204.懺悔
「この辺りのはずなんだけれど……」
事前に白銀冷司から聞いていた、楽園都市神ノ区内の凪野響子の地下研究室がある地点に辿り着いたカレンと鏡。しかし、カレンの目にはそれらしい入口はどこにも見当たらない。
「あったで」
「えっ」
カレンが振り返ると、先ほどまで何の変哲もなかった壁に突如としてドアが現れていた。間違いなく、自分が見たときはただの壁だったはずだ。
「この一帯にごく微弱な認識阻害の具現化能力がかけられてる。まぁ、見られたら困るものを隠すときの常套手段やな」
旧政府時代、[刻印されし者達]が地下組織だった頃も雉谷真帆の『幻影』が神奈川基地と隊員たちの存在を政府から隠蔽するのに大いに役立っていたのを思い出す。
「じゃあ早速行きましょう」
「待て」
ドアを開けようとしたカレンの手を鏡が掴んで止める。
「何するのよ」
「あのなあ、これで罠が仕掛けられてない方が不自然やろ。下手すりゃドア開けた瞬間に首が吹っ飛ぶで」
その言葉に思わずドアノブから手を離し、顔を青ざめさせ肩を震わせるカレン。
「『鍵』で調べるから、ちょっと待っててな」
鏡がドアに手を当て具現化能力を発動する。その様子を見ながら、カレンは深くため息を吐いた。
「私一人じゃ、この中に入ることすらできないのね……」
思い返せば愛知基地から楽園都市までの短い間でさえ、幾度となく鏡の手を煩わせてきた。『魅了』の具現化能力でありとあらゆることを人任せにしてきた自分にはあまりに知らないことが多いと今更になって気付かされ、情けなさで顔が紅潮する。
「あー……ほら、ボク[刻印されし者達]でも潜入任務が多くて色々と経験があったから、な?」
あからさまに落ち込でしまった様子のカレンに、慌てて慰めの言葉をかける鏡。自分からしてみればむしろ可愛い双子の妹に面倒をかけられる方が嬉しいのだけれど、カレンの感情を逆撫でるだけだと分かっているので言わないでおいた。
「ふん……無駄口叩いてないでさっさと終わらせなさいよ」
「痛っ! ちょ、待って……ホラ、終わった終わった! もう開けても大丈夫」
不貞腐れた顔で脛を蹴るカレンの攻撃に耐えながら鏡が『鍵』の具現化能力による罠の解除を終える。実際のところこの扉にひとつも罠が仕掛けられていないどころか施錠すらされていなかったのだが、あえてそのこともカレンには黙っておいた。
「それじゃあ、今度こそ行きましょう」
緊張の面持ちでカレンが扉を開け、地下に続く階段を降りていく。先を急ぐカレンの足取りは明らかに警戒心が足りていなかったのだが、罠が無いことは分かっているため黙って鏡もその後を付いていった。
かなり深くまで続いた階段を降り切り、突き当たりのドアを開けて研究室に入ったカレンの第一声は、やはり落胆に満ちたものだった。
「何も……ない……」
鏡が予想していた通り、研究室の中にあったものは全て持ち出された後で、すっかりもぬけの殻となっていた。ひとつも罠がなかった理由は、ここを守る必要がなくなったからだ。ほとんど物がないせいか妙に広く感じる部屋に残っていたのは小さなデスクと椅子、簡易ベッドのみで、凪野が隠している真実に近づく手掛かりが残されているとは到底思えない。もしあるとすれば……。
「これ……!」
カレンがデスクの引き出しの中から見つけた何かを掲げる。それは一台のタブレット端末だった。メッセージのやり取りやウェブの閲覧に使われる一般に広く普及しているものだ。端末を起動して画面が表示されると、初期設定されたアプリが並んでいるほかに、一つだけ妙なファイルが保存されているのが見えた。タップしてみると、4桁の数字を求めるパスワード入力画面が表示される。
「貸してみ」
タブレットを受け取った鏡が具現化能力を発動する。実体のあるなしに関わらず『鍵』に開けられない場所は存在しない。
「1……2……3……4重のロックとは、相当厳重やなあ……でもこれで……よし!」
最後のパスワードを解錠し、ファイルを開こうとしたその瞬間だった。
「不正なアクセスを検知。30秒後にファイルを削除します」
「……はぁ!?」
画面に警告文が表示されると同時に、再びファイルにロックがかかる。そんな、間違いなく解錠には成功したはずだ。
「ちょっ……嘘やろ……?」
鏡たちは知る由もないが、凪野はこの端末にある仕掛けを施していた。それは楽園都市正面ゲートのセキュリティシステムと同じ、『鍵』の具現化能力で通常の操作では決して触れることのないダミーファイルを開くことで発動するものだった。まずい、このままでは重要な手掛かりが消えてしまう。もう一度『鍵』を発動しようとした鏡の手からカレンが端末を奪い取る。
「貸して!」
4桁の数字、そして鏡が口にした4重のロックという言葉。そこから何かを閃いたカレンは急いでファイルの名称を確認する。そこには「親愛なる最初の生徒たちへ」と記されていた。やっぱりそうだ。でも時間がない、思い出せ……!
