169.呪縛の鎖
束原檻姫の父親は、日本国内でも有数の大企業を経営する一族の御曹司だった。そんな父親のもとへ嫁いだ母親は生まれつき身体が弱く、跡取りの誕生を切に願う親族たちの期待とは裏腹になかなか子宝に恵まれなかった。だからこそ、長い不妊治療を経てついに子どもを授かった時の周囲の喜びはひとしおだった。檻姫は幸せな子どもになるはずだったのだ。
母親のお腹にいる子が女児だと分かると、親族たちの喜びは失望に変わった。由緒ある束原家を継ぐのは男児でなければならないという旧い観念が一族の者たちには未だに根付いていたからだ。親族から理不尽に責められる妻の様子に思い悩んだ父親は彼女に人工中絶を提案し、もう一度、今度こそ男児を授かろうと言った。身体が弱い彼女が二度の出産に耐えられるとは到底思えなかったからだ。しかし彼女は生まれてくる命に罪は無いとそれを断固として拒否した。その後、投げ掛けられ続ける心ない言葉による心労と出産時の肉体へのダメージが重なったことで、母親は檻姫の誕生と引き換えにこの世を去ることとなった。結果として檻姫は親族たちはもちろん、父親からさえ妻を奪ったことに対する憎しみに近い目を向けられ、まるで腫れ物のように扱われた。だから檻姫は父親の顔を全く覚えておらず、愛された記憶もないまま育った。
そんな檻姫に愛を教えてくれたのは赤の他人、しかも彼女を誘拐した犯罪者だった。誘拐犯は元々一般企業に勤める善良な市民であり、檻姫の一族により会社が買収されたことで職を失った男だった。困窮した彼は仕事を奪われた恨みから檻姫の誘拐を計画し、それは予想に反して簡単に成功した。檻姫を拉致、監禁した男は父親に身代金を要求したがその反応は鈍く、警察もなかなか動き出さなかった。不審に思った男が訊ねると、檻姫は「私のことなんて誰も心配していないわ」と諦めたように言った。話を聞いているうちに、男の中に檻姫に対する憐憫の情が生まれていった。そして檻姫も初めて自分の話を真剣に聞いてくれる男に対して徐々に心を開き、いつしか二人の間には奇妙な絆のようなものが育まれていたのだった。
知らない建物に監禁されていた檻姫は初めのうち逃げられないよう手錠で柱に繋がれていたが、しばらくして手錠を解かれ部屋の中でなら自由に過ごして良いと男から伝えられた。しかしなぜか檻姫はそれを嫌がった。男が理由を訊ねると、檻姫は「ここに居てもいいって言われてるみたいで安心するから」と笑った。だから必要な時以外、檻姫は手錠で繋がれたまま部屋で過ごした。檻姫にとってそこは生まれて初めて周囲の目を気にすることなく心から安らげる場所だった。
だがそんな日々は唐突に、そしてあっけなく終わりを告げる。ドアを蹴破って部屋に突入した警察の機動隊によって男は取り押さえられ、檻姫の身柄も確保された。隊員の一人が手錠を破壊しようとすると、檻姫は激しく抵抗した。混乱しているのだろうと気にも留めず隊員は拘束を解き、小さな身体を抱えて部屋の外へ出ようとした。
「いや!!」
檻姫はそう叫びながら隊員の腕を逃れ、別の機動隊員によって床に押さえつけられている男の側へ駆け寄っていく。必死に首を横に振って檻姫を制止しようとするが止まる気配がない。男は大きく息を吸い込み、力の限りに叫んだ。
「テメエらのせいで俺の人生は終わりだ! どこへでも消えちまえ!」
ずっと優しかった男の初めて聞く怒鳴り声に思わず檻姫の身体が硬直する。男は心の中で何度も檻姫に「すまない」と謝った。だがこうでもしなければ、檻姫は家に戻ってからこれまでよりさらに奇異の視線に晒されひどい目に遭うかもしれない。それは男から檻姫に向けた最後の優しさだった。
「どうして、そんなことを言うの……?」
しかし、愛に飢えた幼い少女にその思いは届かなかった。最初の突入からしばらく後、通信が途絶えたことで駆けつけた後続の機動隊員が見たのは、鎖に縛られ天井から吊るされた隊員たち、檻の中に閉じ込められた誘拐犯、そして部屋の中央で猟奇的な笑みを浮かべる檻姫の姿だった。
「屈め」
獣人の気配を察知した鋭が瞳の頭を押さえ、草むらに身を隠す。檻姫のもとを目指し森の中を進んでいた鋭と瞳は、これまでに数回[具現者解放戦線]の獣人と会敵していた。獣人は予想以上に戦闘力が高く、鋭をもってしても無力化にはなかなか骨が折れた。なので現在は体力の消耗と自分たちの位置が漏れるのを防ぐため身を潜めながら移動している。そうして敵兵士をやり過ごし、ついに二人は指揮官である檻姫の姿を視認できるところまで辿り着いた。
まるで散歩でもしているような、戦場には全く似つかわしくないゆったりとした足取りで歩を進める檻姫。しかし檻姫の姿をじっと観察していた瞳があることに気付く。
