【永禄十二年(1569年)夏~晩秋】
【永禄十二年(1569年)七月】
京の警備を担当している関係で、上方の情勢が定期報告として入ってきている。信長が堺の商人衆を本格的に屈服させ、矢銭を継続的に獲得する状況を築き上げたらしい。うらやましい。
そして、織田家では伊勢侵攻の準備が進められているそうだ。この段階では長島一向一揆は活発化せず、順調にひとまずの攻略が行われるのが史実となっている。
ルイス・フロイスは京に滞在していた織田信長に再び謁見を求め、正式な布教許可を得たようだ。イエズス会はフランシスコ・ザビエルらの学生が集って興した修道会だと聞くが、元時代には日本を含めて多くのイエズス会系の大学が残っているくらいなので、有能な人たちだったのだろう。
現状だと関東、奥州は落ちついているので、青梅将高を京へと送り込むことにした。また、三日月、多岐光茂への交代要員含みで霧隠才助も派遣する。
その他、内政要員、盗賊追捕隊も追加で送って、様子がわかったら当初組を戻していくとしよう。
夏は各航路で通商の季節となる。交易路はだいぶ整備されつつあった。
最北の北樺太から蝦夷地と十三湊を繋ぐ航路は、新田の船にアイヌの交易隊が乗り合う形で進められている。まだ試行段階といったところだが、運命共同体としての雰囲気を醸成していきたいものである。
日本海側は、十三湊、佐渡、直江津を基幹航路として各所に支流を作る形にしている。こちらも、八丈島=マカオ船団……、じゃなかった、八丈島=香港船団と同様に、定期的な運航として、一般の商人が訪れやすいようにもしていた。
太平洋側も、十三湊から久慈、勝浦を経て、八丈島方面、鎧島方面、伊豆下田、駿府方面に航路は分かれる。
そして、八丈島からは琉球、高砂、香港へと向かう形になる。八丈島にも交易拠点が築かれ、商会外のネーデルラント商人が訪れる回数も増えていた。
香港から先は……、シャムや南方へも使節団を派遣した方がよいのだろうか。それもまた、考えてみるとしよう。
交易商品もだいぶ豊富になった。工芸品については、技巧を尽くした一品物と、手作業ながら規格化した商品とに分けているが、どちらも人気となってくれていた。
樺太、蝦夷地では緑茶や林檎酒、蜂蜜酒が人気商品で、蜜柑もまた珍重されていた。そうそう、国峯辺りの蜜柑はすっかり名物となり、正月の定番になりつつあった。ただ、そうなると数が足りないので、温暖な駿河、安房などでも栽培が推進されている。
関東での戦火はすっかり絶えており、購買力は上がってきている。上方、北陸、西国は引き続き戦乱の世であるため、食料もあればあるだけ売れる状態だった。
そして、今上から話のあった、困窮公卿の避難的移住の件も、前の関白が滞在中で安心感があるのか、既に十数名が到着している。
家格的には大半が半家で、名家、羽林家も少々、といったところとなる。この時代の公卿の中には、武家昵懇衆と呼ばれる、足利幕府と朝廷に両属するような状態で、将軍に供奉していた者達もいた。飛鳥井や広橋、烏丸といった家名が見られたそうだが、関東には来ていないようだ。
供奉してもらう必要はないので、専用の街を新田学校の近傍に作って、学校や内政勢との交流を促していく予定である。ここで生活を立て直して、京に戻っていってもらいたいものだ。
【永禄十二年(1569年)九月】
関東、奥羽では、配備している兵団を主に開墾に投入している。常備兵は慣れたものだが、臣従した者達が文化の違いに驚くのは自然なこととなる。無理にやらなくていいと伝えているのだが、そうはいかないと考えて、慣れない農作業に従事しているようだ。
実際のところ、農繁期の作業については、領民から有給で募集もしているので、人手自体は充足している。ただ、まあ、一体感の醸成には役立ちそうだ。
治水や町の普請などの報告に紛れて、鷹彦からの報せが入ってきた。忍者として足利義氏の側近となった彼は、元時代でのロシアの沿海州、ナホトカまで同行している。
思惑通りに佐渡経由で交流が持たれていて、密書のやり取りも可能である。こちらからは、なるべく連絡はしないことになっているが。
古河公方とするにはあまりにも距離がありすぎるが、足利義氏と関東、奥州からの退去勢は、無事に現地……、新河と命名された土地に根を張っているそうだ。
先方とは、本庄繁長が商船を仕立てる形で、物資の供給や移住者の輸送を実施している。いずれ新田が崩れた時に出番が来る、との話を本気で信じているのか、無理やり信じ込んでいるのかは不明だが、元気でやってくれているのはなによりだ。
