170.誰が為に
「刈谷、後ろ!」
「チッ……次から次へと!」
背後に迫っていた獣人の兵士を具現化した『鎌』で薙ぎ払い、顔に跳んだ返り血を腕で拭う。指揮官である伊集院寧音から[具現者解放戦線]の本格的な侵攻開始を報せる通信を受けて以降、予想を遥かに超える敵の激しい攻勢に[刻印されし者達]四国防衛部隊の被害はかなり大きなものになっていた。それは獣化の特性による優れた危機察知能力を有する刈谷と絹笠も例外ではなく、度重なる襲撃によって二人も相応のダメージを負っている。
「怪我人は?」
「もう近くには残っていない。じきに基地まで運ばれるわ」
絹笠の言葉に刈谷が安堵の表情を見せる。普通の人間が獣人を相手にするにはこの森の中は場所が悪すぎる。負傷者の基地への搬送と守備隊が体制を立て直す時間を稼ぐため、刈谷と絹笠は最前線に残り四方から襲いかかる獣人兵士たちを引き付ける囮の役割を懸命に果たしていた。
「……なあ、俺たちこんなところでいったい何をやってるんだろうな」
二人きりの森の中で、刈谷が肩で息をしながら独り言のように吐き捨てたのを聞こえないふりをして警戒を続ける絹笠。今のところ周囲に張り巡らせた『蜘蛛』の糸に敵の反応はないが、決して油断できるような状況ではない。ただ、彼女が無視をした理由は決してそれだけではなかった。
ドクター・カワサキによる獣化手術を受け獣人となった鋭、深遠、刈谷、絹笠の四人は旧政府の命令で[刻印されし者達]にスパイとして潜入したものの失敗し捕縛された経緯を持つ。その後、漆原とともに中庸派を離反した鋭を除く三人はそのまま大阪本部に残り島田政近子飼いの兵士として京都基地への襲撃に参加、仲間の隊員を巻き込む卑劣な戦法で梓と牙王を追い詰めたものの、救援に駆けつけた剣菱の逆鱗に触れ返り討ちに遭い瀕死の重傷を負った。鎮圧後はその残虐性から処刑が妥当という声も多く挙がったが、「彼らの意志ではなく獣人の本能によるもの」という広島基地を中心とした懸命の訴えにより執行を免れ四国の地へ送られた。寧音や鋭もいるため表立って何かを言われることはないが、詳しい事情を知らない一般隊員から白い目で見られることは今も少なくない。
つまり彼らのこれまではずっと、誰かに都合よく使われ、生命の危険に晒され、切り捨てられることの連続だった。お前たちは俺たちを仲間だと思っていないだろうが、それは俺たちだって同じだ。それなのに、どうして命懸けで守ってやらなければならないのか。言葉にはしないが、絹笠も内心では同じ思いを抱いていた。
「!!」
不意に絹笠の死角から彼女を狙って放たれた矢をギリギリのところで刈谷の鎌が叩き落とす。まったく、もう全部投げ出してどこかへ逃げちまおうかなんて考える暇さえ神様は与えてくれないみたいだ。四人の中で最も素早い深遠を負傷させた『弓』の仮面兵士、そしていつの間にか迫っていた複数の敵兵士の気配。手負いの獣がここから逃げおおせるのは不可能だろう。
「どうやらここが俺たちの死に場所らしいな」
「そうみたいね」
自嘲するような刈谷の呟きに絹笠も同意する。ああ、最後までクソッタレな人生だった。ならばせめて、一人でも多く道連れにしてやろうか。
「獲物はここだ! かかってこいよ!」
まさに獣の如き咆哮が静まり返った木々の中にこだまする。
「ガアアアアッ!!」
雄叫びを上げながら襲いかかる獣人兵士、そして間隙を縫うように放たれる矢の嵐を刈谷は両腕の鎌で、絹笠は手から放つ糸と背中の鋭い脚で必死に応戦し続ける。だが激しい戦いの中で鎌の刃はボロボロに欠け落ち、脚のいくつかは千切れ、再び具現化する力ももはや残されてはいない。どうやらここらが限界か。
何度打ち払っても攻撃を止めようとしない敵の獣人たちは決して理性を失っているわけではないようだったが、何かに追い立てられているような逼迫感はかつての自分を見ているようで、まあ普通の人間よりは同じ獣人に殺される方がまだマシかと思えた。しかし、そんなささやかな望みさえ叶えさせはしないとでも言うように、一本の矢が吸い込まれるように自分の胸のあたりに向かって飛んでくるのがはっきりと視界に映る。ああ、これは避けられない。瞼を閉じて運命を受け入れる刈谷。だがいつまで経ってもそれは訪れなかった。