「怪我をしている……?」
フリルに彩られた黒いドレスのような優雅な服装の隙間から覗いた白く細い腕に血が滴っているのを瞳は見逃さなかった。隊員の誰かが檻姫と戦闘を行ったという報告は受けていない。それなのに、どうして? さらによく見ると頬や足、いたるところを怪我しているのがわかる。そしてその中にひとつ見覚えのある傷があった。鋭が敵の獣人に付けたものと同じ場所だったからだ。
「そこにいるんでしょう、瞳ちゃん?」
そう言って檻姫が立ち止まった瞬間、瞳の背中に冷たいものが走る。すぐさま鋭が身を乗り出し、瞳を庇うように檻姫との間に立つ。
「『呪縛』で繋がったお友達と私は全ての感覚を共有しているの。だから隠れても無駄よ?」
先ほどの獣人との戦闘、そこで既にこちらの位置と戦力は割れていたのか。隠れても無駄だと判断した瞳も『鉄』の銃を構えたまま身を潜めていた草むらから姿を現す。
「久しぶりねぇ、瞳ちゃん。また会えるなんて、とっても嬉しいわぁ」
全身で再会の喜びを表す檻姫に銃口を向けたまま微動だにしない瞳。無防備な姿、このまま引金を引けば難なく当てられてしまいそうなほどに。
「撃ってみる? いいわよ。当たりどころによっては誰か死んじゃうかもしれないけれど」
「何ワケのわからねえことを……」
吐き捨てるように言いながら鋭が手の甲から『鉤爪』を具現化して構える。
「待って!」
瞳の呼びかけに応じて鋭の動きが止まる。全ての感覚を共有するという檻姫の言葉、そして彼女の身体に刻まれた無数の傷跡。まさか。
「彼女を傷つけたら獣人たちにも……」
目や耳だけじゃなく、身体に受けた痛みも共有する効果があるということか。確かに思いのままに相手を操る強力な能力だが、そのデメリットはあまりにも大きすぎる。なぜそんな危険を冒してまで『呪縛』を?
「だって、お友達は喜びも苦しみも分かち合うものでしょう?」
檻姫はそう言って両手で自らの身体をかき抱き恍惚の表情を浮かべた。
「狂ってやがる……」
状況を理解した鋭が呟きながらどうするべきかと瞳のほうを窺う。檻姫に過剰なダメージを与えたら『呪縛』で繋がった者たちが死ぬ危険がある。だが、相手を傷つけずに『呪縛』だけを奪う方法などあるのだろうか?
「あなたも獣人なのね。私とお友達になりましょう?」
檻姫が鋭に向け右手をかざす。その直後、鋭は何もない空間へ『鉤爪』を振り下ろした。
「凄いわねぇ。見えるの?」
驚く檻姫。瞳にも何が起きたのか全く理解できなかった。
「なんとなく気配がわかる程度にはな」
鋭が装心具に宿した香取華の具現化能力『毒』を自らに施す『接種』は身体能力を強化し精神を鋭く研ぎ澄ませる効果を持っている。それによって鋭は檻姫が放つ『呪縛』の鎖を目に見えないまでも気配を感じ取ることができるようになっていた。それならば。
「桐崎さん、彼女と獣人たちを繋ぐ『呪縛』だけを断ち切ることは可能ですか?」
「……わからねえが、やってみるよ」
鋭はそう言うと再び両手の鉤爪を檻姫に向け構えた。
「『呪縛』以外の攻撃は私がカバーします」
「ああ、頼んだ」
鋭が檻姫に向かって飛び出していく背中を見送りながら瞳は悔しさに歯噛みする。鋭が『呪縛』に恐怖心を抱いていることを知りながら彼に託す他に術がなかった。私にもその鎖が視認できてさえいれば……。
「全部刈り取ってやるぜ」
鋭が檻姫の身体から出ている無数の細い糸のような鎖に向かって鉤爪を振りかざす。はっきりと見えてはいないが、これだけの数があれば適当に振っても当たるはずだ。檻姫は『呪縛』が断ち切られるのを嫌い身を翻すと、背中から具現化した実体のある鎖を無防備な鋭の背中に向けて放った。
「させないわ!」
鎖は鋭の身体に命中する前に瞳の放った銃弾によって撃ち落とされる。獣人海賊団との戦いを経て、鋭は瞳のサポート能力に全幅の信頼を置くまでに至っていた。『呪縛』を断ち切ることだけに集中しろ、他の攻撃はあいつが必ず止めてくれる。鋭はじわじわと心を侵食する恐怖心を振り払うように前方へ足を踏み出し檻姫との距離を詰めた。
「いらっしゃい」
真正面で相対した檻姫と目が合った瞬間、鋭の全身に怖気が走った。
「獣化『蛇ノ眼』」
その言葉と同時に檻姫の両眼が金色に輝いたかと思うと、鋭は自分がまるで石になったかのようにぴくりとも動かないことに気付く。そして微動だにしない鋭の身体をゆっくりと『呪縛』の鎖が貫いた。
「あなた、桐崎鋭くんって名前なのね。仲良くなれたら嬉しいわぁ」
薄れゆく理性と意識が途切れる直前、微笑みを浮かべる檻姫の背後に彼女と同じ金色の眼を光らせた無数の蛇が蠢いているのが見えた。