165.正義の反対
「はあああっ!!」
「くっ……!」
双葉が両の手足から縦横無尽に繰り出す猛攻を紙一重で凌ぎ続ける一馬。別人格であるルー、ランと融合し『合体・万能型』状態となった双葉の攻撃は、最初に拳を受けたときのような迷いや恐れといった感情を完全に振り切っていた。まるであの二人が双葉に勇気を与え背中を押しているかのような。しかし、一馬が圧されている理由はそれだけではなかった。
「うおおっ!!」
間隙を縫って放った一馬の拳がいとも容易く躱され再び双葉が攻勢に転じる。なぜ双葉は『怒張』に加え獣化『一角獣』で極限まで強化された一馬の動きに完璧に対応できているのか。肉体を強くすることはできても、視線の動きを鍛えるのには限界がある。本来、生身の人間が目視で捉えられるスピードではないはずだ。何か特別な仕掛けでもない限り。
「なるほど、そういうことか……」
激しい攻防の最中、右手首に装着された装心具が明滅するのに合わせて双葉の右眼が一瞬光り輝くのを一馬は見逃さなかった。御堂正義救出のため双葉とともに楽園都市に潜入したうちの一人、右目を眼帯で覆った小柄な少女の存在を思い出す。おそらく双葉の装心具には彼女の具現化能力『千里眼』が埋め込まれている。それならばこの異常な反応速度にも納得がいく。だが、装心具の性能を最大限に引き出すためには具現化能力の持ち主に対する信頼が必要だ。つまり双葉にとって彼女の存在は。
「はっ!」
思い切り振り上げた双葉の右脚が一馬の両腕を弾き飛ばして防御を崩す。続けざまに双葉は空中で身体を捻り、ガードの解かれた一馬の胸に向かって左脚を突き出した。完璧に捉えた、そう確信する双葉。しかしその脚が届くより先に、一馬の『熱拳』が双葉の腹に突き刺さった。
「ぐうっ……!?」
予測を超えた反撃に思わず後方へ飛び退いた双葉が腹を手で押さえながらその場に膝をつく。拳を受けた箇所が酷く熱い。見ると、服には黒い焦げ跡がくっきりと残っていた。
一馬の『怒張』は痛みを受けるほど、怒りを増すほどにその出力を上げていく。つまりこのとき一馬の心は、双葉、ルー、ラン三人の力を融合した『合体・万能型』の身体能力さえも上回る正義の怒りに燃えていた。
きっと小鳥遊瞳も、双葉を助けに戻った黒鉄鋼太も、彼らを逃がすため時間稼ぎに徹しようとした鏡透流も、強い正義感と心優しさを併せ持った者たちに違いない。なればこそ、彼らも双葉と同じく[刻印されし者達]の支配から救い出してやらなければ。[具現者解放戦線]の名の下に。
「心配するな。お前もお前の仲間も、俺が必ず守ってやるからな」
そう呟く一馬の両手は右手首の装心具に呼応するように赤く光り輝いていた。
「守る……?」
目の前にいる兄がいったい何を言っているのか、双葉には全く理解ができなかった。私を見捨てて家から逃げ出し、やっと手に入れた居場所を奪いにやって来たこの後に及んで、私たちを守るだと?
その瞬間、心の片隅にほんのわずかばかり残っていた「いつかもう一度兄妹として分かり合える日が来るかもしれない」という希望が脆くも砕け散るのを双葉は感じていた。いや、もはやこの男は兄ですらない。憎むべき敵だ。
「ふざけるな……!」
抑え込んでいた怒りの感情が臨界点を超え、身体の中から外へ溢れ出していく。
「ふざけるなあああああああっ!!!」
具現化能力が暴走した双葉が理性を失った獣のように一馬へ襲いかかる。
「やめろ、お前の身体が壊れるぞ!」
リミッターの外れた双葉が滅茶苦茶に放つ攻撃を受け流すように防御していく一馬。このまま戦い続ければ本当に双葉の肉体が限界を迎えてしまう。どうして。どうして分かってくれないんだ。俺はただお前のことを、お前を苦しめる者たちから遠ざけてやりたいだけなのに。
「いい加減にしろ、双葉!!」
叫びながら放った一馬の拳が双葉の顔を捉える。しかし双葉は攻撃の手を全く緩めない。もう一発、もう一発、互いに一歩も退かぬまま拳をぶつけ合う一馬と双葉。このとき一馬は生まれて初めて愛する妹の双葉に怒りの矛先を向けていることに自分でも気付いていなかった。
お互いに呼吸する間もない殴り合いがひたすら続く。膝が震え、目が霞み、意識が遠のいていく。そのときふと一馬の頭に、なぜ俺は双葉を殴りつけているのかという疑問が浮かんだ。一馬はそれを振り払うように、双葉を楽園都市に連れて帰るため、[刻印されし者達]というテロリストの支配から救い出すため、もう一度兄妹として、家族としてやり直すため、と必死に自分言い聞かせ続ける。
