171.出来損ないの獣人
檻姫の目が突然光り輝くのと同時に『鉤爪』を振り上げた鋭の動きが停止し、直後両腕をだらりと下ろし脱力する。瞳の目には攻撃を受けるどころか触れてさえいないように見えていたが、鋭の身に何か良くないことが起きていることだけはわかった。
「桐崎さん!」
咄嗟に銃を構えた瞳が檻姫に向け銃弾を放つ。威力と速度は抑えてあるから当たっても檻姫と痛みを共有する獣人たちに甚大なダメージを与えることはないはず。しかしそれが仇となり、檻姫を守るように周囲を漂う鎖の先に容易く防がれてしまう。
「相変わらずねぇ、瞳ちゃん。そんな温いことをしてるから、こんなことになってしまうのよ」
檻姫がそう呟くのと同時に背中を向けていた鋭が瞳のほうへ振り返る。光の失われたどこか虚ろな目。それは檻姫のところへ向かう道中で戦った敵の獣人兵士のそれとまったく同じものだった。
「ぐ……う……ああああアアアッ!!」
急に胸を抑え苦しみ出したかと思った直後、鋭は咆哮を上げながら瞳に向かって『鉤爪』を振りかざし駆け出した。まさか鋭も『呪縛』の鎖に囚われてしまったのか。彼にはそれが見えていたはずなのに、どうしてこんなに簡単に。
「獣化『小鳥の囁き』!」
ひとまず瞳は獣化を発動し背中の羽根をはためかせて上空へと逃れることにした。鋭に空を飛ぶ術はないので彼の攻撃が瞳に届くことはない、しかし。
「落ちなさい」
待ち構えていたかのように檻姫の放った鎖が空中の瞳へ襲いかかる。瞳は『鉄』の銃でそれを撃ち落とそうとするが、なぜか引き金にかけた指がまったく動かせない。それどころか、身体全体が鉛のように重くなっている?
「くっ……!」
まずい、このままじゃ……その場から逃れようと全身に力を込めると、不意に身体が軽くなって動かせるようになり、ギリギリのところで鎖を回避することに成功する。さらに追撃の鎖を躱したところで瞳は確信に至った。
間違いない、あの目だ。金色に輝く檻姫の目を見ると身体がまるで石になったかのように動かなくなる。だが目を逸らしたり瞼を閉じて視線を切れば再び動かせるようになる。恐らく鋭もあの目を見て動きを止められてしまったことで『呪縛』の鎖を回避できず檻姫に操られてしまったのだろう。
「ふぅん……本来は眼球すら動かせないはずだけど、やっぱり瞳ちゃんの目は特別なのね」
カレンの『魅了』や神園の『調和』が起源者には効きにくいように具現化の力はより強い力で抵抗できるのが具現化能力の理である。だが獣化によって強化された能力はその限りではなく、カレンの獣化『黒山羊』は鋼太たちを残らず悪夢の底へ叩き落とした。檻姫の獣化『蛇ノ眼』も同様で鋭は為す術なく『呪縛』にかけられたが、具現化の力のうちほぼ全てが右眼の一点に集中している瞳の『千里眼』はそれすらも跳ね返す強度を持っていた。
「気に食わない……でも、一瞬でも止められればそれで十分だわ」
檻姫は再びいくつもの鎖を具現化し空中の瞳に向かって飛ばす。対する瞳も周囲に無数のドローン型砲塔を展開し迎撃の姿勢を取った。
「!?」
しかしドローンから銃撃が放たれることはなく、無抵抗のまま次々と鎖に貫かれ墜落していく。容赦なく襲いかかる鎖をよく見ると先端が蛇の頭の形になっており、大きく開いた口の上に檻姫のそれと同じく金色の眼が光っているのがわかった。
「まさか……」
試しに『視界共有』を遮断してみると息を吹き返したようにドローンが動き出す。瞳は具現化能力でドローンのカメラに映る視界を全て把握することで広範囲への精密射撃を可能としている。だがそれはつまり、檻姫の放つ鎖のどれかひとつでも視線が合えば全てのドローンが動きを停止してしまうということ。檻姫の獣化『蛇ノ目』は瞳にとってまさに天敵と呼べる凶悪な効果を持つ能力だった。
「撃って!」
砲塔から一斉に銃撃が放たれる。しかし視界共有を切った状態では正確に狙いを定めることができずその精度は著しく低下してしまう。
「ぐうっ……!」
そしてついに一本の鎖が砲塔の弾幕を掻い潜って身体に命中し、瞳はバランスを崩して地面に落下した。そこへ追い打ちをかけるように鋭の爪が襲いかかる。
「うああああっ!!」
身体能力の低い瞳では獣人である鋭の攻撃を避けることができず左腕を切り裂かれてしまう。瞳は燃えるような左腕の激痛を堪えながら残った右腕で鋭に向けて銃を構え、その姿勢のまま『小鳥の囁き』の羽根で大きく後方へ飛び距離を取った。
