107.圧倒 ●
遡ること一時間前、広島基地で勤務中の漆原張臣のもとに一本の緊急通信が舞い込んだ。
「どうしたのよ?」
表示された文面を見て呆然と立ちすくむ漆原を不審に思った柳木舞が訊ねる。彼女は今月から岡山基地を離れ司令官代理である漆原の補佐役として広島基地に勤めている。
「これ……」
青ざめた顔の漆原が通信機に表示された文面を柳木に向ける。
「……今すぐ[執行人]を全員招集しなさい!」
「ハイッ!」
柳木の怒号が飛んでから数分後、未だ怪我で療養中の桐崎と出動中の者を除く全ての[執行人]隊員が司令室に緊急召集された。
「京都基地が襲撃を受けている……!?」
漆原から告げられた緊急通信の内容に一同が驚愕を露わにする。中でも京都基地出身者である剣菱はその事実に言葉を失っていた。
「今すぐ救援に向かいましょう! 次は私たちが助ける番です!」
「だが広島から京都まで車で数時間はかかるぞ」
口々に意見が飛び交う中、鋼太が身を乗り出して述べる。
「オレが行きます! 『噴射』を使えば車よりずっと早く到着できる」
「……君はまだ本調子には程遠い。そんな状態で一人で行ってもどうにもならない」
治療を担当していた石動が諭すように応える。鋼太は入院こそしていなかったが先日の海賊たちとの戦いの怪我が完全に癒えておらず、まだしばらくの期間は休養するように言い渡されていた。
「でも!」
だからと言ってこのままじっとしているわけにはいかない。そう反論しようとした鋼太の言葉を遮るように、じっと黙り込んでいた剣菱が徐に口を開く。
「黒鉄くん、人間を乗せたまま『噴射』で飛ぶことは可能か?」
「……はい!」
「なら俺を京都まで運んでくれないか。その後は、俺がなんとかする」
鬼気迫る剣菱の表情に誰もそれ以上口を挟むことはできず、先発隊として鋼太と剣菱が基地を飛び出し、追って出動できる限りの隊員が車で京都へ向かうこととなった。
「牙兄さんは休んでいてくれ。これ以上動くのはいくら兄さんでも危険だ」
「ああ……少しの間だけ、休ませてもらおう」
牙王がそう言って地面に膝をつき、眠るように意識を失うのを見届けた後、剣菱が蟷螂の獣人へ向き直る。
「誰だか知らねえが、二人仲良くあの世へ送ってやるよ!」
両手を振りかざし男が剣菱に襲いかかる。彼は確かに獣人としての人間離れした身体能力と恐ろしく鋭い鎌を持っていたが、本来まともに戦って牙王が負ける相手ではない。それがここまで追い詰められた理由は、島田から事前に伝えられた牙王の弱点とそれを最大限に活かした味方の犠牲を前提とする作戦にあった。当然ここにいるはずのない剣菱の情報は伝えられておらず、その実力を知る由もない。無警戒に懐へ飛び込めばいったいどうなるか。それは火を見るよりも明らかなことだった。
「……は?」
一閃。剣菱が両手に具現化した日本刀がそれぞれ片方ずつ、綺麗に腕の先を切断していたのに男が気付いたのは、空高く舞い上がった鎌が地面に落ちて突き刺さった後だった。
「ギャアアアアァッ! う、腕がァ!」
この一瞬のうちに自分の身に何が起きたのか理解できずにいた男が、あまりの痛みに絶叫を上げながら地面をのたうち回る。
「ハッ……ハッ……!」
恐怖のあまり這ってその場を離脱しようとする男にゆっくりと剣菱が歩み寄り、その背中に思い切り刀を突き刺す。
「グアアアアッ!!」
「獣人の再生力はよく知っている。後でじっくり話を聞かせてもらうから、ここで大人しくしていろ。わかったか?」
恐る恐る覗き見た剣菱の眼光に心臓を鷲掴みにされ、男は全身を震わせながら小さく頷いた。
「クソッ……思っていたよりまずい状況だな」
辺りを見渡しながら剣菱が呟く。京都基地内のほとんどの建物が炎に包まれ、すでに本堂にも火の手が回っている。守備隊も懸命に持ち堪えているが、万全の耐火装備を備えた圧倒的に数に勝る副司令派部隊の攻勢を前にすでに半数以上が倒れていた。このままでは遅からず全滅する。
「君たちも、俺の剣の錆になりたいか?」
剣菱が放つ殺気に気圧され、周囲の隊員たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。一人ひとり相手にしていたらキリがない。まずは梓姉さんと合流して体制を立て直そう。そう考え梓の姿を探していた剣菱の目に、信じ難い光景が飛び込んできた。
「ほら、よく目に焼き付けておきなさい。大切な居場所と仲間が炎に焼かれていく様を!」
京都基地本堂の正門前、手足を糸で縛られた状態で木に吊るされた梓に向かって蜘蛛の獣人が吐き捨てる。彼女は島田ともう一人の獣人が本堂の中にいる宮本と豊国を探しているところに邪魔が入らないようにする見張りの役目を受けていた。京都基地の隊員が救助に近づこうにも梓を人質にされては迂闊に動けない。