人員配置の話では、京での責任者を青梅将高として、明智光秀を関東に戻した。光秀に対しては、落ち度があったわけではなく、青梅将高に経験を積ませるためだと繰り返し説明しておいた。そして、関東の諸事を任せたいのだとも。
史実で光秀が本能寺の変を起こした原因の一つとして、徳川家康の饗応役から難癖をつけられるような形で交替に至った件が挙げられることが多い。難癖をつける気はまったくないので、意思疎通は図っておきたい。
最上義光、二階堂盛義、八柏道為は引き続き京で任についてもらっているが、忍者の統括は霧隠才助に交代し、三日月と多岐光茂は厩橋へと戻った。剣豪勢では剣聖殿が戻り、引き続き駐在する諸岡一羽に加え、鬼真壁の二代目、真壁氏幹と佐野昌綱の弟、天徳寺宝衍も参加することになった。天徳寺宝衍は京での滞在経験があって、公卿らとの面識もあるそうで、外交役としても期待できる人材となる。
佐野氏は引き続き臣従状態ではないが、あちらはあまり気にしていないようでもある。まあ、そこをはっきりさせようとして、逆に臣従したいと明言されるとややこしくなるので、触れないでおくとしよう。
【永禄十二年(1569年)十一月】
東国は情勢が落ちついてきているため、上杉、松平への農業振興支援を試し始めている。
この時代の越後は、江戸湾近くにあるような綾瀬と呼ばれる川と窪地で構成される立地が多い。そこを整地して、米どころとなるのが史実的展開であるらしい。流れを踏襲するのが順当だろうが、青苧栽培の伝統もあるわけだし、米一辺倒ではなく商品作物も手掛けていってもらいたい。
いいものを作って、国内はもちろん、明や南蛮にも買ってもらうのが一番なのだが……。今後、産業革命を果たしたイギリスがアジアに進出してくれば、廉価な衣服や布地ならまだしも、阿片までもを売ろうとして、抵抗しようものなら攻撃を仕掛けてくる可能性が高い。元時代でも暴力団が麻薬を蔓延させて、中毒状態の者達に高値で売りつけていたわけで、やり口は今も未来も変わらないわけだ。
この後の明は、幼少の万暦帝が即位し、宰相の張居正が政権を運営するも、その死後に行われた親政がひどいものとなり、乱れ始めるのが史実の流れだった。この世界の明でも、張居正が既に実権を握っており、歴史の流れは変わらなさそうだ。
明清交代はどうなるだろうか。万暦の三征と呼ばれる明末の戦乱のうち、豊臣秀吉による朝鮮出兵は起こらなさそうな気もする。また、オランダ東インド会社が清を支援するはずだが、ネーデルラント・新田交易会社が本国とどういう関係性になるかは不明となっている。
そして、地味に効いてきそうなのが、ナホトカ……、じゃない、新河にいる足利義氏らとなる。後背に異物がいる状態なら、女真族の動きも変わってくるだろう。そもそも、清を興したヌルハチは、明に支援されて力を蓄えた状態で牙を剥いたわけだから、まったくの不発に終わる可能性もある。
かと言って、明がまともに実力を発揮できるかどうかと考えると、首を傾げざるを得ない。いや、万暦帝の息子で英明だったらしい泰昌帝が毒殺を免れれば、あるいは……。まあ、そこはまだ、先の話か。
幸い、関東、東北の活性化で内需も期待できるので、越後も東海方面も開発して損はなさそうだ。
東海方面で展開する内容は、武田にも伝わると想定される。当主となった武田義信は今のところ理性的な動きで、その後も協調路線が維持されている。むしろ、暴発しかねない諏訪勝頼を抑える方向で動いているようでもある。
このまま、長期的な協力関係を築いていければいいのだが。そこは、畿内の動き次第となりそうだ。
越後では、有望そうな金鉱脈が新たに幾つか見つかり、試掘の段階まで進んでいる。あまり金が出る印象はなかったのだが、探査が空振りに終わらずになによりである。
新田領内の採掘も、当初の露天掘り限定だった状態からはだいぶ進展して、坑道を掘る方式にまで至っている。
越後で金が出れば、佐渡での採掘について遠慮する必要がなくなりそうだ。上杉が強化されていくわけで、代替わりを重ねれば脅威とはなりうるが、まあ、まずは今を乗り切ることに集中しよう。
子供達の年長組のうち、八歳の柚子は剣の道に、六歳の渚は知識の吸収にと楽しげな日々を送っている。
渚の粘土箱世界地図を基軸とする世界情勢聞き取りは、より深く、また強度を増してきており、俺は厩橋に帰るたびに、いや、遠隔地でも書状によって、厳しく問い詰められるようになっていた。医学系の面々はまだ遠慮があった状態だったようだ。
