7.刻印されし者達
反政府組織[刻印されし者達]は、今から20年ほど前に精神疾患の治療を目的とした記憶操作技術が開発されたのと同じアメリカ合衆国で誕生し、その技術が日本に持ち込まれるのとほぼ同時期に日本支部も設立された、数ある記憶操作に反対する組織の中でもっとも古い歴史を持つ団体である。
彼らは『刻印』という言葉の通り『記憶とは他の誰にも冒されてはならない己の魂に深く刻まれた印である』という信念のもと、政府による記憶管理社会からの解放を目指してレジスタンス活動を行っている。
記憶操作による精神疾患の治療は、脳内の記憶をデジタルデータに変換して他者が確認できるようにする記憶射出機構というごく小さな機械を右手首に埋め込むことで可能になる。治療の普及とともに国民全員に記憶射出機構の埋め込みが義務付けられたが、現在の組織のトップを含めその埋め込み手術を拒否した者たちが集まり政府への反対運動を行ったのが[刻印されし者達]日本支部の始まりだった。
その後も抵抗を続けたものの、個人情報管理の役割も担っている記憶射出機構を持たない彼らは日本国民とは認められなくなり、次第に政府から迫害される存在となっていく。そんな何の後ろ盾も力も持たず政府に駆逐されるのを待つばかりだった彼らが一矢報いるための希望の光になったのは、皮肉にも彼らが拒否し続けた記憶射出機構だった。
国民の記憶射出機構保持率が50%を超えたころ、日本各地で不思議な現象がいくつも報告され始めた。右手から突然物体が出現したり、体の一部が変形したり、人格が変わって凶暴化したり。そのような異常が、特に子供たちの心身に現れた。
科学的にまったく説明のつかないこれらの現象に人々は恐れ慄いたが、調査を進めていくにつれいくつかの共通点があることがわかった。ひとつはその現象に関わった全員の右手首に記憶射出機構が埋め込まれていること。ひとつは全員が何かしらのショックやトラウマなど精神的な傷を抱えていること。ひとつは発生した現象と精神的な傷が深く関連付いていること。これだけの情報が揃えば、たとえ理由を解明できなくともその原因は明白だった。
世界を平和に導くために生まれたはずだった記憶操作技術と記憶射出機構に隠された危険な副作用の存在に世界は震撼し、大人たちによって植え付けられた恐怖や怒りの感情を記憶射出機構を通じて具現化する子供たちは具現者と名付けられ、人々から遠く隔離された。
さらに、この事実によってこれまで平和に暮らしてきた人々が記憶操作技術に疑問を抱き社会が混乱に陥ることを危惧した政府は、能力を発現した具現者を捕縛する『具現者狩り』を始めると同時に、人々にトラウマを助長させる可能性のあるあらゆる物事の規制と記憶洗浄による情報、思想の管理を推進することで具現者の存在自体の隠滅を試み、政府にとって不都合な真実を次々と闇へ葬り去っていったのだった。
このような経緯を経て、元来記憶操作の目的であった医療行為という枠を大幅に逸脱した現在の歪な記憶管理社会は次第に形作られていった。
そのような状況を背景に、[刻印されし者達]は具現者の子供たちとその家族をはじめとする関係者を具現者狩りから救うことで同志を増やしていった。記憶操作による具現者への覚醒が原因で政府に追われるという理不尽に数多くの者が奮起し、具現者の強大な能力も手伝って[刻印されし者達]は徐々にその勢力を拡大し、力を蓄えていった。いつか本当に政府を打倒できる日が来るかもしれないという希望さえ見え始めるほどに。
しかしたったひとつの裏切りによって、その希望は脆くも崩れ去ることとなる。
[刻印されし者達]日本支部の設立から10年ほどが経過した今から約10年前、当時東京都に所在していた[刻印されし者達]の本部を突如政府軍が襲撃した。政府はこのとき、会議のために組織の主要な幹部が集結する日時、本部の正確な場所と建物の構造、そして緊急時の脱出ルートまで、襲撃を効率的に行い組織を根絶やしにするためのあらゆる情報を把握していた。それはつまり、政府側に[刻印されし者達]の内通者が存在していたことを意味している。この襲撃によって多くの主要メンバーが逮捕、または死亡し戦力を大幅に失った[刻印されし者達]はほぼ壊滅、わずかに生き残ったメンバーも各地へ散り散りとなった。
そしてこの出来事を契機として、日本政府は世界的にも他に類を見ないほど強硬な支配体制の構築へと踏み出していった。その第一歩が、反社会思想を持つ人間の侵入を一切許さない『東京都完全封鎖』。これ以降東京都は他の県に繋がる全ての道路で検問が行なわれ、政府から通行の許可がない限りは誰も出入りできない状態が現在に至るまで続いている。
だが後に、封鎖された東京都内で反政府組織に対する戦力拡充のため秘密裏に具現者の能力を一般人に適用して人間兵器化する研究が行われていたことが判明する。そのきっかけが今から5年前に発生した通称[炉心溶融]と呼ばれる、研究所内で凄惨な人体実験を受けていた被験者が暴走、施設を破壊し数十人の実験体が脱走した事件だった。
都内のみならず周辺地域にも甚大な被害をもたらす大惨事となった[炉心溶融]によって政府が事件後の人々の記憶操作など様々な対応に追われたことは、結果的に[刻印されし者達]が再起するための十分な時間を与えた。残された者達の不屈の精神で体制を立て直した[刻印されし者達]は大阪を拠点に再び勢力を拡大し、現在も全国各地で政府への抵抗を続けている。
その中でも最大の激戦区が東京都にほど近い神奈川基地と埼玉基地のある関東地方である。両基地は[刻印されし者達]の中でも特に精鋭が揃う集団であり、政府も迂闊に手を出せば[炉心溶融]級の被害は避けられない。逆に言えば、もし何らかの原因で[刻印されし者達]側の戦力が大幅に削がれたり致命的な情報が流出すれば、東京のときと同様にすぐ政府は彼らの殲滅に動くだろうと思われた。
このように[刻印されし者達]と政府、両者の均衡は非常に危ういバランスの上に成り立っているのだった。