1.不良少年
「マサキィィ!!」「強えェェ!!」
放課後の誰もいない校舎裏の片隅、中学三年生の黒鉄鋼太は親友の鷺沢賢治と二人、ぎゅうぎゅうに肩を寄せ合いながら漫画『路上伝説マサキ』の第17巻を読んでいた。今はちょうど主人公の喧嘩最強高校生竜崎マサキが人質となったヒロインのアケミを救うため単身敵のアジトに乗り込み、20人以上の不良を相手に大立ち回りを演じた末にライバル高校の番長を必殺のハイキックで倒すシーンに揃って歓声を上げたところだ。
興奮冷めやらぬまま先へと読み進めていくとシーンは一転、敵のアジトからマサキの自室へ移る。涙を流しながら怖かったと震えるアケミを優しく抱きしめるマサキ。二人はベッドへ倒れ込み、顔を赤らめながら見つめ合う。その後は……。
思春期の少年にはいささか刺激の強い描写にそれまでリズムよくページをめくっていた賢治の手がぴたりと止まる。鋼太はそれを時間にして2秒ほど目に焼き付けた後、賢治がどんな顔をしているか見てやろうと静かに横を向くと、ちょうど同じタイミングで振り向いた賢治と目が合い、二人は同時に噴き出した。
いま読んでいる漫画の単行本は、カバーが外されたまま雑に扱われているせいで表紙がボロボロに傷んでいる。
紙の本は彼らが生まれるずっと以前からそのうち消えると言われ続けてきたが、今もまだかろうじてその姿を残している。その最たる理由は、現在流通している書籍の99%以上を占める電子書籍が政府の方針により内容や表現を厳しく規制されていることにあった。暴力や性描写、暴走族、飲酒、喫煙……電子書籍では一瞬で販売停止になってしまうであろう禁止表現だらけの不良漫画も、紙の本ならその検閲の目をかいくぐって出版できるというわけだ。
逆に言えばほとんど全ての紙の本は規制対象であるため、それを読んでいる姿を他人、特に教師たちに見つかると非常にまずいことになる。良くて没収と反省文、最悪の場合停学の可能性すらある。そこをあえてリスクを冒し学校の校舎裏で読むことは、あらゆるものが管理、規制された現代で不良少年に憧れる彼らにできる精一杯のヤンキー的行為だった。
賢治が読み終えた17巻をカバンにしまい込んでからその続き、18巻を取り出すのを見て鋼太は歓喜する。
「えっ、もう一冊?」
「ああ。コウ、『マサキ』好きだろ。だから兄貴に頼んでおいたんだ」
「賢治お前……!」
紙の漫画本はとても貴重品で、そう簡単に手に入るものではない。どういうルートで入手しているのかは知る由もないが、賢治の兄で大学生の秀治がうまくやってくれるおかげで鋼太もそのおこぼれにあずかることができている。やはり持つべきものは親友だ。
第18巻は、前話でマサキに負けたライバル校の番長が復讐を誓う不穏なシーンから始まった。番長の指示でその手下たちがマサキをおびき出すためにマサキが通う高校の制服を着た生徒を手当たり次第に、中にはただの怪我では済まなさそうなほど物騒な武器を持って襲いかかる。もちろん電子書籍なら一発で販売停止の暴力描写だ。
それはいっさいの前触れもなく、次のページを開いた瞬間に起こった。
紙面のほんの小さな一コマ、地面にうずくまる学生に向かって不良が鉄パイプを振り下ろすその画を見たその瞬間、鋼太の背中に電流のような怖気が走り、息をすることさえ忘れるほど頭の中が真っ白になった。それから恐らくほんの数秒、しかし永遠にも思える静寂の後、周囲の音が再び聞こえはじめて視界が色を取り戻したときには、もうページはかなり先へと進んでいたのだった。
心臓がうるさく鳴っているのを鎮めるために大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。そんな鋼太の様子を、心配とからかいの入り混じった表情で賢治が見つめている。
「どうした、コウ? ビビってんのか?」
「違う……大丈夫」
それは強がりでもあり、単純に事実を述べてもいた。それは確かに恐怖というよりもっと温度の高い何かで、鋼太は自分をひどく昂らせているその感情をうまく言葉で表現することができなかった。
