172.鋼鉄の乙女
「全ての『呪縛』が、切れた……?」
離れた鎖を繋ぎ止めるように自らの身体をかき抱く檻姫、しかしそれはすでにただ一つとして残っていなかった。理由は分かっている。彼らは私でなく『呪縛』に抗ったあの『狼』の獣人に従うことを選んだ。あのときと同じように、私の手はまた空っぽになってしまった。
「そう、それなら手加減する必要はないということね」
その小さな背丈に不釣り合いなほど長い銃身のライフルを携えた瞳が堂々と檻姫の前に立つ。すでに鋭と、突然現れ私から彼を奪った鳥の羽を持つ少女はその場から姿を消していた。
「舐められたものね……私に手も足も出なかったのを、瞳ちゃんはもう忘れたの?」
檻姫の獣化『蛇ノ眼』が瞳を射抜く。視線を逸らす暇さえ与えない。さあ、どうあの子の自由を奪い、苦痛と屈辱を与えてやろうか。想像を膨らませながら右手を瞳に向けて掲げようとしたそのとき、乾いた銃声とともに檻姫の頬を一発の銃弾が掠めていった。
「……は?」
「次は当てる」
硝煙を上げる銃口をこちらに向けたまま言い放った瞳の視線は、間違いなく檻姫の金色の眼を捉えている。
「……調子に、乗るなッ!」
なぜ『蛇ノ眼』に見られた状態で自由に身体を動かせるのか、その理由を考えるより先に檻姫は瞳に向かっていくつもの先端が鋭く尖った杭を放つ。しかしそれらは瞳の周囲を浮遊するドローン型砲塔たちによっていとも容易く撃墜され地面を転がった。
「ぐあッ……!?」
突然走った激痛に思わず声を上げ片膝をつく檻姫。視線を落とすとスカートにひとつ小さな穴が開いており、瞳の放った『鉄』の銃弾はその下に隠れた檻姫の右膝を正確に撃ち抜いていた。その威力は、先ほど檻姫が鎖で弾き返したものとは比べ物にならない。
「この……ッ!」
瞳の足下に鉄柱を具現化し串刺しにしようとするが、『未来視』によってひらりと躱される。続けざまに放った蛇頭の鎖も視線を向けることすらなく次々と撃ち落としながら、瞳はゆっくりと檻姫のほうへ歩み寄っていく。
私が知っているあの子は少し小突くだけで壊れてしまいそうな、周りに守られるだけのか弱い人間だった。それなのに、なぜ攻撃が当たらない、なぜ動きを止められない、なぜ私を恐れない?
「ぐうっ……!」
新たに杭を具現化しようとした途中で今度は左肩を撃ち抜かれ、手のひらから杭がばらばらと零れ落ちる。直後、自身の左胸に刃物を突き付けられたような殺気を感じ顔を上げると、檻姫の視線の先、いつの間にか2、3メートルのところまで近づいていた瞳が構えるライフルの銃口が檻姫の心臓の位置を捉えていた。
「少しでも動いたら撃つ」
そう言いながら瞳は檻姫を拘束するため応援を呼ぼうと通信機を起動した。彼女の言葉に嘘や迷いは一片も感じられない。ほんのわずかにでも不審な素振りを見せれば彼女は躊躇いなく引き金を引き、私の攻撃が届くより先に彼女の放った弾丸は私の心臓を貫くだろう。血塗れで地面に這いつくばり頭上から見下ろされる私はさながら審判を待つ罪人のようだ。
「ふ……ふふ……あはははは」
「……なにが可笑しいの?」
絶体絶命の状況にありながら突然笑い声を漏らす檻姫に向かって訝しそうに訊ねる瞳。だが檻姫自身にもその理由は分からない。ただ目の前の少女のことがひたすら憎たらしく、妬ましく、羨ましかった。
「いい加減にしないと、本当に撃つわよ!」
「ははははは……」
しばし続いた不気味な笑い声がようやく止んだと思ったそのとき、檻姫の両目が眩い金色の輝きを放ち、瞳の身体が一瞬だけ石のように固まった。徐々に光が薄れ瞳が視界と身体の自由を取り戻した瞳の目の前に、無数の鎖や鉄の格子、彼女が具現化できるありとあらゆる拘束具で全身を覆い尽くした檻姫が立っていた。
凪野響子が楽園の使者たちの記憶を自分に都合の良いように改竄していたとカレンから聞かされたとき、檻姫の心の内を占めていたのは彼女に対する怒りや失望ではなく「次は何を心の拠り所にすればいいのだろう」ということだった。人一倍他者との繋がりや愛を求め続けてきたこの少女は、その数だけ裏切られることにも慣れていた。