「うああああああっ!!」
しかし、己に向けられた明確な殺意が頭の中に張り巡らせた建前や理屈を容赦なく突き破る。眼前に迫る攻撃に一瞬反応が遅れ、回避はしたものの一馬が装着していたゴーグル型眼鏡の側部を掠め、砕け散ったゴーグルが空中を舞った。
間髪入れずに双葉が次の一撃を繰り出すのとほぼ同時に一馬も赤く燃え上がる拳を放ち、交差した拳が互いのもとへ迫っていく。しかしその速度はほんの少しだけ一馬の方が速かった。悪いな、双葉。仕方ないんだ、こうするしか他に方法はなかった。
そのとき不意に雲の切れ目から太陽が顔を出し地上に降り注いだ光によって、一馬の視界は真っ白に埋め尽くされた。
でも、これじゃあまるで……。
次の瞬間、激しい衝撃に吹き飛ばされた一馬の身体が背中から監獄基地の固い城壁にぶつかり、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「……どうして、わざと攻撃を外したの」
ふらふらと覚束ない足取りで一馬のもとへ歩いてきた双葉が、信じられないという表情で訊ねる。一馬は壁に背を預けたまま脱力し動く様子はない。双葉もまたすでに力を使い果たし、もはや立っているのがやっとの状態だった。
「外したんじゃない……外れたんだ」
そう言いながら一馬が自分の右眼を指差す。指し示された本来黒色であるはずの一馬の眼球は白く濁っていた。
「それ、まさか……」
「白内障だ。ゴーグルをしていれば問題なく見えるんだが」
勝負を決めた最後の一撃の直前、掠めた双葉の拳によってゴーグルが破壊され、目に太陽光を直接浴びた一馬は完全に視界を失った。
「本当に、それだけ?」
もう一度双葉が訊ねる。それが理由なら、そのまま振り抜けば命中していたはずだ。しかし間違いなく一馬は、意識的に拳の軌道を逸らしていた。
一馬はしばらく無言を貫いていたが、双葉が引き下がらないのを見て諦めたようにため息をついた。
「……あの瞬間、気付いたんだ。俺がやっていることは、かつて親父が俺にしていたのと同じだということに」
暴力と恐怖により己の意思に従わせる。それはまさしく一馬と双葉が父親から受けていた修練という名の虐待そのものだった。
「どちらにせよ、俺が負けたことに変わりはない……強くなったな、双葉」
そう言って力なく微笑む一馬へ返す適当な言葉が思い付かず、双葉は思わず顔を背ける。もう肉体的にも精神的にも限界だった。今は何も考えることなく、ただ休みたい。[具現者解放戦線]の兵士たちとの戦いは現在どうなっているのだろうか。戌井さんや漆原さんたちは無事なのか。高い壁に囲まれたこの場所から外の様子を窺い知ることはできない。
そのとき突然、双葉たちのいる場所から程近くで大きな爆発音が鳴り響いた。爆発は連鎖的に、双葉たちを取り囲む城壁に沿うように次々と巻き起こっていく。
「な、何……!?」
「……壁が崩れるな。もしかして、と思っていたがやはりそういうことだったか」
特に慌てる様子もなく、一馬が背にした城壁を見上げながら呟く。まさか、兵庫基地は最初からそのつもりで一馬をここへ誘い込んだのか。
「早く逃げないと……!」
このままでは二人とも崩れた城壁に潰されてしまう。一馬が入ってきた城門は閉ざされたままだ。あれを壊す力は、いや、そもそもあそこまで辿り着く力すらもう残っていない。
「双葉」
何かに腕を掴まれ、双葉が振り返る。もはや立ち上がることすらできないはずの一馬が双葉の身体を地面に引き倒し、その上から庇うように覆い被さる。そこから逃れようにも、全く身動きが取れない。あのボロボロの身体のどこにこんな力が残っていたというのか。
「危ないから動くなよ。この下にいれば平気だ、俺の身体は誰よりも頑丈だからな」
何度目かの爆発音の後、崩れた城壁が上から監獄の中へ次々と降り注ぐ。俺の役目は双葉を双葉を守ることだ。これだけは、何があってもやり遂げてみせる。
「済まない、双葉。どうか生きて、幸せに……」
「そんな、嫌だ、お兄ちゃん……!」
泣きながら訴える双葉の顔を見て、一馬が幸福そうに笑う。
「ありがとう、こんな俺を兄と呼んでくれて」
「嫌だ、嫌だ……!!」
次の瞬間、双葉の視界は暗闇に覆われ、叫び声は城壁が崩れ落ちる轟音にかき消されていった。