対して、長男である六歳の柑太郎は、剣で柚子との格の違いを見せつけられた件で、引き続きへこんでいる状態にあった。
必ずしも才能がないとも限らないのだが、二歳差があるにしても柚子とでは動きが確かに段違いなのだから、残酷ではある。一方で、渚のような知識欲も湧き出てはいないようだ。まあ、どちらかと言えば、柚子と渚が異常なのかもしれないが。
そんな中で興味を示したのは、和菓子作りだった。製菓の第一人者である拓郎の技巧は、既に高度な域に達していて、味と美しさを兼ね備えた、作品と呼ぶべき菓子を生み出し続けている。柑太郎が興味を抱いたのは、最初は食欲だったからかもしれないが、拓郎の描き出す世界にすっかり魅入られたようだ。
弟子入りしたいというので、俺はよろこんで拓郎に頼み込み、手筈を整えた。世継ぎの候補ではあるのだが、やりたいことがあるのは、とてもいい傾向である。どう生きてくのにしても役立つだろうし、もちろん菓子職人になってくれてもかまわない。とりあえず、息子の作った菓子を食せる日を蜜柑と楽しみにするとしよう。
西国情勢については、引き続き多くの情報がもたらされている。将軍の代替わりと信長上洛による軋轢は激しいもので、多くの事象が発生するのは無理もない。その中で歴史の流れに沿わないものを見つけ出すのはかなりの難事で、放り出してこそいないものの成果ははかばかしくなかった。
一方で、一向一揆水軍の動きはやはり目立つもので、探っているのを気取られないようにと厳命しつつも、興味深い報告が入ってきていた。
根拠地は阿波の島にあるようだが、土佐の岬や種子島などにも拠点を置き、瀬戸内航路のみならず外海に面した航路も使っているらしい。
五島から明へも渡っているのではないか、との憶測に近い話も出てきていたが、香港側からはそういった話は出ていない。
まあ、この時代には日本勢による交易は禁じられているので、ネーデルラントを前面に押し出している新田と同様に、なんらかの隠れ蓑を装備している可能性もあるが。
船のサイズも通常より大きいらしいが、それが既存工法の範疇に収まるのか、未来知識が取り込まれているのは不明である。そもそも、ソントウや双樹が造船技術に長けているのか、との話もあるが。
自前で水軍を構築して、交易に乗り出しているとするなら、新田の現状と方向性は近い。畿内と明との交易に食い込んでいるのなら、収益性は新田の八丈島=香港交易を上回る可能性すらある。協調できればこの上ない味方になりうるが……。油断は禁物だった。
一方で、未来人が関わらずに本願寺が水軍を構築しているのなら、それもまた別の脅威となる。一向一揆が大名ら武家と競合せずに勢力を築いていけば、狂信集団と言うと表現は悪いが、血縁や欲得ベースで集う武家よりも、強い結び付きの集団となる可能性もある。
移住してきた公卿勢の中から、幾人かを登用する形となった。家長らは、やはり坂東の武家に仕えるのは抵抗があるようだが、次男、三男は生活を立てるためと、実力を発揮するためにそこを乗り越えてきたようだ。
野心の量はともかく、ステータス値に沿った役目を与える形となるだろう。武家も農家出身も孤児も、盗賊からの改心組まで含めて混在させている新田にあって、公卿だからと特別扱いする意味はない。
一方で、男装して宰相を務める芦原道真や、女性武将陣、弓巫女に女性内政要員らが活躍していることに触発されてか、公卿の娘である二人が仕官してきた。ただ、どちらも頭上に三角印が現れていないため、武家に心から仕えるつもりではないのかもしれない。まあ、悪さをしなければ、そこは好きにしてくれていい。
美鈴は明らかな切れ者で、道真のところに配してみた。もうひとりの千鶴は、頭の回転が早く人懐っこさも備えており、アイヌからの留学生の少女、チニタと引き合わせたところ、波長が合うようだったので、一緒に行動させることにした。
公卿の中には、娘を新田家中の有力者と結婚させようと画策する者もいたが、新田は見合いこそ否定しないが、そこから先はそれぞれの判断に任せる家風である。互いに好き合うようなら、あるいは利用価値の点で利害が一致するなら、好きにしてくれて問題ない。
直接登用組以外の働き口は、引き続き考えていくとしよう。新田学校に放り込めばどうにでもなるかと思っていたのだが、やや校風と合わない面があるようだ。ただ、しばらくは家禄を支給する予定なので、焦る必要もないのだった。