元々妹を取り戻すことが目的である一馬は別として、カレン、照吾、冷司の三人は完全に凪野から離れることを選び、尽と光はそれでも彼女に付き従う道を選んだ。具現者は記憶に由来する感情の揺れ動きを力に変える。その点において、自らの生命や誇りを懸けて戦いに臨むだけの理由を持ち合わせていない檻姫の能力が怒りと正義の心に奮い立つ瞳に打ち破られるのは必然のことだった。
では、なぜ檻姫の『蛇ノ眼』は瞳の『千里眼』を貫き彼女の動きを止めることができたのか。その答えは至極単純、檻姫の二つ名である『嫉妬』に他ならない。きっと多くの人に愛されているのだろう、人形にして飾っておきたいと思ってしまうほど可愛らしいこの少女にこのままなす術なく敗北することが、檻姫はどうしても許せなかった。
「……っ!」
足下から突き出る鉄柱を『未来視』で予測しなんとか躱す瞳、そこへ間髪入れず檻姫が振るった右手の鎖が横薙ぎに襲いかかる。
「『点火』!」
ライフルを放った瞳の身体が銃撃の反動で後方へ吹き飛び鎖が空を切り裂く。放たれた銃弾は檻姫に命中したものの鋼鉄の鎧に阻まれ傷つけるには至らないが、瞳はその勢いのまま獣化で具現化した羽根を使って空中へと逃れた。先ほどは不覚を取ってしまったがすでに檻姫は足の自由を奪われ身動きが取れない。ここで体勢を整えもう一度、今度は絶対に油断しない。
「逃がさないわ」
「なっ……!?」
檻姫は具現化した無数の鎖のうちの一本を地面に突き刺し、それで自分の身体を押し出すようにして空中の瞳に向かって飛びかかった。そして左腕に巻き付いた鎖の先端、大きく口の開いた蛇の鋭い牙を瞳に向かって振り下ろす。瞳は再びライフルを放ち、甲高い金属同士のぶつかる音と同時に檻姫の左腕を弾き飛ばした。
「あああああっ!」
叫びながら檻姫が右手から放った鎖が瞳の持つライフルに命中し、その衝撃で手から落ちてしまう。続けざまに檻姫は鎖や手錠、杭を具現化しそれらを弾として次々と瞳に投げ付けた。銃を失った瞳は瞬時に両手にそれぞれ『鉄』のピストルを具現化、[キッド]仕込みの二丁拳銃の早撃ちで応戦していく。
檻姫と瞳、彼女たちのことをよく知る者であればとても考えられない、空中でのほぼ肉弾戦に近い撃ち合い。服が汚れることを嫌いこれまで鎖や鉄柱で遠くから相手を嬲ることしかしなかった檻姫が、今や自分と瞳の返り血で全身を赤く染めている。こんな戦い方は可愛くもなんともない、むしろ忌むべきものだ。それなのに、昂る感情のまま目の前の瞳に具現化の力をぶつけるたび、頭の中の靄のようなものが少しずつ晴れていく気がする。そして瞳もまた檻姫の思いに呼応するようにその場から一歩も退かず、全ての攻撃を正面から受け切っていた。
呼吸を忘れるほどの激しい攻防はその後も数分に渡って続き、ほぼ同時に力尽きた二人はついに地面に落下する。身体中に痛々しい傷を負っている瞳に対し、全身を鎖の鎧で守られた檻姫には外傷がないように見える。だが先に立ち上がったのは、瞳のほうだった。
「ぐ……ぅ……」
対する檻姫も立ちあがろうとするものの、右脚は小刻みに震え全く力が入らない。具現化した鎖によって身体を無理矢理動かしていたが、肉体の限界はもうとっくに超えていた。
「……笑いなさいよ。こんな姿になって、無様に地面を這う私を」
「笑わないわ。他人ではなく自分の力で戦い抜いたあなたの姿は、美しかった」
その言葉に自嘲するような笑みを浮かべる檻姫。ああ、そうだった。か弱いあなたの高潔な言動はいつだって私の心を掻き乱し、光に照らされた影のように私の見るに堪えない醜悪さを露わにする。
「惨めね……こんなだから、私は誰にも愛されない……」
あなたが美しい白鳥なら、わたしはみにくいアヒルの子。物語ならば最後は報われるのだけれど、あいにくこれは紛れもない現実だ。自分を白鳥だと勘違いしたアヒルには惨めな末路が相応しい。
