削した土も使った堤防を設置する工事を進めている。
川筋を複数設置するのは、増水時の流量を増やすためと、通常時に水が流れていない方を浚渫、整備できるようにとの意味合いがあった。
その形式では町や農地と河川との間に距離ができるため、別の水路を作りつつも、必要に応じてアルキメディアン・スクリューと小型水車を組み合わせて水を汲み上げての水利を計画している。
将来的には、このタイプの河川であれば、蓋をして地下放水路とするのもありかもしれない。計画中の工事が完成すれば、通常の川に近い状態の部分も残るものの、洪水リスクはだいぶ小さくできそうだ。関東は平野部が広く、元時代と比べれば開発度が格段に低いことから、手を加えられる余地が大きい。
奥州は、川が山間を流れるところが多く、そこまで自由度は高くないが、考え方は応用できそうだ。新規に築いていく町は、川の本流から少し離れたところに設置していくのがよいのだろう。川からは小舟が通せるくらいの水路を引き込むような形であれば、ある程度の利便性は確保できると思われる。
治水工事中の大雨は危険が伴うが、今のところある程度の雨量に留まってくれている。気温推移も比較的穏やかで、この秋の実りは良好そうだ。近隣で戦さの気配がない影響もあるだろう。
各地での集合教育は続いており、目端の利く若人が商いを志向するケースが増えている。特に有能そうな者には、勧誘して新田が出資する形での起業を持ち掛けたりもしているが、独立心の高い向きには自由にやらせた方がよさそうだ。
その方向性から、新田学校には商業コースも設置し、既存の商家にも参加を呼びかけた。若手商人同士で顔見知りにしておくのは、意味があるだろう。ここには、新田家中の内政組若手から商売っけのありそうな面々も送り込んでいた。
厩橋で時を過ごす中で、京から報せが入った。織田、浅井勢が摂津、大和、越前の三正面作戦を強いられる中で生じた変事がその書状には記されていた。比叡山の門徒宗が、神輿を押し立てて強訴に及んだというのである。
遡ること五百年ほど前に白河天皇によって、賀茂川の水、双六の賽と並んで、ままならないものの一つに挙げられた山法師……、比叡山延暦寺の僧兵は、この時代にも威力を保っているわけだ。
強訴の対象は、足利義昭と朝廷の双方だった。新田の警護は、その二者の間では当然のように朝廷を重視する。
足利義昭は、出家していた間は奈良の興福寺で過ごしていた。この興福寺とは、南都北嶺として北の延暦寺と並び称される僧兵集団である。いや、たぶん、宗教的な意義もあるのだろうけれど、現状では武力的側面が最初に記されるのが自然な状態となっている。
今では将軍位に就いてはいるが、かつては宗教勢力の一員だっただけに、話せば分かると義昭は思ったのかもしれない。武家よりは意思疎通ができるはずだ、とも考えたか。
だが、説得に出た足利義昭はあっさりと捕らわれの身となった。武家の頂点に立つ人物を従える形となった門徒宗は、そのまま朝廷に迫る。
楠木信陸が対応に苦慮する中、青梅将高が総指揮を取る新田の警護隊は、平然と反撃に移ったそうだ。かつて、高利貸しをしていた寺を討ち滅ぼした記憶が新田勢に残っているのか……、正月に厩橋で上演された演目でも扱われていたので、その話が伝わって追体験された状態だったのかもしれない。
警護隊の先頭に立ったのは、今回も弓巫女の面々だった。中心には新鋭的存在となる雀女の姿があったそうだ。厩橋の安照寺討滅の折りには火矢が使われたが、今回は爆裂矢が用いられたという。
……現職の将軍である足利義昭の身に危害が及ぶかも、とは考えなかったのだろうか? 考えなかったんだろうな、きっと。
いずれにしても、弓巫女の一撃を合図として正面から攻め掛かられたことで、比叡山門徒宗は崩れ去ったそうだ。本格的な侵攻ではなく、強訴の形を取っているのに強攻に遭うとは思っていなかったのかもしれない。
ただ、足利義昭はそのまま、淡海のほとりにある比叡山の門前町、坂本に連れ去られたという。幕臣たちは、意外と落ちついているらしいが、それでよいのだろうか? それとも、山法師は彼らにとってもまた、ままならぬもの扱いなのだろうか。
【永禄十三年(1570年)九月】
次々と続報が入ってきている。坂本に連れて行かれた足利義昭は、延暦寺にて反信長の決起を諸将に呼びかけたという。さらに、新田勢に対しては京都退去を命じた上で、追討令も発出したそうだ。
延暦寺の影響下でのことだとは思われるが、文書自体は正式なものとなっていた。それならばと、京の青梅将高からは撤退しようとの意見具申が来ていた。即座に了承の返事は出したものの、撤退実施は事態が落ちついてからとしておいた。
