174.集結①
「なぁ、真帆」
「何……お姉ちゃん」
「あれって、幻やんな?」
「ええ……きっとそうに違いないわ」
早瀬の問いかけに答えながら、『幻影』の具現者である真帆はあれが幻などではく確かにそこに存在していることを頭の中で認めていた。もし実体のない幻なら、あのようにひとつ足を踏み出すたびに砂煙を巻き上げながら地響きが起こることなどあり得ないのだから。
全身を覆う硬く分厚い毛皮、指先に光る爪、外見はどう見ても熊だ。だが、あんな巨大な熊が現実にいるはずがない。廃墟群に残るビルよりも遥かに大きな巨体はもはや生物のそれではなく山が動いているようにしか真帆たちには見えなかった。
「あれ……もしかして大阪に向かってへんか?」
半ば夢心地のような表情で呆然と見上げながら早瀬が呟く。愛知基地から少しばかり離れた場所で突如姿を現した異形の怪物は、衝動のまま辺りを破壊して回っているのではなく明確な目的を持って移動しているように見えた。行く手を阻む建造物を払い除け踏み潰しながら真っ直ぐに進むその彼方にあるのは[刻印されし者達]大阪本部天守閣、間違いなくあの熊はそこを目指して進んでいる。あれほどの巨体で本物の熊と同じパワーを持っているとしたら、腕の一振りで天守閣を倒壊させてしまうだろう。
恐らくもっとも近い位置にいるのは鏡と香取が愛知基地に潜入するため警備兵を陽動していた私たちだ。だがその場に駆け付けたところで進行を止めることが不可能であることは火を見るより明らかだった。あの巨体にとって自分たちの存在など人間の周囲を漂う羽虫に等しい。真帆たちにできるのは一刻も早くこの危機を[刻印されし者達]の仲間たちに報告する、ただそれだけだった。
[具現者解放戦線]の前哨基地がある愛知エリアで熊のような超巨大怪獣が突如出現したこと、そしてそれが[刻印されし者達]大阪本部に向かって進行していることは西日本各地の全隊員に緊急通信ですぐさま伝令された。
「白銀……新政府に巨大な熊へ変化する獣人はいるのか?」
「知らないな。嘘だと思うなら記憶を調べるといい」
鋼太の問いかけに対し、両手を具現化能力制御の手錠で拘束された状態の冷司が応える。冷司の上半身に刻まれた『刻印』は鋼太への嘘や敵意に反応して苦痛を与える。何も起きないということは、本当に彼が知らないことの確たる証拠だった。
「何かと見間違えたんじゃないの? ビルより背の高い熊って……☆」
緊張に顔を強張らせる鋼太を和ませるようにあえて軽い口調で話しかける猿藤。逃亡した者たちを除き全ての戦闘不能となった敵兵士の捕縛と収容が夜中までかかってようやく完了し一息ついたばかりの滋賀湖上基地は、突然の本部からの通信によって再び大きな動揺に包まれていた。
「……オレが確かめてきます」
決心したように拳を握り締め鋼太が呟く。
「『噴射』で飛んでいけば今からでも十分間に合います。それに、もし本当にそんな危機が迫ってるなら戦力は一人でも多い方が良い」
仮面の兵士を含む数十人の敵重装甲兵士をほぼ一人で相手取った猿藤を除きこの場にいる[刻印されし者達]隊員の中で最も消耗が激しいのは間違いなく冷司と戦った鋼太であり、万全の状態から程遠いのは明らかだった。しかし休めと言ったところで鋼太が聞かないだろうことも猿藤は十分に理解していた。
「……分かったよ、ここは僕に任せて行っておいで。ある程度片が付いたら僕も戦える者を募って救援に向かうことにするよ☆」
「ありがとうございます。それじゃあ、行ってきます!」
鋼太は笑顔で応えるとすぐさま自分の足下に鉄パイプの噴射口を具現化し、『噴射』で大阪本部へ向かって飛び立っていった。それを見送った猿藤が冷司に向き直り、鋼太に対するそれと変わらない様子で告げる。