「くっ……さっさと殺しなさい!」
「そんな生意気な口を聞ける立場かしら?」
女が無防備な梓の腹を殴りつける。
「ぐうっ……!」
獣人の力で具現化した糸は非常に強力で振り解こうとしても梓の腕力ではもびくとも動かない。本堂にまで攻め込まれるこの状況を招いたのは私の失態だ。私がここに囚われているせいで『治癒』の具現者のもとへ負傷者を運ぶこともできない。
「イライラするわ。死なない程度に痛めつけてやりましょうか」
「放せ」
鋭く冷たい声に梓に拳を向けていた女の動きが止まる。振り返るとそこにはこちらへゆっくり歩み寄ってくる一人の男。
「瞬……ちゃん……?」
驚きに目を見開き、梓が呟く。
「もう一度だけ言う。姉さんを放せ」
「それ以上近づいてごらんなさい。この女を殺すわよ」
蜘蛛の獣人が背中から生えた鋭い爪を持つ脚のひとつを梓の胸に押し当てる。しかし男はまるで彼女の言葉が聞こえていないかのように一切の躊躇なくこちらへ向かってくる。
「殺すって言ってんのよッ!!」
蜘蛛の獣人が梓の胸を貫こうと力を込めるよりも疾く、剣菱が一瞬にして相手の懐に潜り込んで刀を振り上げると、蜘蛛の脚は血飛沫を上げながら空中へ斬り飛ばされていった。
「……貴様ァッ!」
女が剣菱に向かって背中の反対側から生えている脚を振り下ろす。しかし剣菱は左手に具現化した刀で硬い攻殻に包まれた二本の脚をいとも容易く斬り払った。
「ギィアアアッ!!」
断末魔の叫びを上げる女の胸元に狙いを定め刀でひと突きした剣菱は、そのまま刀を梓が吊るされているのと同じ木に突き刺して固定した。串刺しにされた蜘蛛の獣人は身体を一度痙攣させたのち、脱力して動かなくなった。
「梓姉さん!」
身体を拘束していた糸を断ち切り、梓の身体が地面に落ちる。
「瞬ちゃん、私よりも先に牙ちゃんを……!」
「牙兄さんならもう大丈夫。あの人は殺したって死なないさ。ところで、凛と蓮は?」
「二人はいま大阪でここにはいないわ。それより、本堂にまだ司令官と豊国総司令が……!」
「何だって……!? 姉さんはまだ動ける?」
梓は身体を起こそうとするが、うまく力が入らず立ち上がることもできない。
「くっ……毒のせいでまだ痺れが取れないわ」
「……そうか」
凛と蓮が不在で梓も牙王も戦えないこの状況でこの場を離れることはできない。合理的に考えれば司令官を救うのが最善だが、剣菱にとって京都基地は今でも故郷であり、隊員たちは何より大切な家族である。誰一人として見捨てることなどあってはならない。
「すまない、黒鉄くん……頼む……!」
剣菱は一度だけ炎上する本堂を見上げてから、その光景を振り切るようにして駆け出し、未だ燃え盛り続ける戦場に身を投じていった。
京都基地の裏手側に到着後、長時間に渡る『噴射』で体力を使い果たした鋼太は少しだけ休息を取って呼吸を整えた後、剣菱を追って基地の敷地内を進んでいった。
その途中、基地内で最も大きな建物の中から非常に強い具現化能力の発動音が聞こえ、鋼太は思わずその場に立ち止まった。誰かが戦っているのか。ここもいずれ火の手に包まれる。その前に救出した方が良い。そう考えた鋼太が本堂の中に入ろうとしたとき、別の方向から一人の自分と同じ年頃の少年が現れるのが目に入った。
その人物は、基地襲撃によって鋼太が神奈川を離れてからずっと会って確かめたかった、だが今この瞬間には誰より会いたくなかった男だった。
「照吾……!?」
自分と同じく急いでここまで来たのだろう、息を切らせている照吾が名前を呼ばれたことを不審に感じながら警戒の構えを見せる。
「誰だ、テメエ……?」
死の間際まで言葉を交わしていた自分のことを、照吾は覚えていない。だが今の鋼太にとってはどうでも良いことだった。そんなことよりも。
「これをやったのはお前か?」
突如京都基地を襲い建物を包み込んだ炎によって、おそらく多数の死者が出るだろう。新政府の人間である照吾にはそれを行う理由も、それだけの力もある。
「だったら何だよ?」
鋼太の脳から感情のトリガーが外れ、爆発的な具現化能力の音が鳴り響く。右手に持った鉄パイプから、漆黒の炎が燃え上がる。
「許さない。オレがお前を断罪する」
その言葉と肌を打ち付けるような激しい音に照吾は思わず口角を上げ、頬の火傷跡が歪んで形を変えた。
「面白ぇ冗談だ。それに免じて黒焦げで許してやるよ」
照吾の右手から真紅の炎がまるでダンスを踊るように舞い上がり、右腕全体を覆っていく。
黒と赤。二つの炎が互いを飲み込み燃やし尽くさんとする戦いが始まろうとしていた。