その後、気を取り直して再び漫画のストーリーをなぞり始めたが、心臓の鼓動がうるさく鳴り続けるせいで以降の内容はまったくと言っていいほど頭に入ってこなかった。
「いや〜、やっぱ『マサキ』は最高だな!」
興奮冷めやらぬ様子の賢治を横目に、鋼太は今も脳裏にこびりついていつまでも消えずにいる、不良少年たちが鉄パイプを思い切り振り下ろす漫画のコマを思い返していた。それは時間が経てば経つほど、まるで自分が過去に体験したことのようにリアルな感覚を持ち始めていた。それほど数は多くないがこれまでにも似たような暴力表現は何度も目にしている。しかしこんな感覚に陥ったのは生まれて初めてのことだった。鋼太の心の中で、そこから目を背けたい恐怖心と理由を知りたい好奇心がせめぎ合う。そして。
「なあ賢治。悪いんだけど、今日一日だけ18巻貸してくれない?」
結果、好奇心が勝利した。賢治はちょっと驚いた様子を見せながらも快く了承した。
「仕方ねえな、抜くのはいいけど汚すなよ」
言い訳も面倒だったので「気をつける」と答える鋼太に、賢治が馬鹿みたいに笑い出した。つられて鋼太も笑い出し、滅入りかけていた気が少しだけ紛れていった。
家の方向が違う賢治と校門で別れ、カバンの中に紙の本が入っていることに妙に落ち着かない気持ちになりながら鋼太は自宅に向かって歩き出した。
「コウ!」
自宅までもう少し、というところで背後からの急な呼びかけに思わず肩を震わせる。いくら聞き慣れた声でも今日は勘弁してほしい、と思いながら振り向くと予想通り鋼太と同じく学校から帰宅途中の志村茜が駆け寄ってきて、鋼太の肩にどん、と体当たりを仕掛けてきた。
「痛え……」
「相変わらずちびっコウだからよ。もう少し鍛えたら?」
「うるさいな……そっちがでかいんだろ」
茜は隣の家に住んでいる同い年の幼馴染で、自分でも気にしている身長のことをいじり倒してくる天敵でもある。鋼太は悔しさを噛み締めながら茜を見上げ、もうすぐ成長期が来るから大丈夫だと自らに言い聞かせることでなんとか精神を落ち着かせた。
「今日はうちでご飯食べる?」
鋼太は幼い頃に父親を交通事故で亡くし、現在は母ひとり子ひとりの二人で暮らしている。母親は仕事が忙しく家を空けていることが多いため、昔から隣の志村家が何かと鋼太の世話を焼いてくれていた。鋼太が幼少期に一人きりでも寂しさを感じることがなかったのは茜とその両親のおかげだ。
茜は中学生になった今も相変わらず鋼太のことを弟のようにしか思っていないようだが、一方の鋼太はいつからかどうも昔と同じように接することができなくなっていた。
「……いい」
「なんでよ」
「別に、関係ないだろ」
「関係ないって……なんでそんなこと言うの」
母親の帰りを待っていたら夕食が遅い時間になってしまうので鋼太も志村家で夕食を一緒に食べさせてもらうことが小さい頃はよくあったが、最近はすっかりその足も遠のいている。昔は当たり前だったそういうものがやけに窮屈に自分を縛り付けているように感じてしまうのも、思春期特有の感情なのだろうか。茜はまだ何か言いたげにしていたがそれを無視して家の前で別れ、右手首の記憶射出機構をかざして玄関のドアを開き茜を振り返ることもなく玄関に入ると、急いで靴を脱ぎ二階の自室へ向かった。
勉強机の上に投げ出したカバンの中から本を取って早速例のページを開く。当然と言えば当然だが初見で受けたほどの衝撃は感じられなかった。そのことにほっとしながらも、どこか肩透かしをくったような気持ちになる。しかしじっと見続けていると心がざわざわと騒ぎ出し、何だか妙な不安を覚えた。これ以上見たくないのになぜか目を離せない不思議な感覚が鋼太を包む。ただ、なぜそんな感情になるのか、その理由はどうしてもわからなかった。