「さて、そろそろ君も基地に入ってもらおうか。指揮官である君には一般隊員とは別に個室を用意してある。危害を加えるつもりはないから、状況が落ち着くまで大人しく待機しててくれよ☆」
猿藤はそう言うと滋賀湖上基地への移送に使用するボートを用意するために湖岸のほうへ向かっていった。冷司が湖を凍らせて作った橋はすでに崩れ落ちており、飛行や水上歩行の能力を持たない者が基地に入る際は普段からモーターボートが用いられている。
生かされるだけに留まらず丁重に保護までされるなど死ぬより屈辱的かもしれないと思うが、敗者の扱い方に口を出す権利は微塵も無い。猿藤に従い立ち上がって冷司が歩き出そうとしたその時、遠くの方で悲鳴に近い叫び声が上がったのが聞こえた。
「その男を止めろ!」
俺の部隊の兵士が戻ってきたのか? いや、俺が戦闘不能になった時点で作戦は中止、散開して逃亡するように兵士たちには命令しているからそれはない。と、そこまで考えたところで冷司は自分のすぐ側に何者かの気配があることに気付いた。
「照吾、一馬、檻姫、カレンが死んだ。凪野が[刻印されし者達]と内通していたんだ。任務を放棄して行方知れずになった尽もグルだろう。全ては奴らが我々の情報を流したことが原因だ。光は現在単身で大阪へ向かっているらしい。冷司、お前はどうする?」
神園の声。横に目をやるとそこには冷司の部隊に配属されていたのとは別の仮面兵士。神園は彼らを通じて自分たちの動向を把握していたらしい。
「……俺だけ残されるのは嫌だな」
楽園の使者たちの死を報された冷司の心の大部分を占めていたのは悲しみでも凪野への怒りでもなく、死を以て運命から解放されたことを羨ましく思う気持ちだった。もう二度と彼らは記憶を操られることも、心を弄ばれることもない。願いは叶わなかったのだろうが、苦しみを抱えたまま生き続けるよりはその方がずっと良い。
「そうか、なら行ってこい」
仮面の兵士は神園の声でそう言うと、後ろ手に冷司を拘束していた手錠をひと蹴りで破壊した。次の瞬間、爆発的な具現化能力が冷司の体内から放出され、それは絶対零度の冷気となって滋賀湖上基地全体を包み込み一瞬にして湖ごと凍てつかせた。基地及び湖の周辺にいた人間は敵味方問わずすべて凍りつき、湖岸から離れていた者たちも恐怖で身を竦ませている。
「待て……!」
身体の大部分が氷漬けになり身動きが取れない状態ながら、猿藤が冷司に向かって必死に叫ぶ。
「俺が死ねば氷は消える。そう時間はかからないから安心しろ」
そう告げる冷司の目に宿る、他のあらゆる感情が全て削ぎ落とされたような純粋な殺意を前に猿藤は思わず息を呑んだ。
冷司は胸に手を当て、自身に刻まれた黒い刻印の跡を氷で覆った。内側から発せられる熱は全く治ることなく身体を蝕んでいるが、その痛みさえも心地良い。光も今こんな気持ちなのだろうか。あいつの獣化は怒りによって身体の大きさが変化するというのは聞いていた。怒るのが苦手な光は訓練で全く巨大化できず、また変化した見た目もヌイグルミみたいな姿のせいで気にも留めていなかったが、そう言われてみれば確かにあれは熊だったな。
ふと後ろを振り返ると、すでに仮面の兵士はその場から姿を消していた。しかも冷司と同じく拘束されていた大盾の仮面兵士[ウォーリアー]の姿もない。奴が連れていったのだろうか。まあ、俺には関係のないことだ。
冷司は鋼太の『噴射』と同じ要領で足下に冷気を具現化し、急激な温度変化により生まれた気流でふわりと空中に浮かび上がったかと思うと、急加速して鋼太が向かったのと同じ方向へ飛び立った。
同じ頃ーーー九州。