「お待たせ、もう大丈夫」
ゆっくりと目を開けた刈谷の前にあったのは、仮面兵士の矢に脚を貫かれ治療を受けているはずの深遠の姿だった。深遠は掴んだ矢を握り締めてへし折ると、それが放たれた方角へ向かって猛然と飛び出していく。
「伏せて!」
聞き慣れた上司の指示に無意識のうちに反応してその通りに動く二人。だが普段とひとつだけ違ったのは、その声が通信機越しでなく直接耳に入ってきたことだった。
「カアッ!!」
次の瞬間、凄まじい轟音が鳴り響いたかと思うと地面に伏せていた刈谷と絹笠を除く獣人たちの身体が一人残らず吹き飛ばされ周囲の木々に激突した。起き上がった二人の鼓膜はまだビリビリと震え、草木も振動でざわめいている。
「二人ともよく耐えてくれたわ、もう大丈夫よ」
力強い寧音の声。だが目の見えないお前がこんな危険な場所に来て何になる、そもそもどうやってここまで……そう言おうと振り返ったところで二人は言葉を失った。寧音の身体が見知らぬ大柄な男の腕にすっぽりと抱えられていたからだ。
「今の攻撃は……アンタが?」
「ええ、彼は『音波』の具現者、周防湊。犬飼くんや『治癒』の具現者たちと共に救援に駆け付けてくれたの」
「別にお前らを助けに来たわけじゃない。借りを返すために仕方なくやってるだけだ」
黒と白がくっきりと分かれたメッシュ髪の男がぶっきらぼうに吐き捨てる。
「彼以外の獣人もそれぞれ救援に向かっているし、基地では『治癒』の具現者が負傷者の治療にあたってくれている。さあ、反撃を開始するわよ!」
寧音の声は周防の具現化能力『音波』に乗って辺り一帯に響き渡り、敵の勢いに折れかけていた隊員たちの心を再び奮い立たせた。
楽園都市にて獣化の侵食に苦しむ実験体たちを救い旅立った『治癒』の具現者、緑川雫一行は日本各地を遍歴し、その道中で出会った獣化や他の病気、怪我に苦しむ人々を治療して回った。都市部を除く国内の治安はまだ非常に悪く強盗目的の襲撃は一度や二度ではなかったが、非常に高い獣化適合率を誇る『白狼』のユキと『黄鳥』のカナ、護衛としてはいささか過剰とも言える戦力を連れていたためそれほど危険な目に遭うことはなく、彼女たちはひっそりと贖罪の旅を続けていた。
一方その頃、百々原、戌井らとの戦いに敗れた周防湊は獣人の脅威的な回復力によって奇跡的に一命を取り留めたものの、肉体へのダメージは非常に大きく依然として危険な状態が続いていた。彼の処遇について一任されていた犬飼は装心具への獣化能力の移植研究が一定の成果を挙げた後も治療法を模索し続け、僅かな手掛かりを頼りに獣化治療の旅を続ける雫たちとの接触に成功した。
[刻印されし者達]から新政府の関係者である疑いをかけられている雫とスパイを送り込んだ張本人であるドクター・カワサキは初め自分たちの素性を一切明かさなかった。そんな怪しい者たちを基地へ入れるなど普通なら考えられないことだが、もはや凪野やカワサキに並ぶマッドサイエンティストに成長した犬飼にとってそれは極めて些末な事柄であり、雫たちも苦しむ獣人を救うためならば断る理由もなく、極秘裏に行われた治療によって周防はほとんど全ての獣化能力を失う代わりに意識と肉体を取り戻すことに成功したのだった。
また彼らと関わる中で雫が『治癒』の具現者であることを見抜いていた具現化能力オタクの犬飼は、近く始まる[具現者解放戦線]との大規模戦争で大量に発生するだろう負傷者の治療に協力してもらえないかと願い出た。雫は迷った末、どちらか片方の勢力に肩入れすることはできないが、獣人が関わっている戦場で敵味方を問わず治療するという条件で協力を了承、[具現者解放戦線]の獣人兵士が投入された九州、そして四国地域への救援に駆けつけるに至ったのだった。