鋭に向けた銃口がカタカタと震える。操られているとはいえ、仲間に銃を撃つことなどできない。だがこのまま地上にいれば鋭の爪に、空中に行けば檻姫の鎖の餌食になるのは時間の問題だ。どうする、どうすればいい。そしてその迷いは瞳に決定的な隙を与えた。
「情けない顔ねぇ、瞳ちゃん」
鋭の向こうに立つ檻姫の金色の視線に貫かれ、瞳の動きが停止する。しまった、いつの間に。右眼に具現化の力を込め視線を逸らそうとするが、それよりも先に瞳の眼前に鋭の『鉤爪』が迫っていた。
「仲間の絆なんて、その程度のものでしかないのよ」
勝利を確信し微笑む檻姫。しかしその笑みはすぐさま崩れ苦痛に歪むこととなる。
「うああっ!」
突如右腕に走った激しい痛みによって檻姫が苦悶の声を上げる。見ると、右腕の肘から手首の間に複数の穴が開き、そこからとめどなく血が溢れ出していた。
鋭の『鉤爪』が貫いたのは瞳ではなく己の身体。鋭は今まさに瞳を切り裂こうとしたのと反対側の爪を腕に突き刺して無理矢理攻撃を止めていたのだった。
「フーッ、フーッ……!」
歯を食い縛りながら激痛に耐える鋭。
「どうして……今のあなたは自分の意志では指先ひとつ動かせないはずなのに……!」
『呪縛』の鎖は檻姫と鋭の身体を今も強固に結びつけている。この力に抗える者など、少なくとも従属の本能を持つ獣人には一人として存在しなかった。
「言うことを……聞きなさい!」
貫かれたのと反対の腕で右手を持ち上げ檻姫がさらに強い具現化の力を放ち、強制的に鋭の肉体を操ろうとする。しかし鋭は己の意志と精神力のみでその支配を跳ね返していた。
「残念だったな、俺は出来損ないなんだ。獣人の本能とやらも他の奴より薄いんだろう」
檻姫が率いる元[牙を剥いた獣]の残党である獣人の兵士たちはドクター・カワサキによる獣化手術を受けた中でも獣化の適合率が特に高かった精鋭であるのに対して、鋭は初期の実験体で獣化の適合率も低く外見上の特性もほとんど爪にしか現れなかった。
「……悪かったな、傷つけちまって」
切り裂かれた瞳の左腕に視線を落とし鋭が呟く。瞳の身体強度はほぼ一般人と同じ。本来なら先ほどの一撃で腕が千切れ飛んでいてもおかしくない。それがこの程度の傷で済んでいる理由はその時すでに鋭は『呪縛』の支配に抗っていたことに他ならない。
「後は頼んだ」
鋭はそう言うと爪が突き刺さったままの右腕をぶるぶると全身を震わせながら少しずつ上に掲げていく。彼はいったい何をしようとしているのか。
「桐崎さん……?」
「なぁ、痛みも共有するっていうなら、俺が死んだらお前はどうなるんだろうな?」
この緊迫した戦場にはあまりにも似つかわしくない清々しいほどの笑み。その言葉の意味を瞳が理解したとき、すでに鋭は掲げた爪を自分の心臓に向かって思い切り振り下ろしていた。
「駄目っ!!」
力の限り叫んだ瞳の目の前を、凄まじい速度で何かの影が通り過ぎていった。ずぶり、と確かな感触を以て『鉤爪』が貫いたのは、鋭本人ではなく腕が鳥の羽根に変形した少女の身体だった。
肩から胸の辺りを貫かれその傷と口元から鮮血を吹き出しながら、鋭の爪が自身の身体に届かず止まったのを確認して少女は安堵の笑みを浮かべる。
「良かった……間に合って」
「こ、小町……?」
信じられない、否、信じたくないという思いで呟く鋭。だがそこにいたのは紛れもなく、九州地域で[陽炎旅団]のメンバーと共にいるはずの『鳩』の獣人、棟方小町だった。どうしてお前がここに……いや、そんなことよりも。
「あなたは出来損ないなんかじゃない。とても強い人よ」
「あ、ああ……」
「だから、簡単に生命を投げ出すようなことは……もう、やめて……」
「やめろ、喋るな!」
急速に生気を失い、掠れていく小町の声。そんな……なら、お前の生命は俺よりも軽いとでも言うのか。そんな馬鹿なことが、あってたまるものか。
「また邪魔が……今度こそ!」
もう一度、檻姫が『呪縛』の鎖に具現化の力を限界まで流し込む。しかし鋭の身体はその侵入を拒み、行き場を失った力が鎖の中に留まっていく。
「うあああああああああああっ!!!!」
天を貫くほどの咆哮とともに鋭の全身から爆発的な具現化の力が放出された瞬間、『呪縛』の鎖はその膨大なエネルギーに耐えきれず粉々に砕け散り、それと同時に鋭の肉体も檻姫の支配から解放された。
「小町……小町! しっかりしろ!」
自由になった両腕で小町の身体を抱き締め、必死に名前を呼びかける鋭。だが大量の出血により身体は冷たくなり始め、意識も朦朧としている。このままでは、小町が!