武蔵国のモブ豪族家の出身である将高は、すっかり新田のナンバー2的存在となっている。明智光秀も果たしている役割は大きいが、だいぶ年長であるために意味合いは大きく異なる。今後、俺の身になにかあった際の後継者含みとなれば、将高と、次いで真田昌幸となろうか。現時点であれば、諸岡一羽や神後宗治も候補に入ってくるかもしれない。
延暦寺による強訴からの将軍拉致は、史実とずれているのもあって大事件として捉えていたのだが、京ではさほど騒ぎとはなっていないらしい。しばらく前の時期に重なった法華宗、一向宗の一揆や、その前からの応仁の乱も含め、戦国の様々な争いを目の当たりにしてきたわけで、慣れっこになってしまっているのだろう。
そして、足利義昭も軽い気持ちで書いているのかもしれないが……。まあ、元時代での信長との絡みからしても、流されやすく、調子に乗りやすそうな気配は推察された。実際は有能な将軍だったと断言する学者さんもいたけれど、あまり大人物に見えないのは確かなのだった。
【永禄十三年(1570年)十月】
そして、京から本願寺が対信長戦に加わったとの急報が入った。その後の情報によれば、伊勢の長島一向一揆に、加賀を制圧している北陸の一向一揆も活性化しているそうだ。
史実とはタイミングがずれているが、信長の宿敵として猛威を奮った存在だけに、やはり関わってきたわけだ。参加勢力こそ違えど、信長包囲網が築かれる展開となった。
参戦時機のずれは、近衛前久卿が厩橋にいるのも影響しているだろうか。史実では、京を追放された元関白が、本願寺顕如を頼った時期があり、その際に息子の教如を猶子とするのだった。その流れで、包囲網についてのなんらかの使嗾があったのかもしれない。
この時代に話を戻すと、本願寺の参戦を受け、越前攻めを優先していた織田勢は京に取って返したそうだ。それを察した楠木勢が摂津方面に出陣して、三好三人衆を撃破し、包囲網の一角は崩された形となった。また、信長の接近によって延暦寺の僧兵が動揺し、足利義昭は脱出を果たしたのだった。
織田信長、足利義昭、楠木信陸が揃う中で、京での新田勢の責任者である青梅将高は退去を表明し、強硬に押し切ったそうだ。足利義昭に向けて、綸言汗の如しと申します、と言い放ったらしい。頼もしい。
【永禄十三年(1570年)十二月】
「きつい対応をさせてしまったな」
「本当に。人使いが荒すぎます」
「悪かったって。こんな展開になるとは思わなかったんだってば」
「わたしは、当初から悪い予感を抱いていました」
文句を言いながらも、青梅将高の表情には笑みが含まれている。どうも、同年代というのもあってか、互いに遠慮がない。本来なら、主従の分を越えた関係性に文句の一つも言いそうな明智光秀なども、特に異議を唱えることはなかった。
「で、比叡山はどんなだったんだ」
俺が問うたのは、将高らが京を出立する直前に行われた織田勢による延暦寺の焼き討ちについてである。時期も経緯もだいぶ違うが、これも必然ということなのか。
「なかなかの惨状でした。遊女や、その子らまで……。まあ、本来なら、そういった者達が寺にいる方がおかしいのでしょうが」
元の世界では、光秀も焼き討ちに参加していたはずだが、この世界では他陣営で嘆息する立場となっていた。その差違によって、惨状にどのような影響が出たのだろう。
「京の反応はどうだった?」
「それに先立つ、朝廷への強訴が反感を買っていたようで、いい気味だとする反応を多く耳にしました。ただ、やりすぎだとの声ももちろんありました」
「否定一色ではなかったのか……」
「ええ。将軍の弱腰振りに向けられた非難の声が大きくてですね」
まあ、朝廷が対応に苦慮するのはともかく、武家の棟梁が叡山門徒に捕らわれるのは、やはり醜態だったのだろう。
「それで、京の警護全般としてはどうだった?」
「既に光秀様がだいぶ整えてくださっていたのですが、なおも荒れ方はひどかったですな。あれが新田領内なら、色々とやりようがあったのですが」
町の荒れ具合や貧民の暮らしぶりはかなり厳しい状態で、炊き出しや色々な助力をしてもどうにも追いつかなかったそうだ。
それでも、一時期よりは良化したようで、多様な相手との関係性も築けたらしい。さすがは<人たらし>スキル持ちである。
「で、公家の娘に気に入った相手とかはいなかったのか?」
ぶほっとお茶を吹き出しそうになった将高は、あわてて袖を口元にやっている。
「なにをお戯れを……」
ちらりと視線が芦原道真に向けられたからには、やはりなにかあるのだろう。実際に公家の娘に言い寄られでもしたのだろうか。道真の頬が少しひきつっているようにも見える。
ただ、俺の感覚であまりつっついて仲がこじれても困る。話を京での食事情に転ずると、場に存在した微妙な緊張感が溶け去っていった。








