2.起源:黒鉄鋼太
翌朝、諸々の準備を済ませた鋼太は検査で遅刻する旨を伝えるため学校に電話した。しかしすでに病院から学校へ連絡が入っていたようで、逆に今日は午後からの登校で良いと伝えられた。いつの間にか検査の予約をされていたことといい、もはや不気味さすら感じる手際の良さだ。
鋼太は一階の寝室にいる母親を起こさないよう静かに家を出た。昨日は帰りがかなり遅く今日は午後から出勤すると鋼太のスマートフォンにメッセージが入っていたから、今はまだぐっすり眠っているはずだ。
鋼太のカバンには『マサキ』の18巻が入っている。おそらくこれは没収されることになるだろうが、賢治にそのことはまだ伝えていない。「デジタル機器を信用するな」それが賢治の兄、秀治から教わった現代に生きる不良学生たちの暗黙のルールのひとつだった。
スマートフォンに表示される案内に従って電車を乗り継ぎたどり着いた『記憶治療センター』は想像していたよりずっと立派な大病院だった。こんな場所でいったいどんな検査をされるのか、鋼太は今更ながらに恐ろしくなった。
正面玄関の自動ドアを通り抜けて受付を済ませると、スタッフの指示に従ってエレベーターで3Fに向かった。エレベーターを降りてすぐの開けた空間が待合室となっていて、ソファーがずらりと並んでいた。エレベーターのすぐ横と待合室から他の部屋に続く廊下の前にはそれぞれ一人ずつ制服を着た警備兵が立っていて、検査の順番を待っている患者たちをじっと見つめていた。
鋼太は他の患者たちと同じようにソファーに腰掛け、この人たちも自分と同じように何かよからぬ物事を見知ってしまい記憶に異常があると判断されてここへやってきたのだろうかと考えていた。しかし、はたから見た表情からは何も窺い知ることはできない。
予約の時間ちょうどぴったりに院内のスピーカーで名前を呼ばれ、すれ違いざまに警備兵の冷たい視線を感じながら廊下を進み指定された検査室へ向かった。
ドアを開けて入室すると、白衣を着た40歳くらいの眼鏡をかけた男性の医師とその助手と思われる女性の看護師が机の上のモニターを見ながら何かを話し合っているのが目に入った。その横にはマッサージチェアをさらに大きくしたような仰々しい椅子が鎮座しており、そのせいで部屋がだいぶ狭く感じた。
医師は鋼太の姿を目に留めると、椅子に座るよう促した。言われるがまま腰掛ける。
「では記憶読取を始めますので、右手の袖を捲って手首が見えるようにしていただき、手の甲を上にしてその台に乗せてください」
「えっ? も、もう始めるんですか?」
思わず聞き返す鋼太。
「ええ。異常箇所を特定しそれを除去するだけで、患者様のプライバシーには一切触れませんのでご安心ください」
「そ……そうですか」
プライバシーに触れないというなら大丈夫なのだろうか。医師の有無を言わさぬ態度を前に鋼太は仕方なく指示された通り右手を台に置いた。すると椅子がゆっくりとリクライニングしてベッドに寝ているような状態になる。それから医師は鋼太の手首に見たことのない機械を取り付けていった。きつく締め付けられたりはしないが金属製らしく感触は硬く冷たい。そこから伸びているケーブルはパソコンにつながっていて、助手の看護師がモニターを見ながら忙しそうにキーボードを操作している。
しばらくして看護師から「準備完了しました」と声がかかり、医師が「それでは検査を始めます」と告げると、その合図と同時に記憶を覗こうとする何かが機械から手首の記憶射出機構を通って脳に侵入してくるのを鋼太は感じた。普段の記憶洗浄では感じられない未知の感覚に身体が強張る。
「ゆっくり深呼吸して、体の力を抜いてください。何も考えず、リラックスして、意識をこちらに委ねてください」
鋼太はただこの不快さが早く過ぎ去ってくれるよう、言われるがままに従い目を閉じて意識を手放そうと試みた。