「私、冷司、檻姫、尽……」
必死に記憶を辿り、順番に4桁の数字を入力していく。そして最後のロックが解除された瞬間、警告のメッセージが消えるとともにまるで初めから枷などどこにもなかったように、すんなりとファイルが開かれたのだった。
「開いた……!」
ファイルの中身は一本の動画だった。今二人がいるのと同じ研究室で、椅子に腰掛けた白衣姿の凪野響子が画面に映っている。
「……この動画が誰かの目に触れたということは、計画は失敗し私は死んだということだろう。これで君たちに許されるとは微塵も思っていないが、汚い大人の懺悔をどうか笑って聞き流して欲しい」
再生が終わったと同時にファイルそのものが消失したタブレットの画面を見つめるカレンの表情は、怒りに震えていた。冒頭に言っていた通りの汚い大人の懺悔。こんなものはただの欺瞞、そして自己満足でしかない。だって、初めから彼女はこの言葉を私たちに聞かせるつもりなどなかったのだから。
カレンが考えた通り、パスワードは四人の中で最初だったカレンから数えて冷司、檻姫、尽の順にそれぞれ[炉心溶融]の後に凪野と再会した日付だった。スパイとして旧政府に潜り込む際に名前を含む過去の経歴を全て捨て去ったカレンは、この日を自身の新たな誕生日と定めた。通常の誕生日とは逆だが、カレンはこの日に自分を救ってくれた凪野へ贈り物をすることに決め、同じことを檻姫、冷司、尽にも勧めた。自分たちが生きて年を重ねられることの喜びと、敬愛する先生への感謝を決して忘れないように。
偶然にもカレンが三人の日付を覚えていたのは、この慣習の発案者であることから毎年プレゼント選びに付き合わされていたからで、それも楽園都市創立後は激務に忙殺されおざなりになっており、今年に至っては当然ながら贈る気にもならなかった。あの用意周到さから言ってパスワードを間違えただけで同じように動画は消えていただろう。一度で正解できたのはほとんど奇跡のようなものだ。
あの人はどこまで私たちの心を弄ぶつもりなんだ。もう許さない。こうなったら絶対に照吾に一馬、光も含めた全員の目の前で同じ言葉をもう一度言わせてやる。
勢いよく椅子から立ち上がると、その拍子にカレンの両目から大粒の涙が溢れた。はっと気付いて辺りを見回すが、室内に鏡の姿はなかった。良かった、見られていなくて。どうやら気を回して席を外してくれたらしい。
「お疲れさん」
鏡は研究室のドアの前でカレンを待っていた。
「早速で悪いけど、ここからそう遠くない場所で具現者同士が戦ってる。研究室の中は音が遮断されてるせいで気付けなかったけど」
「……そうみたいね」
鏡と同じく具現化の音を察知したカレンが同意する。
「ボクはそっちに向かうけど、カレンはできれば安全な場所に避難しておいてほしい」
「いいえ、私も行く。きっとその場所に凪野もいるはずだから」
カレンの固い決意が込められた目に、鏡は諦めたようにひとつため息を吐いた。
「……分かった。でも、絶対にボクの側から離れんと約束してくれ」
鏡はそう言うと獣化『避役外装』を発動し、カレンを抱き上げたまま階段を駆け上がった。地上へ出ると脚力、跳躍力が飛躍的に増加する『避役外装』で建物から建物へ飛び移りながら音の発生源に向かい、程なくして鏡たちは京ノ区の議事堂近くまで辿り着いた。
「あれは……」
「尽だわ……!」
凄まじい具現化の音の発生源である楽園都市議事堂は、禍々しいほどに黒い靄のようなものに包まれていた。鏡はカレンの言葉で自分の直感が正しかったことを知る。決して忘れるものか、母親の生命と、剣菱さんの右手を奪った忌々しい『悪食』を。しかし、いったいあの建物の中で何が起きているのか。本当にカレンをあの場所へ連れて行って大丈夫なのか。
「離して!」
迷う鏡に痺れを切らし、カレンが腕を逃れ一人で議事堂に向かって駆け出していく。
「待て!」
「来ないで!」
カレンが鏡に向け『魅了』を発動し、強制的に動きを止める。その間にカレンは建物の中へ入ってしまった。『魅了』に抗い、ふらつきながら鏡も後を追う。
「クソッ……!」
目眩に耐えながら走り続け、何とか追いついた鏡が肩を掴んだとき、すでにカレンは戦場に続く扉を開いていた。そしてその先の光景が目の前に広がった瞬間、『魅了』が解けたことで突然鮮明になった鏡の視界に映ったのは傷だらけの鋼太たち、そして血の海に倒れる凪野響子と、具現化能力と獣化の暴走によって何種類もの生物が歪に連なったような異形の姿へと変貌した饗庭尽だった。