「……他の人は知らないけれど、少なくとも白銀冷司はあなたのことを特別に思っているはずよ」
不意に飛び出した冷司の名に、檻姫が思わず瞳の顔を見上げる。格子に覆われているため表情は窺えないが、呆気に取られているだろうことは瞳にも容易に想像できた。
「……突然何を言い出すかと思えば……下手な慰めで、これ以上私を惨めにさせるつもり?」
もうずいぶん昔のことのように感じるが、そういえば以前に一度、ショッピングモールで買い物をしている鋼太と瞳に偶然遭遇したことがあったと思い出す。本当は自分たちの存在を公にしてはならないと言われていたのだけれど、どうしても外で遊んでみたくて冷司くんにお願いしたら、渋々付き合ってくれたっけ。そして瞳ちゃんたちに会ったと先生に言ったら二人揃ってこっぴどく叱られたのよね。でも、ただそれだけの出来事で、瞳に何が分かるというのか。
しかし、瞳がこう言ったのはそれだけが理由ではない。
「装心具は宿した具現化能力の持ち主に対する使用者の思いが性能に如実に現れる。彼の装心具には、あなたの具現化能力が宿っているでしょう?」
冷司が初めて『氷鎖』を使ったのは凪野が強化型装心具を開発して間もない、[刻印されし者達]大阪本部での獣化治療ワクチン奪還作戦の頃。あのときすでに冷司は今とほぼ変わらないほど装心具の扱いを完璧にマスターしていた。でも、それは。
「冷司くんに才能があったからよ」
「いいえ、私にはわかる」
瞳は即座に否定した後、ひとつ呼吸を置いてから、少しだけ躊躇うように次の言葉を口にした。
「だって、私も『鉄』の装心具を誰よりも早く、巧く使えたから」
一瞬呼吸が止まり大きく目を見開いた後、檻姫は顔に笑みを浮かべながら僅かに残された力を振り絞りもう一度立ち上がった。
「なら……その言葉を証明してみせて」
倒れそうになるのを必死に堪えながら檻姫が右手を高く掲げ、ありったけの具現化の力を込める。すると身体を覆っていた鎖が解かれ、右手の先に集まり一匹の巨大な蛇を形作っていく。
「ええ……見せてあげる」
瞳の腕の中に一丁のライフルが具現化される。それはこれまでに瞳が具現化したどの銃よりも大きく重かったにもかかわらず、まるで古くからの相棒のようにしっくりと手に馴染んだ。
「いっけええええ!!」
「点火!!」
二人の手から放たれた具現化能力の塊が衝突すると同時に辺り一帯が眩いほどの光に包まれ、凄まじい破裂音とともに鉄の銃弾が鎖の蛇を粉砕した。
閃光と轟音が止みその場に再び静寂が訪れたとき、瞳は地面に両膝をつき、檻姫は背中から仰向けに倒れていた。
「私、生まれて初めてお友達とケンカしたかもしれないわ……」
空を見上げながらそう呟く檻姫の胸には風穴が空いていた。瞳が放った銃弾は蛇の頭から尾までを一直線に通り抜け、最後に檻姫の身体を貫いたのだった。完膚なきまでの敗北、そして刻々と迫る死の気配。しかし檻姫の表情は、まるで憑き物が落ちたように晴れやかなものとなっていた。
「……いつの間に私たち、友達になったの?」
冗談めかした声で瞳が訊ねる。本当はこんなことを言っている場合じゃないのだけれど、もう一歩も動くことができない。
「だって瞳ちゃん、好きな人を教えてくれたじゃない……お友達って、こうして恋バナをするものでしょう?」
檻姫にそう言われたところで、瞳はそうだ、胸にしまっておいたものを自ら明かしてしまったのだと今更ながら気付き恥ずかしくなる。
「……そうね、私も友達が少ないから……嬉しい」
「……よかった」
檻姫が空に向かってゆっくりと手を伸ばす。
「ああ……楽しかった……今日は、とても、良い日……」
「駄目、もうすぐ助けが来るから、それまで頑張……」
瞳が言い終えるより先に檻姫の手からふっと力が抜け、胸の上に落ちる。
「檻……ひ……」
直後、瞳も檻姫の後を追うように前のめりに倒れ暗闇の向こうへと意識を手放した。