「桐崎さん」
肩を叩かれ振り返った鋭の目の前に立っていたのは、直視できないほど眩い光を右眼から放つ瞳だった。
「先ほど寧音さんから、『治癒』の具現者が救援に駆けつけてくれたと通信がありました。彼女なら小町さんを助けられるはず。今すぐ基地へ帰還してください」
「でも、そうしたらお前は……」
「お二人をここまで傷つけてしまった全ての責任は私にあります……そのケジメは、私自身がつける」
瞳の言葉に頷き小町を抱きかかえその場を離れる鋭を見送り、檻姫に向き直る。瞳の心にかつてないほどの怒り、後悔、そして揺るぎない決意の波が押し寄せる。私には覚悟が足りなかった。これは戦争だ。戦わなければ、大切な人たちを守ることなどできない。その結果、たとえあなたを殺すことになったとしても。
同じ頃、防衛戦で戦闘を続ける寧音の耳にも、鋭の魂の叫びは届いていた。
「今のは……?」
「お前にも聞こえたか……『獣王』の声が」
そう呟く周防の声色には、畏敬の念とともにほんの少し嫉妬が含まれているような気がした。
「獣王……?」
「全ての獣人の上に立つ絶対の存在……俺も前は目指していたが、ついぞ成れなかったな」
自嘲する周防。彼はかつて瀬戸内海を牛耳る獣人海賊団のリーダーであり、[刻印されし者達]との戦いにおいて彼のために大勢の獣人がその生命を儚く散らしたのだと寧音は報告で聞いていた。そんな彼を超える存在に、桐崎くんが……?
「おい、あの声を集めろ。この場にいる全ての獣人に王の誕生を報せてやろう」
「わ、わかったわ……」
寧音が『集音』した遠吠えのような鋭の叫び声を、周防の『音波』が増幅し拡散する。その瞬間、刈谷や絹笠、その他[刻印されし者達]の守備隊と刃を交えていた全ての敵獣人兵士たちが虚ろだった目に光を宿し、正気を取り戻したのだった。
「俺は、何を……?」
「……攻撃が緩んだぞ、今だ!」
状況を飲み込めず狼狽えている隙に[刻印されし者達]の守備隊の反撃によって敵兵士たちが次々と取り押さえられていく。寧音の鼓舞、そして鋭の声で獣人たちを『呪縛』の支配から解放したことで、今や戦いの形勢は完全に逆転していた。
「あとは、あの射手か」
「ええ……ひとつ策があるの。私を、千弦の側まで連れていって」
戦況がひとまず落ち着いた後、刈谷たちを含む守備隊を前線から退かせ、寧音と周防は単独で暗い森の中に分け入った。未だこの森のどこかに潜んでいる仮面兵士を誘き寄せるための囮だ。[リンクス]の名に相応しい動きで音もなく忍び寄る仮面の兵士。だがそれでも寧音の耳は誤魔化せない。何より、私がどれだけ千弦と行動を共にしたと思っている。
「千弦、ストップ!」
寧音が叫ぶと同時に木立の一部がガサガサと音を立てて揺れ動き、その中から首元にナイフを突きつけられた仮面の兵士がその持ち主である深遠とともに地面へ落下した。
「ありがとう」
「いや……まさか本当に、敵の動きが止まるなんて」
素早く後ろ手にロープを縛り仮面の兵士を拘束した深遠に寧音が礼を言うと、深遠は心底驚いたように倒れ伏す仮面の兵士を見やった。
どんな時も私の指示には必ず従う。それが天羽隊における唯一の、そして絶対不変のルールだ。彼女はそれを忠実に守ったに過ぎない。
「千弦……私、寧音よ。わかるでしょう?」
抵抗を諦めた仮面の兵士に問いかけるが、反応はない。
「ここに留まるのは危険。早く基地へ連れて帰った方が良い」
深遠がそう言うと、寧音ははっとしたような表情になり、自分が落ち着きを失っていることに気付いた。
「……そうね、でもその前にひとつだけ確かめたいの。彼女の仮面を外してくれる?」
寧音に従い深遠が兵士の顔を覆う仮面を外す。寧音は恐る恐る、だがしっかりと感触を確かめるように余すところなく顔全体に触れていった。
「間違いない……千弦、千弦よ」
壊れものを扱うように両手を頬に優しく添えたまま、寧音の閉じた瞼の隙間から大粒の涙がとめどなく零れていった。