その後、何気なくスマートフォンで『鉄パイプ』と入力し画像検索してみると、おそらく工事に使われるのであろう、何の変哲もない銀色の筒がいくつも表示された。漫画に出てきたのと同じ先端が直角に曲がったものもあったが、どれを見ても特に心をざわつかせるものは感じられなかった。それからもう一度、改めて漫画を見直してみる。紙面にはバットやメリケンサック、さらにはナイフのような、鉄パイプよりよほど物騒な武器がいくつも描かれている。しかしそれらを見ても何の感情も呼び覚まされることはなかった。このことから推測するに、どうやら鋼太の意識は『鉄パイプで人を殴る』ことに対してだけ異様に反応を示しているらしい。しかし鋼太は鉄パイプどころか素手で誰かを殴ったことはもちろん殴られたこともない。
考えているうちにずいぶん時間が経って外はすっかり暗くなっていた。一度断ってしまった手前いまさら茜の家に行くのも気が引けたので、自分で作って簡単に夕食を済ませた。家で一人きりのことが多かった鋼太は一般的な中学生男子と比較すると非常に高い家事スキルを身につけており、特に料理は得意で母親が休みの時は作ってあげることもよくあった。
夕食と入浴を終えた鋼太は寝る前に日課の記憶洗浄を行うため、ベッドの上で専用アプリを起動したスマートフォンを右手首の上に乗せた。記憶洗浄とはその名前の通り記憶をスキャンして一日の中で受けたストレスなど負の感情をクリーニングする作業のことで、国民全員に毎日の記憶洗浄が義務付けられている。やり方は簡単で自分のスマートフォンを記憶射出機構が埋め込まれている右手首にかざすだけ。あとはしばらく待っていれば勝手に記憶を読み取ってきれいに洗浄してくれるのだ。
この作業のおかげで人々はストレスを溜め込むことの無い心安らかな生活を送ることができている。現在のように記憶を管理、操作する技術が生まれる以前の世界では、心身へのストレスが原因の『うつ病』という病が猛威を奮い社会問題にもなっていたらしいが、記憶洗浄が普及した今となってはただの風邪と同じようなものでしかない。
スマートフォンのディスプレイに記憶洗浄の進行度を表すメーターが表示されている。これが100%になるころにはあの妙な感情も洗浄され消え失せているのだろうか。画面を見るともなく眺めながらそんなことをぼんやりと考えていた鋼太の意識を耳慣れない警告音が現実へと引き戻した。
ディスプレイを見ると『異常な記憶が検知されました。精密検査を受診してください』という文章が表示されていた。それから数秒して『精密検査の予約が完了しました』というメッセージの後すぐに画面が切り替わってご丁寧に予約時間と病院の住所を示す地図が表示された。
スマートフォンでの記憶洗浄はあくまで簡易的なもので対応しきれない場合は専門の病院で治療する必要があると聞いたことがあったが、どうやらそれに引っ掛かってしまったらしい。つまりあのシーンはそれほど大きなストレスを鋼太に与えていたということになる。
まずいことになったと鋼太は思った。病院に行くのも面倒だが、一番厄介なのはストレスの原因を詳しく調査されることだ。しらを切ったところで検査で記憶を覗かれたら規制対象のメディアを閲覧していたことはすぐバレるだろう。下手をすれば賢治にも迷惑がかかる可能性がある。その意味では、自分が本を持っていることは不幸中の幸いだった。賭けにはなるが、道で拾ったことにして先にこれを渡してしまえばそれ以上の追求は免れるのではないか。賢治にはあとで平謝りするしかないが、他に良い方法は思い浮かばない。
そのように覚悟を決めてベッドに入るも、気が立っているせいなのかなかなか眠ることができなかった。普段は気にしたこともなかったが、ストレスを抱えたまま一日を終えようとするとこんなに落ち着かないものかと思う。ただ、何度も寝返りを打ちながら頭の中で出口の見えない問答を繰り返すのは不快でありながらどこか新鮮でもあった。きっと漫画の中のマサキたちが抱える行き場のないモヤモヤした感情はこれとよく似ていて、彼らはそれを発散するために不良行為に明け暮れているのかもしれないと、そんなことを考えながら鋼太は目を閉じ、自分の身体が眠りに落ちるのをじっと待ち続けた。