__どうやら直近の記憶ではないようです。
__ふむ、では少し過去に遡ってみよう。
どこか遠くのほうで二つの声が反響している。それが聞こえなくなってすぐに、鋼太は自分自身の目を、耳を、鼻を、口を、肌を、手を、足を、あらゆるものを通じて感じ取ってきたすべての記憶が巻き戻されていくのを感じていた。徐々に目線は低く、感覚は鈍く、言葉は拙く、心は幼く。通り過ぎていく記憶にははっきりと形がわかるものもあれば、ぼんやりとした輪郭しか見えないものもあった。暖かく心地よいものもあれば、冷たく嫌な気持ちのするものもあった。何気なく転がっていて目につかないものもあれば、わざと目につくよう視界の端をうるさく飛び回っているものもあった。
記憶射出機構から鋼太の脳に向かって侵入してきた触手のようなものは、それらの記憶には一切目もくれず記憶と記憶の隙間をすり抜けて奥へ奥へと進んでいった。そして最初からそこを目指していたのだと言わんばかりに、あるところでぴたりと停止した。
そこに存在していた記憶は他のものに比べて明らかに異質だった。禍々しく、歪で、どろどろとした何かに覆われたそれは、中を覗かれることを必死に拒んでいるように思えた。再び遠くから反響した声が聞こえてくる。
__センサーに大きな反応。
__やっとか。いつの記憶だ?
__恐らく9から10歳頃かと。
__それだけ過去の記憶が今になって反応するとは……これは貴重なサンプルになるかもしれん。
記憶操作の触手が侵入しようとするのをどろどろの何かが防ごうとするが、何度目かの試みでついに触手と記憶が接続される。すると、突如として鋼太の脳裏に鮮烈なイメージが浮かび上がった。
ぼくは誰かと手を繋いで歩いている。とても大きくて温かい手。反対の手に大好きだったプリンの入った袋を持ってぼくはご機嫌だった。風邪をひいて寝込んでしまった母さんのために薬や飲み物を買いに行って、ついでに自分のおやつも買ってもらった帰り道だった。
__間違いありません、この記憶です。
__素晴らしい。ここまで鮮明な記憶がなぜ今まで検知されなかったのかは不可解だが……まずはこの記憶の保護を優先しよう。
__了解しました。記憶保護の範囲設定を開始します。
シーンが切り替わり、俯いた視界の先に全部で6本の足が見える。そのうちのふたつがふらふらと前に進んできて、ぼくのすぐ前で止まる。そして、この世のものとは思えない叫び声に驚いて顔を上げると、腕を大きく振りかぶった男の酷く歪んだ形相と視界の端から銀色に光る何かが迫ってくるのが見えた。そして、それがそのままぼくの頭に振り下ろされようとする瞬間、何かがあいだに割り込み、ぼくは抱きかかえられたまま後ろに倒れ込んだ。背中を地面に打ち付け、上から顔を強く押し付けられ真っ暗で何も見えない中、鈍い衝撃と共にくぐもったうめき声だけが聞こえた。何度も、何度も、何度も。数えきれないほどの回数を経てその声は徐々に小さくなっていき、最後にはまったく聞こえなくなった。
__範囲設定が完了しました。
__それでは保護を始めてくれ。
__はい……正常に開始されました。
__これで我々の研究がまた一歩先へ進む。その礎となれることを光栄に思うといい。まあ、目が覚める頃には何も覚えていないのだが。
触手によって靄が取り払われ、あらわになった記憶が意識からじわじわと少しずつ切り離されていく。死してなお、ぼくを抱きしめて離さない力強い両腕。鼓動をやめた胸の中で残るわずかな温もり。懐かしい匂い。鮮明に思い出したそれらすべてが、再び奪われようとしている。そのとき感じたのは、どうしようもない恐怖。そして怒り。嫌だ、やめて、奪わないで、ぼくの大事な、たったひとつ残された父さんの記憶に。
「触るな!!」
叫ぶと同時に、意識が現実へと一気に引き戻される。徐々にはっきりとしてきた視界に映るのはさっきまでと変わらない診察室。ただひとつだけ違ったのは、鋼太の右手に握られている血に濡れた鉄パイプの存在だった。