「斬佐、哲雄、宙太、後は頼んだぜ」
「ああ、任せろ」
「死ぬんじゃねえぞ!」
「……」
九州、四国は大阪から距離が遠く海を越える必要があり陸海路では到底間に合わないため、大阪本部からの緊急連絡を受け救援に向かえるのは『砂嵐』の具現化能力で空を飛べる大河のみだった。にわかには信じ難い報告の内容が真実だとしたら大河一人が行ったところでどうにかなる問題でもなさそうではあったが。
照吾との壮絶な戦いの後、目を覚ました大河は救援に駆け付けた犬飼から自分が気を失っていた間に起きた事の顛末を聞いた。手足をムチのように変形させる具現化能力を持つ仮面兵士を筆頭に多数の獣人兵士で構成される[具現者解放戦線]部隊との戦いで[陽炎旅団]を中心とした九州防衛部隊は予想通りかなりの劣勢を強いられ、負傷者の数も甚大なものになった。だが犬飼が連れてきた強力な助っ人たちの活躍により形勢は逆転、ついには撃退に成功したのだった。
中でも特に大きかったのは周防湊の存在。『鯱』の獣人であり『音波』の具現化能力を持つ周防は超音波を使って獣人とコミュニケーションを取ることができる。かつて四国のギャング、そして海賊団の長として多くの仲間を率いてきた周防の言葉は敵の獣人兵士たちに迷いと隙を生じさせ、そもそも指揮官不在の獣人部隊の統率を大いに乱した。獣化遺伝子との適合率が高いエリート獣人であるユキとカナも同じ獣人を相手に戦闘で遅れを取るはずもなく、さらに『治癒』の具現者、緑川雫がいるとなれば[刻印されし者達]側の勝利はもはや必然だった。大河も大きな代償が生じない範囲で雫の『治癒』を受け、先の戦闘で負った傷はある程度回復している。
敵の獣人兵士たちは雫による治療の後、鎮静剤を投与され彼らが乗ってきた船で眠っているのだが、処置を行ったのがドクター・カワサキだと聞いて大河は驚愕した。なぜならその人物は斬佐の妹である小町に獣化手術を行い地獄のような苦しみを味わせた張本人だったからだ。
「よく殺さずにいられたな」
意地の悪い聞き方だと思いつつも怒りを隠さず放たれた大河の言葉。もし目の前に奴がいたら自分を抑える自信はない。残念ながら大河が目を覚ますより先に彼らは四国に向かってしまったのだが。
「俺だって許せないが、当の本人が気にしてないどころか、獣人になって良かったと言うくらいだからな。俺からは何も言えないさ」
斬佐は苦笑しながら両手を広げた。良かった理由とは、間違いなく鋭の存在だろう。鋭がいる四国へ雫たちに付いて救援へ行ってしまうくらいだ。心配ではあるが、雫がいるなら少なくとも死ぬことはほぼない。何よりこれ以上余計な口を挟んで最愛の妹に嫌われたくなかった斬佐に、小町を止める術は一つも思い浮かばなかった。
大河が両手に力を込めると、そこからにわかに風が起こる。全快とは言えないが、大阪まで飛んでいく分には問題ないだろう。
「それじゃあ、行ってくる」
「待て、俺も行く」
急に呼び止められ、振り返った大河が驚愕の表情を浮かべる。
「いつの間に起きて……というか、動けるのかよ」
その人物は大河よりもずっと重傷を負っており、生きているのが不思議なほどだと言われていたはずだ。
「どうやら俺とこの装心具の相性はすこぶる良いらしい。身体から無限に力が湧き出るようだ」
雫は治療の一環として、彼のもとに自身の具現化能力『治癒』を宿した装心具を残していた。あくまで気休め程度のものでしかなかったが、まさかここまでの効果を発揮するとは彼女自身も想像していなかっただろう。
「……勝手にしろ。途中で力尽きても置いてくからな」
「それはこっちのセリフだ」
白く優しい光を放つ炎を全身に纏いながら、男は小さく笑った。




